(3)
ティエリアの住まいは3LDKのマンションだ。
熱心なファンが押しかけてくることがあるので、セキュリティー重視、家賃と光熱費は王留美が払っている。
「君の荷物は明日にでも運び込めばいい。
たいした量でなければ、スメラギ・李・ノリエガの車で事足りるだろう」
リビングに通されて、ティエリアは首を振った。
「荷物はこれだけだ」
スポーツバックひとつを軽く持ち上げる。
「それだけ? 君は貧乏なのか?」
「まあそうだ」
納得したティエリアは、刹那をテーブルに着かせると、電気ケトルで沸いたお湯でティーパックの紅茶を淹れた。
「君用のカップを買わないといけないな」
隙間だらけの食器棚の客用セットからひとつ取り出し、同じくティーパックを入れてお湯を注ぐ。
「あと、茶碗と普通の椀とそれから」
指を折るティエリアに、刹那は頷いた。
「明日買ってくる」
「僕が買おう。必要経費は請求出来る。貧乏なのだから、無理をすることはない」
普通たとえ本当のことであっても、二度も貧乏と言い切られては気分を害しそうなものだが、刹那は一向気にする様子がなかった。
「君の部屋はあちら。僕の部屋の前だ。空いている部屋はもうひとつあるが、そちらは狭い。まあ好きなほうを選びたまえ」
「ここにひとりで暮らしているのか」
「ああ」
「家族は?」
「いない。僕も君と同じようなものだ。持っているのはこの身ひとつだ」
ティエリアは床に置かれた刹那のスポーツバックに目をやった。
「本当に僕のものだけを集めたら、やっぱりそのくらいのバッグに納まるだろうな」
「あんたにはフィギュアスケートがある」
慰められたのかと思い、プライドを傷つけられたティエリアはむっとしたが、刹那は真顔だった。
変なヤツ、と思いながらティエリアも刹那の向かい側の椅子に座った。
「君はどこからの留学生なんだ」
「クルジス」
ああ、クルジスか、と呟いたティエリアに刹那は意外そうに問うた。
「知っているのか」
「中東の小さな国だろう。アザディスタンに隣接している」
ティエリアがテーブルに指で地図を描いてこのあたり、と示すと刹那は笑った。
「この国でクルジスを知っているやつに初めて会った」
「僕もクルジス人に会うのは初めてだ。国費留学生か? なにを学びに来た」
「ガンダム」
「なるほど…ガンダムか」
刹那は頷いた。
「クルジスは貧しい国だ。だから俺はガンダムで国を豊かにしたいんだ。そのためにはどんな努力も苦労も厭わない」
訥々と力強く語る。
「そうか。そういうことなら及ばずながら、この僕ティエリア・アーデも応援しよう」
「ありがとう」
友情成立。
ガンダムってなにって聞かないであげて。
そこでふとティエリアは思いついた。
「ガンダムを学ぶことと、フィギュアは関連があるのか?」
刹那はほんの僅かに言葉を詰まらせた。
「いや…、あれは」
目を伏せた刹那に、ティエリアはそれ以上追求しなかった。
「いいさ。人にはそれぞれ事情がある」
話に夢中になるあまり、すっかりぬるくなった紅茶に口をつけながら思い出した。
「アザディスタンといえば、マリナ・イスマイールを知っているか」
刹那が紅茶を噴出した。
「…汚いな」
ティエイアが眼鏡をはずして、レンズを拭いた。
「すまない…」
「まあいい。マリナ・イスマイールだが、昨シーズン限りで公務に専念すると引退したが」
刹那は激しくむせはじめた。
「げほげほげほげほげほげぼっ」
飛んでくる唾を避けて、ティエリアは椅子を引いた。
「…大丈夫か?」
「平気だ…」
ティエリアは目をすっと細めた。
「マリナ」
がしゃーん!
「イスマイール」
ばたーん!
