(2)
シュヘンベルグスケートクラブのホームリンク場「ヴェーダ」に気合の入った声が響いた。
「グラハムスペシャール!」
大技を決めたグラハム・エーカーが、リンクサイドにいる刹那に向けて大きくアピールした。
本来のグラハムスペシャルは五回転を中心に構成されたジャンプの連続技だが、成功率が極めて低く、かつ遠心力が強いため回転中に鼻血を噴いたり、失敗すると壁に激突するなど大惨事になるので、本日は禁止されている。
別にグラハムの身を案じてのことではない。
彼はほとんど不死身の男だ。
リンクが血で汚れては、ほかの者が練習出来ないという理由からで、ちなみに競技のとき、グラハムに限ってはどの大会でも最終滑走と暗黙の了解で決められている。
血溜まりのリンクで次に滑りたい選手はいないし、完全に清掃するには時間がかかる。
「しかと見たか! 我が運命のしょうねーん!」
華麗に着地を決めたグラハムに呼びかけられた刹那は、無表情を貫いた。
「これがフィギュアスケートの世界…」
「違う」
刹那の呟きを、隣に立つティエリアがすかさず訂正した。
「僕は他の多くのスケーターに成り代わって否定する。
あんなのと一緒にしないでくれ」
「そうか」
刹那は胸を撫で下ろした。
「あらあ、あなたたち気が合うのねぇ」
タンクトップに毛皮のコートを羽織ったスメラギコーチが、組んだ腕の上にたっぷりの胸を乗せて現れた。
「別にそういうわけでは」
「いいじゃないの、ティエリア。あなた不遜な感じだから友達いなくて、心配してたのよ」
「よっ、余計なお世話だ!」
初対面の刹那の前で個人的なことを暴露されて、ティエリアは頬に朱を走らせた。
「この子、こんなふうだけど、ほんとはいい子なのよ。
年も同じだから、仲良くしてあげてね、刹那」
「了解した」
勝手に了解されたティエリアであった。
その頃、鼻血で貧血を起こしそうになったグラハムがばったり倒れ、慣れた感じで担架を持ったグラハムシンパ、ダリルとハワードがリンクから運び出した。
「君、大丈夫かい? 無茶しすぎだよ」
カタギリコーチが上から覗き込む。
「なんのこれしき…」
「まあ君は血の気が普通の人より多いから、このくらいでちょうどいいかもしれないけど」
なにがちょうどいいのかさっぱりわからない。
「じゃあまたね、クジョウ」
「バーイ、ビリー」
スメラギはカタギリにひらひらと手を振った。
「よかった。思ったほど汚れなかったわね」
リンクの状態を確かめて、スメラギは刹那を呼んだ。
「じゃあちょっと滑ってみて」
頷いた刹那はリンクに出た。
だが。
「ズブの素人じゃないか!」
ぎこちなくただ滑るだけの姿に、ティエリアが叫んだ。
「そうよー。刹那はお国が違うし、大会には出られないけどセンスはあると思うのよ」
世迷いごとを、と思うが、そんなスメラギだからこそティエリア・アーデのコーチをしているのだ。
「じゃあティエリア、お手本を見せてあげて」
「手本?」
「ジャンプよ、ジャンプ」
「僕に一回転しろと?」
「いやあねえ。銀盤の妖精にそんなこと頼まないわよ。好きなようにすれば?」
ティエリアは眼鏡をはずしスメラギに預けると、リンクに入った。
「刹那」
見ていろ、とジャンプの体勢を取る。
四回転のあとに三回転半のトゥループ。
四回転半四回転のアクセルジャンプがティエリアの公式戦での武器だから、若干難易度は落としている。
とはいえ、とても初心者が真似できるレベルではない。
「刹那ー、とりあえず三回転くらいやってみてー」
氷を削って着地したティエリアは、スメラギの言葉にぎょっとした。
まったく参考にならない手本を見せたのは自分だが、いきなり三回転など怪我をしろと言っているようなものだ。
だが刹那は助走をつけて踏み切った。
「高い!」
ティエリアは思わず叫んだ。
一回転、二回転、三回転。
やった、と思った瞬間バランスを崩して、尻から着氷した。
「あらあ、残念」
笑うスメラギは、ティエリアを見て頷いた。
「刹那」
尻をはたきながら立ち上がった刹那にティエリアは言った。
「今のタイミングで四回転してみろ」
意味を理解出来ない刹那に、気の短いティエリアは苛立つ。
「君は今四回転のタイミングで飛んだんだ。
僕が飛んだ間合いを覚えたんだろう。
さあ、からだが忘れないうちにさっさと飛ぶんだ」
刹那はもう一度助走に入った。
ためらいもなく踏み切り、今度も高く飛んだ。
回転に合わせるかのようにシャッター音が聞こえたが、ティエリアの目は刹那から離れなかった。
自分が飛んだときと同じように、氷が削られる心地いい音がして、刹那はきれいに着地した。
