(1)
レンガ造の二階建て。
十の客室と受付につながる部屋がひとつ。
武器の持ち込みは黙認されているが、建物内での揉め事はご法度。
営業許可など当然ない。
受付の椅子に座って居眠りをしていると、客がやって来た。
「しばらく泊まりたい」
凛と張った声に聞き覚えがあり、懺悔室を思わせる仕切りを動かすと、果たしてそこに立っていたのはティエリア・アーデだった。
シャツにカーディガンにスラックスという、ニールにとっては「いつもの」私服に、皮のボストンバックを持っている。
随分と久しぶりだというのに挨拶もなく、ティエリアは札束をニールの前に置いた。
「どの部屋がいい?」
「清潔で日当たりが良くて窓から空が見える部屋を希望する」
「よそあたんな」
鼻で嗤いながら、保管庫から二階の精一杯清潔な部屋の鍵を選び出した。
「ティエリア」
階段に向かった背中に呼びかけると、ティエリアはゆっくりと振り返った。
「荷物置いたら下りてこいよ」
「なぜ」
「飯くらい付き合え。薄情なヤツだな」
生真面目な顔が頷いた。
だが待ってもティエリアは姿を見せず、結局ニールが客室へ行った。マスターキーでなかに入ると、ティエリアは着衣のままベッドに転がっていた。
「どうした」
近寄ると、赤い目だけが人形のように動いた。
「毎日この時間になると熱が出る」
「薬は?」
「効かないので必要ない。朝になったらまた下がる」
額に手を置くと、眼鏡の縁がニールの手に触れた。
微熱というにはやや高い熱を掌に感じながら、起きようとするからだを押し返した。
「食事をするのだろう」
ティエリアは口を尖らせた。
「外に出るつもりだったが、止めだ」
「そんな」
「代りに俺がなんかうまいもん作ってやるよ」
「作る?」
疑わしげな視線を向けるティエリアを客室に残し、札束から一枚抜いた金を上着のポケットに突っ込んで、ニールは市場に出かけた。
いつもは買わない鮮やかな色の野菜が入った袋を持つニールを、肉屋の主人がからかった。
「女でも連れこんだか」
「だったらなんで俺が買い物してんだよ」
「男の作るメシで女を落とす。昨今そんなもんらしいぞ」
「世も末だな」
調理は以前のオーナーが、ここで食堂もやっていたときの、古くて広いキッチンでした。
匂いが届いたわけではないだろうが、肉が焼ける頃ティエリアは自分から起きてきて、ニールの手元を覗き込んだ。
「これは食べられるのか」
「おまえのために挽肉こねてやったのに、その言い草か」
ティエリアは大きく瞬きした。
「ぼくのため」
「そ、おまえのためだよ」
食事も帳簿付けも行われる大きめの机の、いつものニールの席の前にティエリアは座った。
ゆっくりと、皿の上から料理が減っていく、その速度に合わせながら、ニールはフォークを動かした。
当たり前のように現れたが、ティエリアが最後に姿を見せてから、四年以上経っている。
ここは組織との手切れ金代わりに、ティエリアがニールに与えた職場兼住居だ。
「大丈夫そうだな。そんだけ食えたら」
実際はかなり努力して嚥下しているのだろうが、ティエリアは頷いた。
「あなたも元気そうだ」
「まあな」
「右目の調子は?」
ニールは義眼に手を近づけ、その動きに途中で気づいて止めた。
「悪かねえよ」
ティエリアの口元に浮かぶ落ち着いた笑みを、ニールは不思議な心持ちで見つめた。
「食ったら歯ぁ磨いて今日はもう寝ろ。シャワーはやめといて、汗は拭ってな」
「そうする」
殊更口うるさく言ったのだが気を悪くすることもなく、ティエリアは二階に引き上げた。
ニールは食器を片付けてから客室を覗いた。
着替えたティエリアは、今度は毛布を被って寝ていた。眼鏡はサイドボードの上にある。
首の後ろに手を差し入れて頭を持ち上げ、枕を氷枕に差し替えた。
「薬が効かなくても、こうすりゃ冷えるだろ」
「原始的…」
「シンプルイズベストさ」
同意したのか心地良いためか、目が閉じられた。
「ここにボトルを置いとくから、まめに水分補給しろよ」
