(5)
ティエリアがいなくなって、ニールの生活のなにかが
変わったかというと、そんなことはなかった。
客は相変わらず受付で無駄に時間を過ごしていったし、ニールもコーヒーを出した。
だがそれはティエリアが来てからの日常で、ティエリアが変化させた日常だった。
「別嬪さんのがうまかったな」
そんなことを言うのは、ティエリアに対して下心がみえみえだった客ではなく、ほとんど関心を払っていなかったように見えていた客だった。
ニールのコーヒーはタダだ。味うんぬんではなく、あんな金額はティエリア・アーデでなければ取れない。
「ほんとに喧嘩してたんだなあ」
「謝るが勝ちだ」
商店主達に妙に親身にアドバイスされても、ニールは曖昧に笑うだけにとどめた。
夜になると、隙間なく並んだシングルベッドのひとつで眠った。
客室には新しいベッドが入っていたし、重いベッドをまた移動させるのは面倒だ。おかげでいつまでも部屋が狭かった。
いつの間にかニュースからソレスタルビーイングに関する事柄が消えた頃、裏口からゴミ出しに出たニールは、路地の向こう側の人影に気づいた。
見間違いかと疑ったが、かつてのように超人的な視力はないにしても、勘違いするほどの距離ではない。
舌打ちしそうになって思いとどまり、だが声をかけることも止めた。
気づかないふりで宿に入り、カーテンの隙間から様子を伺うと、そろそろと近づいてきたティエリアは、それでもドアには近づけないのか右往左往していた。
今は真冬だ。
毛皮をまとっていても震えてしまうくらいなのに、ティエリアは冗談みたいに薄いジャケットを羽織っていた。
シャツの釦も鎖骨のあたりまでしか止めていないし、手袋もしていない。
あれでは数時間後にはよくて風邪引き、最悪凍死だ。
苛々とニールは待ったが、ティエリアはいつまでも行ったり来たりを繰り返した。
ふと足を止めたかと思うと、自分を抱き締めるようにしてぶるりと震える。それを三回見て、ニールの我慢は限界に達した。
「なにやってんだ、おまえ」
乱暴に開いたドアから現れたニールに怒鳴られ、ティエリアは首を竦めた。
「お迎えがないと入れねえのか」
眼鏡をかけていない大きな瞳が、そのままニールに向けられた。
「なんか俺に言うことあんだろ」
酸素を求めるように、ティエリアは口を動かした。
「ああ?」
泣きそうになっている相手を苛めているようだが、元々どちらが悪いかと言えば、ティエリアのはずだ。
ティエリアはようやく声を絞り出した。
「ただいま」
謝罪の言葉を待っていたはずのニールは拍子抜けしたが、
「おかえり」
気づけばそう言っていた。
近寄っただけで冷気を感じるくらい冷え切ったティエリアを、バスルームへ引っ張っていった。
凍えてもたもたするので服を剥ぎ取り、バスタブに座らせて湯を溜めるのと同時にシャワーを頭からかけた。
「温かい」
他人事のような感想に、まだ燻っていたニールの怒りは呆れに変わった。
ようやく頬に赤みが差してくる頃、湯が溜まったので、シャワーを止めた。
ニールはしゃがんで、ティエリアの顔に貼り付いた髪を手で撫でるように払った。
こいつがキスするときに目を閉じるようになったのは、いつからだろう。
顔を近づけながら、ニールは思った。
まだ少し冷たさを残していた唇が、徐々に熱を取り戻していった。
唾液の糸を引きながら離れると、ティエリアのからだが追ってきた。
背中の窪みに指を這わせて、久しぶりの滑らかな感触を確かめると、ニールのシャツが塗れて染みが広がっていった。
「長く留守にするときは、書置きくらい残しとけ」
「僕の感覚では、十日しか経っていない」
それがどういうことなのか、ニールは問わなかった。
どうせ秘匿義務だ。
「迷惑なら、出て行く」
「だったら最初から戻ってくんな。そもそもここに来るな」
素っ気無い言葉と裏腹に、ニールの声は段々甘ったるくなり、そのまま抱き締めるとティエリアは目を閉じた。
立たせた足のあいだに手を差し入れたニールは、指を止めた。
「おまえ、これ、なんだ?」
ニールがゆっくり指を動かすと、ティエリアは目を丸くした。
「なんだ…?」
「俺が聞いてんだよ」
言いながら指を進めると、第二関節まで難なく入った。
「なにをしてるんだ…?」
どうやらティエリアに答えはないらしい。
ニールは指を引き抜いてティエリアの脇に手を差し入れ、バスタブの縁に腰掛けさせた。
「俺の肩、しっかり掴んでろ。ひっくり返るんじゃねえぞ」
足首を掴まれて、不安定な姿勢にティエリアは真剣に頷いた。
ニールは自分の目で確かめた真実をどう受け止めるか、冷静に見れば滑稽なその格好のまま考えていた。
どう、と言っても結局のところありのまま受け入れるしかない。
ティエリアは、大きく仰け反って甲高い声を上げた。
「なに…、今、なにを…っ」
湯のなかに落ちないように、ニールは腰をしっかり掴んでいた。
「舐めたんだ」
ティエリアはすぐ反応しなかったが、ニールがもう一度同じ行為に及ぶと、今度はニールの頭を掻き抱いた。
「ど、どこを…っ」
「ここ。おまえの性器」
「そんなものは、ない」
「前にはなかった。でも今はある。ちなみに女性器だ」
ニールはからだを起こしてティエリアをバスタブの縁に座り直させると、自分は跪いたまま見上げた。
「なんかあったか」
「そう言われても」
ティエリアはニールから目を逸らせると、必死の面持ちで考え始めた。
「…負傷したので、治療したと。元通りになったし、後遺症も残らないと」
すべて伝達の形だ。
「それから…少しだけ染色体をいじったと言っていた」
目の前に現実があるので、とんでもない告白にニールは反応しなかった。
ティエリアがどういうふうにして生まれ、成り立っているのか、そのことをどうでもいいとまでは言い切れないが、知るつもりはなかった。
心細げにニールを見下ろしているティエリアの胸に、ニールは手を伸ばした。
「こっちは変わってないな」
平らな胸に視線を落として、ティエリアは無念そうに唇を噛んだ。
「胸は…外科的手術で大きく出来るからだ、きっと」
「するのか?」
「あなたの好きな大きさにする」
「俺のためのからだなのか?」
「そうだ」
ためらいもなくティエリアが頷くので笑ってしまった。
再びティエリアのからだが冷えかかったので、両腕に抱え込む。
「ややこしいから、そのままにしときな」
ティエリアは塗れた頭を、ニールの胸にもたれさせて頷いた。
「どうしてこんな…」
誰に向かっての呟きか。
「いいじゃねえか。出来るぜ」
「なにを」
ニールは耳朶を噛みながら囁いた。
「挿入」
目をぱちくりさせてから、ティエリアは顔を輝かせた。
「…そうか!」
隠微な空気が吹き飛ぶと、ニールのシャツの襟首が掴まれた。
「してくれ!」
「色気もクソもねえな」
ニールは頭を掻いたが、端からティエリアにそんなものは期待していないことを思い出した。
「んじゃまあ、しますか」
お菓子を貰える子どものように、ティエリアは笑った。