(2)
「ひょっとして僕が最初に渡した宿泊料は、とっくに尽きているのではないだろうか」
ティエリアが切り出したとき、ニールは客室のシーツを洗濯機に突っ込んでいた。
「どうだったかな」
この半年間、一枚だけ減った札束はずっと金庫のなかだ。
ティエリアは右手に握っていたブランケットを、左手に持ち直した。
「金が払えないのに心苦しいが、僕はもう少しここに滞在してもいいだろうか」
「なに、おまえ。もしかして全財産を俺に渡したのか?」
ティエリアは頷いた。
旧式の洗濯機が音を立てて回りだし、それも洗ってやろうとニールが腕を伸ばすと、ブランケットは後ろ手に隠された。ニールが買い与えたブランケットを、ティエリアはとても大事にしている。
「帰らなくていいのか?」
「どこへ?」
問い返すことに逡巡がない。
ティエリアは組織を離れたのだと、ニールは確信した。
「おまえ、なにしにここに来たんだ」
こんな当たり前の詮索を、半年ものあいだニールはしなかった。
ティエリアは目を伏せてから、決意したのかニールを見た。
「僕は一般的な生活の仕方を、あなたから学ぼうと思ってここに来た」
ニールは笑った。それで一生懸命、掃除をしたり洗濯をしたりしていたのか。
どれもニールがするほうが手際がいいし、現に今こうしてニールが洗濯しているし、料理に至っては触れない食材が多すぎる。
ティエリアは眉根を寄せた。
「…努力はしている」
「そうだな。買い物とか頑張ってんな」
肉屋の店先には本物の豚の頭が飾ってあり、ティエリアにとっては鬼門だった。それでも毎回、真っ青になりながらメモ通りの買い物を遂行してくる。
ティエリアの表情が不安に変わったので、ニールは話を切り上げた。
「いるのはかまわねえよ。客は増えたし、おまえのコーヒーの売上げもそれなりだし、口がひとつ多くなった分より、そっちのが大きいからな」
「そうか」
ティエリアは胸に手をあてて安堵の息を吐いた。
ティエリアがボストンバックとブランケットを持って、ニールの部屋に来たのはその夜だ。
「僕は今日からここで寝る。宿泊代を払っていないのに、客室を占拠するのは理にかなわない」
滔々と主張するのにニールは鼻白んだ。
「じゃあ俺はどこで寝んの」
「ベッドだ」
「おまえはどこで寝んの」
「床だ」
勝手にすればいいと思うが、ティエリアを床で寝かせると、間違いなくニールのストレスになる。
結局ニールはティエリアが使っていた部屋から、ベッドを運んでくることにした。客は大体夜行性で、明け方近くにならないと戻ってこないので、物音に苦情も出なかった。
「客室にベッドがなくてどうする」
「買ってくるさ」
「狭いこの部屋が益々狭くなった」
寝るためだけに使用される受付の一番奥に位置する部屋は、ベッドの上を歩いたほうが楽な有様だ。
ニールは自分のベッドに腰掛け、首にかけたタオルで汗を拭いた。
「文句を言うなら、客室に戻れ」
ティエリアは腕組みしてふたつのベッドを睨んだ。
やがてなにを思いついたのか、自分が使っていたベッドをニールのベッドのほうへ押し、隙間なく並べた。
「こうしたほうが広い」
どうだ、と言わんばかりなティエリアに、ニールは天を仰いだ。言っても聞かない、しかも口の立つ相手との押し問答には疲れた。
「端と端だぞ。俺はこっち、おまえはあっち」
「落ちたらどうする」
「じゃあおまえが壁際だ」
ニールが手前のベッドに座る位置をずらすと、なにを思ったのかティエリアは奥のベッドに寝転がり、さらにごろりとニールのほうに転がってきた。
腰に頭をぶつけられたニールは、押し返そうと腕を伸ばして、髪に触れてしまった。
髪を掬い上げると指のあいだから零れ、それをまた掬い上げる。そんなことを繰り返すニールを、ティエリアは不思議そうに見上げた。
「嫌がれよ」
「なにを?」
「俺が触ってる」
「なぜ嫌がらねばならない」
ニールは突然体勢を変えると、ティエリアの足のあいだに手を差し入れ、握り込んだ。
鎖骨の下、シャツに隠れている部分にまったくふくらみがないことは、マイスター時代にアンダー姿を見ているので知っているが、今触れている分部分は感触としては女のものだった。
あらゆる可能性を想定していたが、どう受け止めるか一番難しいと思っていたケースだ。
ほとんど抱きすくめられているにも関わらず、少し驚いた顔をしているだけで、ティエリアは目を逸らしもしなかった。
