還る
空になった小さな陶器を持ったまま、マリューは水平線を見つめた。
気づくと波が腰の高さまで来ている。
戻らなければ。そう思って振り向くと、子どもが追いかけてきていた。
「お母さん」
あ、と思う間もなく、波に足を取られて子どもはひっくり返り、
マリューは慌てて波をかきわけて近づき、抱き起こした。
「なにしてるの。待ってなさいって言ったでしょ」
「だってお母さん、向こうに行っちゃいそうだったんだもん」
ずぶ濡れなのでわかりづらいが、子どもは泣きべそをかいていた。
「お母さんは死んじゃったりしないよね」
「当たり前でしょ。死んでたまりますか」
マリューは容器を子どもに持たせ、よいしょ、と抱き上げた。
「重くなったわねえ。
もうすぐこんなふうに抱っこは出来なくなるわね」
えへへ、と照れ笑いしながら、子どもはマリューに抱きついた。
「ねえ、これ、どうするの?」
しっかり握った容器を示して、子どもが問う。
「そうね。お花でも植えましょうか。確かチューリップの球根があったわ」
「じゃあ、ぼくが水遣りする」
灰は海に撒いて、墓は作らないでほしい。
男はそう言い残した。
この世に存在した痕跡を一切残したくないと。
彼が心から安らかだったか、マリューにはわからない。
マリューはただ、子どもが父親を求めているので、その役割にふさわしい男を選んだだけだ。
そのためにマリューが費やした労力が、傍目には献身と映ったとしても、
マリューは自分の本心を知っているし、男も知っていた。
早春の海はまだ冷たく、波打ち際に向かって歩き出したマリューは、砂浜に誰かいるのに気がついた。
プライベートビーチなので、他人が入ってくることはありえない。
不審に思って目を細めると、誰であるかわかった。
ああ。
とマリューは思った。
そして実際にそう音にしてみる。
小憎らしいことをする。
今はもう、地球の一部になってしまった男に対してそう思う。
どのようにしてか、自分が死んだら連絡が行くようになっていたのだろう。
彼一流の皮肉か、それとも温情か。
たぶん両方だろう。
「お母さん」
人影に気づいた子どもが、期待のこもった声でマリューを呼ぶ。
勘のいい子だ。
もう気づいているのだろうか。あれが誰だか。
平穏でいびつなのにバランスの取れた日々は終わった。
これから始まる新しい展開に内心うんざりしながら、マリューはゆっくりと砂浜に向かって歩き出した。