うさぎさんとくまさん
「ねえねえ、うさぎさんとくまさんとどっちがすき?」
部屋に駆け込んできた子どもが、ベッドに頬杖して訊ねた。
子どもは唐突にわけのわからない質問をするものだと、経験で覚えてしまった男は問い返した。
「おまえは ...
投げる
もう長いこと、ものを食べたいと思ったことはない。「なぜ私が兄なのだ」のろのろと匙を動かしながら、膝の上のトレーに置かれたシチューから意識を逸らすために、私は話をする。部屋を出て行こうとしていた女は、少しだけ瞳をきらめかせる。これは面白がって ...
立ち話
女がアパートの前で誰かと立ち話をしている。下世話で五月蝿い喋り声は近所の主婦だ。 子どもと病気のご主人を抱えて大変ねえ あなたまだ若いのにねえ赤の他人にそんなことを言われて、何故怒らないのか。出会ってから怒った顔を見 ...
酔う
いつもより随分遅い時間に戻ってきた女は酔っていた。自制出来ない人間は嫌いだ。だから酔っ払いは嫌いだ。狭い玄関を入ったところで、立てなくなっている女を見下ろして、子どもは途方に暮れている。「お母さん。風邪引いちゃうよ」「あら、あなたどうして起 ...
子守り歌
遠くでなにかが聞こえる。目を開けると、周りは薄闇だった。女はいつもベッドの下に、小さなライトをつけたままにしていく。なぜそうするのかは知らないが、別に構わない。少しの灯りがあると、夜は私を飲み込まない。声は女と子どもがいるダイニングから聞こ ...
きれいごと
生い立ちが、というのは勿論あるだろうけれど。
彼が辿ってきた道が険しいなんてものではなかったことも、わかっているけれど。
それにしたって、随分僻みの強い性格だ。
でもこの男、自分で言うほど人間が嫌いでは ...
チャンス
物が落ちる音がして、それから泣き声がした。私はしばらく考えてから体を起こした。忌々しいこの体は、壊れているくせにいつまでも動く。子どもは保温ポットの湯を被り、狭い台所で体を丸めていた。女は毎朝出かける前、熱を発するすべてのものに、触れてはい ...
拾う
誰かがうずくまっていた。丸めた背中の大きさからして、かなり体格のいい男だ。マリューの住んでいる地区は、真ん中よりやや落ちる生活レベルの住人が多く、行き倒れを見かけることもたまにある。そういう人を見かけても、子どもにも近寄ってはいけないと教え ...
雨を降らせるもの
雨が降っていた。それも土砂降りの。傘を差しても、子どもと手をつないでいるほうの肩から先はずぶ濡れだ。子どもには黄色いレインコートを着せているから、風邪を引かせる心配はない。大丈夫。この子はマリューの命だ。この子がいなければ、別の生きる意味を ...
還る
空になった小さな陶器を持ったまま、マリューは水平線を見つめた。気づくと波が腰の高さまで来ている。戻らなければ。そう思って振り向くと、子どもが追いかけてきていた。「お母さん」あ、と思う間もなく、波に足を取られて子どもはひっくり返り、マリューは ...