「マリ」
よろり。
「ナ・イスマイール」
ふらふら。
椅子の足にすがりついた刹那が、ティエリアを見上げた。
「俺で遊ぶな」
「反応するようにプログラムされているのかと思ったぞ。マリナ・イスマイールの」
名前に、と言おうとしたティエリアの口を、刹那が伸ばした手で塞いだ。
「…よせ」
「わかった」
飽きてきたので、ティエリアは頷いた。
だが刹那がペアを組みたい相手がなんとなくわかった。
マリナ・イスマイールは去年までこの国に留学していたアザディスタンの皇女で、 刹那同様公式戦には出られなかったが、気品あるスケーティングが人気でエキシビジョンなどに出ていた。
ティエリアは腕を組んで「ふむ」と呟いた。
「刹那。明日本物のペアを見に行こう」
マンションの前にグレーのワンボックスカーが止まった。
「はーい、ふたりとも。よく眠れた?」
助手席側の窓から顔を覗かせたスメラギに刹那は小さく頭を下げたが、ティエリアは顔を顰めた。
運転席に座っているのがロックオンだったからだ。
「よう、少年達」
「なぜおまえがスメラギ・李・ノリエガの車を運転している」
質問にはスメラギが答えた。
「明け方まで飲んでたから、私じゃ飲酒運転になっちゃうのよー」
「だからといってなぜこの男が!」
「親切なのよ、ロックオン。刹那とティエリアを送っていきたいから運転してくれないって電話したら、すぐ来てくれたの」
へらへらーとスメラギは笑った。
「ダメよ、ティエリア、わかってるでしょ。前の日から言ってくれなきゃ、私午前中は絶対アルコール抜けてないんだから」
そんな自信満々に言うことだろうか。
しかしそれがスメラギなのだから仕方ない。
今日ティエリアが行きたいのは、隣の県にあるスケート場だ。
電車で行ってもいいのだが、ティエリアは目立つので、特にスケート関係では車での移動を推奨されている。
女性ファンにきゃーきゃー言われるくらいはいいのだが、男性ファンに抱きつかれたことが過去にある。
ちなみに痴漢行為に及ばれるのも問題だが、痴漢行為を働いた輩を徹底的に叩きのめし、病院送りにしたティエリアもスケート連盟から厳重注意された。
「お、なんだ、今日、眼鏡っこじゃねーか」
後部座席に乗り込むと、ロックオンがからだを捻って首から下げたカメラでティエリアを撮った。
「ティエリアは軽い近視なの。リンク以外は眼鏡着用」
「へー」
パシャパシャとシャッターが下りるレンズの前に、刹那が手を伸ばした。
「お?」
「よせ。嫌がっている」
ロックオンは目を丸くしたが、スメラギも目を丸くした。
「刹那…」
カメラを避けてからだを斜めにしていたティエリアは、感動の面持ちで隣に座る少年を見て、刹那の手が少しずれたのをいいことに、ふたりの姿をロックオンはカメラに収めた。
「あなた達、そんなに仲良くなっちゃって…」
声を震わせたスメラギが、シートを乗り越え刹那とティエリアに抱きついた。
「コーチは嬉しいわよっ! うーん! ふたりともいい子!」
超巨大サイズの右胸が刹那の、左の胸がティエリアの頬を圧迫した。
今日も元気にタンクトップ。
ブラなどという窮屈なものはスメラギ・李・ノリエガに必要ない。
一般的な青少年なら鼻血ものだが、あきらかに一般的でないふたりは息苦しそうにもがいた。
このショットもロックオンはしっかり撮った。
「いいねえ。ほのぼのしてて」
「貴様はカメラを置いてハンドルを握れ」
ティエリアは胸と自分の間に手を差し入れ、ぐぐーっと押し返した。
「やーねえ、ティエリアったら。触りたかったらそう言ってよ。あなたなら触り放題だから」
「誰がこんなふにゃふにゃしたものに!」
とはいえ、押しつぶされそうなので、さらにぐぐーっと押し返す。
刹那はその隙におっぱい地獄から抜け出していた。
「やーん! そんなとこ触っちゃダメ」
「変な声を出すな! 気色悪い!」
「ひどーい! おねえさん泣いちゃうわよ」
「勝手に泣け!」
単なるじゃれあいになってきたので、ロックオンはカメラを置いて車を出した。
昼前に到着したのは、スケートリンクトレミー。
大会やアイスショーの行われる、観客席のある大規模なリンクだ。
今日も夕方からあるらしく、入り口に看板が出ている。
地下駐車場で車を降りた一行は、スタッフオンリーの表示の出ている扉に向かった。
スメラギがID代わりに警備員に提示したのはティエリアだ。
「これぞまさしく顔パスね」
ティエリアは仏頂面だったが、スムーズに通るために黙っていた。
「ファンです! サインください!」
と上着を脱いで白いシャツの背中にサインをもらう光景を見ながら、
「大丈夫かよ、ここのセキュリティー」
とロックオンが呟いた。
「応援してます! 今シーズンも頑張ってください!」
激励されて、ティエリアは曖昧に頷いた。
「ティエリア、行くわよ」
「スメラギ・李・ノリエガ。僕は」