ティエリアは目を閉じたまま頷いた。
僅かに呼吸が荒い。
「寝付くまでそばにいてやろうか?」
「それはあなたに悪い」
「悪くなけりゃいてほしいのか?」
ティエリアはまた頷いた。
「じゃあいてやるよ」
ティエリアはすぐ眠りに落ち、実際ニールがベッド横にいたのは僅かのあいだだった。
ティエリアの体調は一週間ほどで回復した。
元気になれば出て行くのかと思っていたが、一向その気配はなく客室にこもっているので、ニールは自分が留守にするときの受付を預けるようになった。
ニールが所用から戻ると、客が受付に貼り付いていた。
五日前から泊まっているなにを売っているのかは聞かぬが花の自称セールスマンで、今日発つ予定だった。
仕切りは全開で、対面で応対しているティエリアは遠目で見ると人形のようだ。
「昨日君と言葉を交わしてから商談に行くと、いまだかつてないほど驚くべきスマートさで話がまとまった。思うに君は幸運のフェアリーに違いない」
口説かれているのがわかっているのかいないのか、ティエリアに表情はない。
「今日も是非この僕に恩恵を与えてくれたまえ」
伸ばされた腕をかわし、ティエリアは立ち上がった。
「少し待つといい」
奥に消えたティエリアは、コーヒーカップを持って戻ってきた。
「これは…」
「コーヒーだ」
ティエリアは真面目くさった顔で頷いた。
「先だってこれを飲んだ客が、何事か非常な僥倖に巡りあったと、平伏さんばかりに礼を言って帰っていった」
「なんと。幸運のコーヒーか」
「かもしれない」
「ならば是非飲ませていただきたい!」
「しかしここは宿屋。先だっての客にも代価はいただいたが、あなたにもサービというわけにはいかない」
「勿論支払うべきものはお支払いする!」
このやりとりをニールは隠れて眺めていたが、ティエリアがその辺の店で飲むコーヒーの十倍の値段を口にしたので、姿を現そうとした。
トラブルになると思ったからだが、自称セールスマンはさらに声を弾ませた。
「是非!」
代金と交換にコーヒーカップを差し出したティエリアは、美しい顔を美しいままに男に祝福を与えた。
「幸運を」
今ならば頭上に隕石が落ちてきても、ツイていると解釈するだろうというほどの上機嫌で、男は宿を出て行った。
ニールが受付に入ると、ティエリアは端末を開いて、帳簿にコーヒー代をインプットしていた。
どういうふうに口コミされるのか、ティエリアのコーヒーを飲みたいという客は日増しに増え、良いことがあったと報告しに来る者さえいて、ニールを呆れさせた。
「さしずめ幸運のトロールだな」
帳簿をつけながらニールが呟くと、ティエリアが頭を傾けた。
膝の上のベビーピンクのブランケットは、受付に座っていると足が冷えるので、ニールが買ってやったものだ。近頃ではふたりいるときでも、ティエリアを受付に座らせておくことにしている。そのほうがなぜか客が来る。
「トロールとはなんだ?」
すぐさま端末で検索を始めたティエリアは、醜悪なトロールの図解に目を見開いたまま固まってしまった。
「あー、違うぞ、見た目じゃない」
椅子の背もたれに手をかけて、性質を説明する一行を指で示すと、ティエリアは声に出して読んだ。
「気に入った相手に幸運をもたらす…」
端末画面とニールの顔とに視線を往復させたティエリアは、最後にニールの顔を見つめた。
「僕はそうなのか?」
「だろ? おまえ来てから客切れねえし」
フェアリーでもいいが、ほかの男が先に使った言葉には抵抗がある。
「それには科学的根拠がなにもないと思うが」
「幸運なんてそんなもんだろ」
ティエリアは口をへの字に結んだ。
「気に入った相手に幸運をもたらす…、あなたに幸運をもたらす…」
ひとしきり呟いたあと顔を上げた。
正式に抗議されるのかとニールが身構えると、
「仮にそうならば、僕は嬉しく思う」
怒ったような表情のまま、ティエリアは言った。
「別嬪さん」
うらぶれた町を歩く美人の顔は、すぐに覚えられ、それがこの町でのティエリアの通り名となった。