(1)

「助けてくれ」
浅黒い肌をした少年が飛び込んできて、練習着に着替えようとしていたティエリアは、シャツを脱ぎかけていた手を止めた。
「助けてくれ、追われている…!」
大きくはないが切羽詰った声に、ティエリアはロッカーのひとつに視線を向けた。
「討ち入りごめーん!」
わけのわからない宣言と共に、更衣室のドアが開いた。
いや、蹴破られた。
「ややっ。ここはティエリア・アーデ選手の更衣室か」
はずしかけていたボタンをもう一度かけながら、ティエリアは顔を顰めた。
練習場になぜかスーツで通う、乙女座のロマンチストスケーター、グラハム・エーカーがそこにいた。
「そう怖い顔をすることはない。私は君の着替えに興味はない。毛ほどもないと誓って言おう。ならばなぜ今ここにいるか。ここに私の真心を鷲掴みにした少年が入っていくのを見たからだ!」
ティエリアは鼻白んだ。
「入っていくのを見た、ではなく、追いかけたから逃げた、の間違いではないのか」
「そうとも言う! さあ、どこへ行った! 私の運命の、身長162センチ、体重49キロの少年だ!」
「なんだ、その具体的な数字は」
「一目見て把握した! 心眼の為せる技だ!」
ティエリアは練習前だと言うのに頭痛がしてきて、こめかみを指で押さえた。
「ここには誰もいない。出て行きたまえ」
「そんなはずはない! 検めさせてもらうぞ!」
「ここは僕の更衣室だ。勝手をするなら僕のコーチを通して、カタギリコーチに正式に抗議させてもらおう」
くっ、とグラハムが怯んだ。
彼のコーチで親友でもあるカタギリは、ティエリアのコーチのスメラギに恋心を寄せていて、だからグラハムは親友のためにわざわざ同じ練習場を使っているのだ。
「カタギリの立場を悪くすることはこのグラハム、男として出きん。仕方ない。ここは身を引こう」
グラハムはティエリアの姿しか見えない更衣室に響き渡る声で言った。
「また会おう、少年!」

ハリケーンのようなグラハムが去ったあと、充分な間を置いて、ティエリアはロッカーに顔を向けた。
「もういいぞ」
がちゃりと内側から扉を開けて少年が出てきた。
「すまない。助かった」
「いや」
生意気そうな少年、と言っても多分ティエリアと同い年くらいだが、が、心底怯えたように自分の腕を抱いた。
「いきなりわけのわからないことを言われて追いかけられて…どうなることかと思った」
「そうか」
少年が持つスポーツバックにスケート靴をくくりつけているのに気づいて、ティエリアは思い出した。
「君はひょっとして、今日から参加するという練習生か。留学生だと聞いていたが」
少年が怪しむような目つきになったので、ティエリアは名乗った。
「ティエリア・アーデだ。スメラギ・李・ノリエガに師事している」
ああ、と少年は納得した。
「ソラン・イブラヒムだ。刹那と呼んでくれ」
本名と通称にまったく共通点がない。

これがティエリアと刹那の出会いだった。

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Posted by ありす南水