「おまえな…」
ニールが手を引き、立ち上がろうとするとシャツの裾が引っ張られた。
「どこに行く」
「ベッドを離す」
「このままでいい」
「俺が嫌なんだよ」
ティエリアはこの世の終わりのような顔をした。
「そうか…では仕方がない」
弱々しく呟いて中途半端にからだを起こすと、俯いたまま止まった。涙の粒がシーツに落ちて丸い染みを作ると、眼鏡を外し掌で涙を拭った。
ただの女のすることならば、そういう行為はかえってニールの頭を冷やす。だがティエリアでは違った。
「なんだ?」
ニールはティエリアのからだをシーツに押し戻した。
眼鏡が床に転がったのを気にするティエリアの、ぎりぎりのところまで顔を寄せる。
「大人がふたり同じベッドに入ったら、眠るより先にやることあんだよ。おまえが何者でも、それくらいわかれ、馬鹿」
馬鹿と言われて、ティエリアは心外だったようだ。
「僕は、そんなことをするようには作られては」
途中で言葉を切ったのは、言葉を発しているあいだに何度かニールの唇に唇が掠ったからだ。
ニールはダメ押しに、口を押し付けた。
ただの接触だ。
それでも、作られているとかいないとかそういうことではなく、こういうことはやろうとする意志なのだと、ようやくティエリアにも伝わった。
完全に見下ろす位置では、戸惑う表情が幼くて、まだこんな顔をするのだとニールは思った。
諦観を含んだ穏やかな顔が、言ったことはないがニールは嫌いだった。
「おら、起きな」
腕を掴んで引っ張ると、ティエリアはそのままニールに抱きついてきた。
「…おい」
肩に顎を押し付けられ、顔が見えない。
引き剥がそうとするとしがみつかれて、結構な力に骨がきしんだ。
「出来るのであれば、したい」
「おまえ、なに言ってんの」
笑い飛ばそうとして失敗し、声が掠れた。
「あなたが出来るというのならば、僕は、あなたとしたい」
都合のいい妄想なら甘ったるくてしかるべきだが、テェエリアの声はかつて計画遂行の決意を述べたときとまったく同じ調子だった。
「なにするか、わかってんのか」
「セックス。みたいなもの」
「なんだそりゃ」
はは、と掠れた声で読むように笑い、ティエリアを自分のほうに向かせた。
「じゃあ、するか?」
ミッションプランを了承するような顔で頷かれた。
「お人形さん」
滑らかな肌と促すとおりに動くことをそう表現すると、ティエリアは目を開けた。
「僕はトロールじゃなかったのか」
「こんな綺麗なトロールはいねえよ」
前に言ったことと矛盾する、とぶつぶつ言うティエリアを、ニールは無視した。
目の前のからだは、比喩ではなく人形のようだった。
最高の作り手による、限りなく人間に近い、人間を超える美しい作り物。
矯正の必要がないのに、眼鏡をかけている意味を実感した。シルバーのノンフレームは、人工物すぎる顔に人間味を与える役割を果たしていた。
ニールは先程着衣越しに触れた箇所に、今度は直に指で触れた。
男ではないことはもうわかっていたが、では女なのかといえば、なんとなくそれらしき部位はあるのだが、女でもない。
「生えてもねえんだな」
ティエリアは困った顔をしてからだを捩った。
「くすぐったい…」
「どこが」
ここ、と示すところに舌を這わせると、逆らってはいけないと思っているのか、身を竦めても逃げなかった。
「熱い」
「なにが?」
「あなたのからだが」
「おまえも熱い」
セックスすることを想定されていないからだは、欲望を受け入れることは勿論、吐き出すことも出来ないのだろう。
少しずつ体温が上がっているので、これ以上続けると負荷を与えるのではではないかと、無意識に離れかけたニールを追うように、ティエリアは上半身を起こし、唇を重ねてきた。
「へたくそ」
ニールは笑って、角度を変えて二度目を促した。
「これまでにキスしたことあんの?」
「ない」
「ほんとに?」
「あなたみたいな物好きはほかにいない」
ティエリアを口説く客は結構いる。だがそれはティエリアを男性、あるいは女性と思っているからだ。
「可哀想だな、ティエリア」
「僕は、可哀想じゃない」
「そうかぁ?」
「そうだ」
慣れていないのに、まったく恥らわないティエリアの、充分に開いていない歯のあいだに舌を差し入れる。溢れ出る唾液にむせそうになったティエリアは、首を振った。
