(9)
ある晴れた日、刹那が旅立った。
「長いあいだ留守にしようと思う」
かつて子ども達の声でうるさいほどだった食堂で、三人だけで食事を取っているときに、宣言した。
前の週にマリナは首都に近い町へと移り、シーリンも産み月が近づきクラウスのいるアパートのほうが産婆が来るのに便利なため、こちらに来るのは控えていた。
ロックオンは隣に座るティエリアを見た。ちょうどパンを口に入れた直後だったため、喋れなかったからだ。
「ふうん」
とティエリアは言った。
「いつ」
「明日の朝」
「急だな」
「手紙を書く」
「写真の絵葉書がいい」
「そういうのは高いだろう」
「ならば絵入りで」
「絵心がない」
「…困ったな」
こいつらと関わってから結構な年月が経ったが、いまだ不思議なところが多いなとロックオンは思った。
食後にロックオンは町まで車を走らせた。最近になって手に入れた、中古もいいところの軽トラだ。
戻ってくると、今日の食事当番だった刹那が片づけを終えたところで、調理場は輝くばかりに磨き上げられていた。
「立つ鳥跡を濁さず、ってか。ほら、持ってけ」
ロックオンは刹那にカメラを渡した。
「アレルヤが餞別にくれるってよ」
町までカメラを買いに行ったロックオンだったが、時間が遅すぎて店は閉まっていた。商売をしている関係でツテのありそうなアレルヤに相談したところ、彼の私物を譲ってくれたのだ。
「アレルヤ・ハプティズムがどうして」
ティエリアに写真を送るためにカメラが欲しい、と言ったからだ。アレルヤは優しい男だ。誰かのために、というのに弱い。
「帰ってくる頃にはおまえも充分大人だろ。あそこの常連になってやれ」
「ミルクでもいいのか」
「…ま、いいんじゃねえの」
刹那はカメラを首からかけ、一瞬だけ嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
気づけば長いつきあいだが、礼を言われたのは初めての気がした。
翌日、刹那は自分で作った弁当を持って旅立った。
ティエリアは特に我慢しているというふうでもなく見送った。
「よかったのか。なにも言わなくて」
まだ追いかけられるくらいの頃合で、ロックオンは訊ねたが、ティエリアは首を傾げた。
「別に」
それから少し考えて付け加えた。
「刹那は納得しないだろう。自分の目で世界を見なければ」
「おまえはいいのか? 世界を見なくても」
ティエリアは顔を上げて、ロックオンの目を真っ直ぐ見た。
「大事なものはここにある」
もうとっくに見えなくなった刹那の後姿の名残を惜しむでもなく、ティエリアは踵を返した。
「なにをしている。時間だ」
かつての子ども達のおやつの時間は、今ではお茶の時間だ。ティエリアは腰をかがめて、玄関脇のハーブを摘んだ。
昨日よりさらにがらんとした食堂で、ロックオンはティエリアと向き合った。
「おまえさ」
カップに口をつけたまま、ロックオンは話し出した。料理の腕は一向上がらないが、ティエリアのお茶はそれなりに美味い。
「ずっとここにいるつもりか? したいことがあるなら、刹那のように出て行けばいいんだぞ」
勿論、好きなときに帰ってくればいいから。
ティエリアは子どものときから変わらない、少し釣り上がった大きな目でロックオンを見た。
「あなたは愚かだな」
「そうかい」
「僕はずっとここにいる。あなたが寂しくないように」
ロックオンが驚いて息を飲んだのが気に入ったのか入らなかったのか、ティエリアは難しい顔をしてお茶を飲み始めた。
ロックオンもなんでもない顔に戻り、お茶に集中するふりをしながら考えた。
ティエリアは今いくつで、自分といくつ年が離れていたか。
そしてそれがまあ、自分内では犯罪ではないくらいであることを確かめてから、もう一度ティエリアに呼びかけた。
「ひとつ提案があるんだが」
「なんだ」
手を伸ばして、ティエリアの頬に指先を触れさせた。
「これからは自分のことは 私 って言おうぜ」
しばし真剣な顔で思案してから、ティエリアは頷いた。
「承知した」
ロックオンは笑った。
「ああ、頼むぜ」
こりゃたぶん無理だな、と思いながら。