「すごいわ、刹那! さすが私が見込んだだけのことはあるわね!」
スメラギの拍手を受けながら、刹那はティエリアを振り返った。
「…すごいな」
誉めるつもりはなかったのだが、それしか言葉が出てこなかったのでティエリアはそう言った。
「少しふらついた」
「何度も飛んで調整しろ。だがその前に」
ティエリアは刹那の横をすり抜けて、リンクサイドに寄った。
「おまえ! 誰の許可を得てここに入った!」
黒いニットの手袋の糾弾する指の先には、カメラを持った男がいた。
「俺?」
ティエリアに向かってちゃっかりシャッターを切ると、男は口の端を上げた。
「俺はロックオン・ストラトス。見てのとおりのカメラマンさ。許可なら王家のお嬢様に」
外部の人間に対して貸与される許可証をかざす。
王留美はティエリアのスポンサーだ。
「今シーズンの調子を見てこいとさ。
面白いもんが見れたから、思わず狙い撮っちまったけどな」
ロックオンにレンズを向ける仕草をされ、刹那は反対側の壁際に寄った。
「いきなり四回転とはすごいな、ぼうや。どこの出身?」
刹那は警戒する獣のように、ロックオンを見据えた。
「こーら。王留美の紹介なら仕方ないけど、うちの子達の練習の邪魔をしないでちょうだい」
「あんたがスメラギコーチ。あー、ミス・スメラギ?」
「そうよ」
ロックオンはにかっと笑った。
「これ、はじめましてのご挨拶ってことで」
ずいっと差し出されたスーパーの袋の中身を見て、スメラギははしゃいだ。
「あらあ! 気が利くわね! いいわよ、好きなだけ写真撮って!」
「発泡酒六缶で買収されるのか。安い女だ」
「聞こえてるわよ、ティーエーリーアー。罰としてロックオンのカメラに向けてスマイル!」
「くだらん」
腕を組んでそっぽを向いたティエリアを、ロックオンはしっかり撮った。
「あのー、お取り込み中のところ悪いんだけどー」
割って入ってきた声の主に、視線が集中した。
「僕らも練習したいんだけど、いいかな」
アレルヤ・ハプティズムとマリー・パーファシーが、共に控え目な様子で後ろにいた。
彼らはペアで、別の国の代表選手で、練習拠点をこの国としている。
「勝手に入ってくればいい」
場所を空けるようにティエリアは立つ位置を変えた。
「そうは言うけど、ティエリア。グラハムさんが滑ってる横でなんか危なくて滑れないし、そのあとはそこの子がすごいジャンプ飛ぶし、僕ら出るきっかけがなくて」
「割り込んでこい」
「無茶言い過ぎ」
苦笑しながらアレルヤはリンクに入ってきた。マリーがそれに続く。
「ペア…」
「彼らは去年の世界王者だ」
ティエリアが教えてやると、刹那の目に力がこもった。
「ペアに興味あるの?」
アレルヤが刹那に笑いかけた。
「ああ…いずれはペアを組みたいと思っている」
「そうなの? じゃあ僕らの練習見る?」
アレルヤは掌で前髪の分け目を変えた。
「超兵の実力ってやつを見せてやるぜ!」
アレルヤがマリーとリンクの中央に滑り出ると、ティエリアは刹那の腕を引いてスメラギの立つサイドに寄った。
「いくぜえぇぇぇ、マリー!」
「その名で呼ぶなあぁぁぁ!」
いきなりアレルヤがマリーの腰を持ち上げた。
そのままマリーのからだが、ぶんっと音がするくらい勢いよく投げられた。
ずしゃああああっ! と擬音が目に見えるような着地を果たしたマリーは、そのまま力強く三回転する。
アレルヤも四回転ジャンプを決める。
すべてにおいて乱暴、ではなくダイナミックな技の連続だ。
「まるで格闘技のようだ…!」
「せめてサーカスと言ってやれ、刹那」
「それ全然マシじゃないわよ、ティエリア」
ロックオンはとりあえずシャッターを切りまくっている。
下等なものを見るような目で、ティエリアはその姿を眺めた。
「いい加減そうな見かけのわりに、仕事熱心だな」
「そう言うおまえさんは、可憐な見た目のわりに辛辣だな」
ロックオンのウインクに、ティエリアは顔を歪めた。
「そんな顔ばっかしてると、ここに皺が消えなくなるぞ」
ロックオンが自分の眉間を指でつんつんすると、「ふん!」という定番の素振りでティエリアは横を向いた。
結局ろくに滑れないまま演習時間が終わった。
「あなたの更衣室、空いてるロッカーがあったでしょ。刹那にも使わせてあげてね。それから家も、今日から刹那とシェアよ」
スメラギに突然言われて、ティエリアは目を見開いてしまった。
そんなところまでぱしゃぱしゃ撮られて、鬱陶しいことこの上ない。
「更衣室はともかく、家だと?」
「だってひとりじゃ広すぎるって言ってたじゃない」
「よろしく頼む」
非常に礼儀正しく刹那がお辞儀して、それ以上なにか言うのが人として憚られたティエリアは黙った。