「我慢しな」
首を絞めても抵抗しないかもしれない。
そんな勘違いをしてしまうくらいの従順さに、喰らうようにしるしをつけていった。
「あなたは気持ちいいのか?」
なにを知りたいのだろうと訝り、心配しているのだと気づいたニールは、ティエリアの手を掴んで自分の足のあいだに触れさせた。
反射的に引こうとする白い手を自分の掌で包み、してほしいように動かし方を教える。
「硬くなっていく」
「気持ちいいからだ」
天使にお目にかかったことはないし、いるなどと思ってもいないが、目の前のティエリアの笑みは天上の世界の人のようだった。
「おまえの足のあいだに、これ、擦り付けてもいい?」
手を一旦どけさせて、腰を押しつけた。
ティエリアの肌に、うっすら汗が滲み出している。
「なんでも…あなたのいいように」
息を吐いたティエリアは、女性であれば男を受け入れる器官のある位置にニールが押し当てられると、何某かの刺激があったのか、からだを震わせた。
ティエリアは経験したことのない行為の連続に、思考を追いつかせようとして混乱している。
シーツを掻く手が目に入り、自分の背中にまわさせたが、しがみつかれて腰の動きを妨げられ、上半身を少し離すと、またしがみついてきた。
「ロックオン…」
ここに来てからティエリアがニールを名前で呼ぶのは初めてだが、それはコードネームだ。
繰り返し名を呼ぶ口をキスで塞ぐと、息苦しさにもがきながら腰に足を絡めてきた。
微妙に女のものとは違う感触に煽られ、その足のあいだに吐精した。
それからしばらくして、受付にある端末の履歴に、アダルトサイトの履歴がずらりと並んでいることに、ニールは気づいた。
「ティエリア、おい」
ニールが読み終えた電子書籍を読んでいたティエリアは、顔を上げた。
「これはなんだ」
ディスプレイを突きつけると、一旦覗き込んでつまらなそうに目を離した。
「学習教材」
「はあ?」
「あなたに気持ちよくなってもらいたい。そのためには学習が必要だ」
既にティエリアの言う、セックスみたいなもの、は彼らの生活の一部となっていた。
ティエリアは所謂オーガズムに達することはなかったが、触れれば触れるだけ溶けていくように、ニールに馴染んでいった。
覆い被さって下半身を押し付けると、ティエリアは本を落とさないよう片手を上げて、胡乱な目つきでニールを見た。
「…どうして欲情している?」
「おまえが可愛いから」
血を吸うように首筋に齧り付くと、ティエリアは首を竦めた。やや迷惑そうに顔を顰めるが、押し返しはしない。
「あなたという人間は永遠に不可解だ」
「永遠ときたか」
ティエリアは後ろ手でテーブルに本を置くと、ニールの腕を肩で押しのけ、頭の位置を下げた。
ベルトを外してニールのジーンズの釦を外し、ファスナーを下ろす。教えられたことをきっちりこなす、というティエリアの性格はこういうことにおいても抜かりがなかった。
白い顔と赤い舌の対比が鮮やか過ぎるこの行為に、ティエリア自身の快楽はない。だがこれがニールにとって一番気持ちよく、ティエリアにも負担の少ない形だ。
達しないからと言って感じないわけでもないからだは、昂ぶりすぎると発熱という形で熱を放出しようとする。
最初のときから数回続けて事後に寝込んだので、ニールが触れるのを止めようとすると、ティエリアはそれを不服として、だったら口でする、と自ら言い出した。
いきなり口を近づけてきたときには、ここ数年なかったくらい驚いたのだが、それも自主学習の成果だったらしい。
「あんまりひとりで覚えんなよ」
ティエリアは動きを止めて、目だけ上に向けた。
「なぜ」
「教える楽しみがなくなるだろ」
大きな目がさらに見開かれた。
「そんなことが楽しいのか?」
「ああ」
「あなたは変わっている」
「おまえに言われたかねえよ、ほら」
促されて、ティエリアはまた行為に戻った。
「おまえは楽しい?」
頭を撫でながら髪を梳くと、ティエリアは口からニールの性器を抜き取り、熱を逃さないように掌で包んで頬に押し当てた。
「あなたは、挿入するほうがいいのだろうが」
「いや。そんなんよりおまえの口のがいい」
嘘を見抜こうとするように見つめるので、ニールが頷いてやると微笑んだ。
「続けて」
伏せた睫の長さに見惚れながら、ニールは指に力を入れて頭を押さえた。