「あとよ、あと。今日は用件違うでしょ」
スメラギに話を切られて、ティエリアはほっとした顔をした。
「ここのスケートクラブはね。ペアの育成に力を入れているの」
スメラギの言葉と共に視界が開け、リンクが目に飛び込んできた。
刹那が小さく息を飲んだのは、練習中の選手がペアだったからだ。
「あら、クロスロード・ハレヴィ組ね」
「去年のジュニアの覇者だ」
スメラギとティエリアが教えているあいだも、刹那の視線はリンクに釘付けだった。
まだあどけなさを残すふたりは、華奢すぎてまだからだが充分に出来ていないが、とても可愛らしい。
兄妹が戯れるように、あるいは子犬が遊んでいるかのように氷上を滑っていく。
「行くわよ、沙慈!」
「よしきた、ルイス!」
息ぴったりの掛け声と共に、沙慈がルイスを持ち上げる。
リフトだ。
ルイスの上半身が沙慈の頭より高くなった。
と、次の瞬間。
ぐらり。
「きゃあっ!」
ずしゃしゃー。
バランスを崩したルイスが落ち、沙慈も転倒した。
「ルイス、大丈夫!?」
すかさず立ち上がった沙慈がルイスに駆け寄ったが、ルイスは氷にお尻をついたまま頬を膨らませた。
「もうっ、沙慈ったら! もっとしっかりしてよ!」
「え、だって今のは、君がポジションを決められなかったから…」
「なに言ってるの! 沙慈のせいでしょ! お詫びに指輪! 指輪買って!」
「ええっ、なんで!」
「だからお詫びよ!」
「これがおまえが俺に見せたかったペア…」
「いや、違う」
刹那の呟きを、ティエリアは即座に否定した。
「僕が見せたかったのはあっちだ」
ティエリアが示した方向から、颯爽とふたりの男女が滑ってきた。
男はフィギュアスケーターとしては随分体格がよく、むしろプロレスラーと言われたほうがしっくりくる。
女は柔らかでいながら芯の強さを感じるしなやかな印象で、どちらも現役選手としては年配だ。
沙慈とルイスが恐縮するように場所をあけた。
まずはスローイングジャンプ。
力強く投げられた女が、これまた力強く着氷する。
続いてデススパイラル。
とにかくダイナミックだ。
それでいて優美さがある。
さらにオーバーヘッドリフト。
ふたりとも背が高いので、素晴らしく高さのある。
流れていない音楽が聞こえてきそうな、見事な技の連続だった。
「これがペア…」
これまでとは違う響きの刹那の呟きに、ティエリアは初めて同意した。
「そうだ」
「セルゲイ・スミルノフとホリー・スミルノフ。
伝説のペアよ。
今はスミルノフコーチ夫妻」
解説しながらスメラギが手を振ると、ホリーが笑顔で近づいてきた。
セルゲイもあとに続く。
ティエリアは無言で丁寧にお辞儀し、スミルノフコーチ夫妻もそれに応えた。
「どうしたのかね、アーデ君。ペアをやってみる気になったか」
強面に似合わず、セルゲイの態度には温かみがある。
「リフトするのもされるのも御免だ」
ティエリアは素っ気無く顔を背け、隣の刹那を見た。
「僕じゃない。彼が…」
「そうか! 少年の希望はペアであったか!」
突然リンクにハイテンションな声が響いた。
刹那がびくぅ!とからだを震わせ、ティエリアは眉をぴくりを動かす。
リンクの向こう側にヤツがいた。
「グラハム・エーカー。なぜ君がここに…」
「なぜだと? なぜだと聞いたか!」
叫びながら中央に躍り出たグラハムは、華麗に五回転を飛んだ。
失敗するとリンクが血まみれになることを知っている沙慈とルイスは、慌ててリンクから飛び出す。
幸いジャンプは成功し、着氷したグラハムは、前髪からぱらりと爽やかな汗を滴らせた。
これぞ水も滴るいい男。
「答えよう!
少年がいるところに、グラハム・エーカーは必ずいるのだと!」
刹那が前を向いたまま、十歩ほど後ろに下がった。
「少年! 君が望むのであらば、このグラハム・エーカー、男子シングルからペアに転向することに、いっぺんの悔いもない!」
どうしてグラハムは刹那がペア希望だと知っているのだろう。
彼はその話が出る前に担架で運ばれたはずなのに。
しかし誰もあえてそれを聞こうとはしなかった。
代りにティエリアは言った。
「刹那のペアの相手は決まっている。
君の出番などない。去りたまえ」
「ていうか、それ以前に、男男ペアは前代未聞よねー。ちょっと見てみたい気もするけど」
スメラギが組んだ腕の上に胸を乗せて頷くと、ティエリアに睨まれた。
グラハムは氷上で、衝撃を受けたポーズを取る。
「なんと! そんなことは聞いていないぞ、少年!」
ティエリアは振り返り刹那を見た。
「刹那。名を口にするぞ」
「了解した」
心構えをした刹那は頷いた。
「刹那がペアを希望する相手は、マリナ・イスマイールだ」
しっかりと足を踏ん張っていたのでよろけることはなかったが、刹那は茹蛸のように顔を真っ赤にした。
心密かに、断りを入れてくれたティエリアに感謝する。