(6)
やがて戦争は終わった。
多くの者にとっては唐突な幕引きだった。
あと一月停戦が遅ければ、マリナと子ども達の家のある町は戦場となっていただろう。
巻き割りを終えた刹那が家のなかに入ると、オルガンの音が聞こえてきた。
オルガンは足踏み式で子供達は競って踏みたがり、人の輪は刹那を遠ざける。
だがどうしたわけか、その日は誰もいなかった。
マリナのオルガンが技巧として上手いのかそうでないのか、刹那にはわからない。だが優しい音だと思っていた。
ドアの側に立つ刹那に気づくと、マリナは微笑んだ。
「弾いてほしい曲はない?」
鍵盤から離れた細い指を眺めた。
「いつもみんなが歌っている」
マリナが作ったという歌を、刹那は希望した。
マリナは少しからだを動かして、足踏みの位置を空けた。
「手伝ってもらえるかしら?」
頷いた。
「歌ってくれる?」
首を横に振った。
くすくすと笑う声はやがて、オルガンの音と混じって歌声となった。
随分とあとになっても、
刹那はこのときのことを忘れなかった。
月日は過ぎた。
マリナの意向で子供たち全員が、公的な奨学金や私的な援助を受けて進学した。
刹那とティエリアも例外ではない。
読み書きを習得した刹那は大変な読書家となっていたが、最初は学校に通うことを頑なに拒否した。理由は「自分にはその資格がない」だった。
一方ティエリアは行くも行かないも別段主張はなかったが、刹那が行かないことを知ると、「刹那の行かないところには行かない」と言い出した。
そうなると刹那はティエリアを学校に行かそうとし、結局ふたりとも通うことになった。尤もあっという間に義務過程を納め、上の学校には進もうとしなかったので、ふたりの学生生活は短期間で終了した。
その後、刹那は町で力仕事を請け負う労働者となり、ティエリアは裁縫で身を立てるようになった。初めて針を持ったときのことを知る者には驚きの職業選択だが、意志と努力は先天的な不器用を凌いだ。
いつの間にか女の子達のなかで一番の裁縫上手になっていたティエリアは、シーリンから年代物のミシンを譲り受け、さらに精進して町一番のお針子、あるいは仕立屋となった。
田舎町では手に入らない洒落た服なども、雑誌の切り抜き程度の参考があれば、あり合わせの素材でそれらしく作るので、仕事は切れることがない。
季節が変わると、ティエリアは巻尺を持って家中の者の採寸をして回り、巣立っていく子ども達は、必ずティエリアの作った一張羅を着てマリナの家の門を出て行った。
ある日のことだ。
「ロックオン」
廊下で呼び止められたロックオンが振り向くと、ティエリアになにかを押し付けられた。
布に包まれた感触で衣類だとわかったが、仕立てを頼んだ覚えはない。「これ」なんだと言い終える前に、ティエリアは背中を向けていた。
部屋に戻って包みを開くと、黒いスーツが出てきた。
白いシャツに、町の雑貨屋の値札がついたままのネクタイと靴下まであり、すべて黒だった。
ベッドの上に広げた喪服一揃いを、ロックオンは見下ろした。
ティエリアの部屋のドアをノックしたのは、数分後だ。
「靴はどうしたらいいんだ?」
顰められたティエリアの顔には、眼鏡がかけられている。学校に行っていた期間に、健康診断で僅かに視力が落ちていると指摘され、それでも矯正の必要はまだないと言われたのに、絶対かけるとティエリアが譲らなかった眼鏡だ。
「そのくらい自分でどうにかしろ」
「そりゃまあそうだな」
頭を掻くロックオンは、ティエリアを知らなければ蔑まれているのかと思う冷ややかな目つきで見つめられた。
毎年家族の墓参りに行っていることを、ロックオンは誰かに話したことがない。命日に必ずというわけでもないし、適当な名目で数日留守にすることはほかにもあった。
「貰っていいのか」
「だから渡した」
「そうか。ありがとよ」
「どういたしまして」
ロックオンはその年、ティエリアの縫ったスーツを着て、家族の墓に参った。
翌年の同じ季節、ロックオンは墓参にティエリアを連れて行った。
なぜそんな気になったのかはわからない。あえて言うなら気まぐれだ。
「おまえ、汽車に乗ったことあったっけ」
「ない」
「じゃあ乗ってみるか」
そんなふうに誘った。
汽車の向かい合わせの席に座ると、ティエリアはしばらく車窓を流れる景色を眺めていたが、やがてトートバックから茶色の紙袋を取り出した。
「シーリン・バフティヤールがもたせてくれた」
ティエリアの好きなライ麦パンのサンドウィッチだ。ロックオンが出かけるとき、シーリンがこんなものを用意したことはない。
町役場の福祉課に勤めるクラウスと結婚したシーリンは、夫とは同居せずまだマリナの家で暮らしている。
結婚式を挙げていないシーリンに、マリナと残っている子ども達からのサプライズとして、ささやかな式をプレゼントしようという計画が進行中で、ティエリアはウェディングドレス担当だ。
「どうぞ」
向かい合う席から包みを差し出されて、ロックオンはハムとチーズのほうを選んだ。卵はティエリアが好む。ロックオンは売り子の少年から、温かいコーヒーをふたつ買った。
月日が経っても、ティエリアの食べる姿は綺麗だった。浮世離れした雰囲気は、マリナの家で雑多な日常にまみれても消えることがなかった。
「うまいな」
特になにを思うでもなく、ロックオンがそう言うと、ティエリアは頷いた。
「サンドウィッチはシーリン・バフティヤールがうまい。ほかの料理ではマリナ・イスマイールに及ばないが」
「おまえ、それを言うからもめるんだよ」
怪訝な顔をしたティエリアは、食べ終わった指をハンカチで拭って、そのままロックオンに差し出した。ハンカチなど持ち歩いていないロックオンは、ありがたく使わせてもらった。
飲みかけのコーヒーを窓際に置いて、ティエリアは再びトートバックを漁り、今度は小さなノートと鉛筆を取り出した。
裁縫をするときにサイズをメモしたり、依頼者のデザインの希望を書きとめたりしているノートだ。開いたページには、ドレスの絵がいくつか描いてあった。
「シーリンのドレスか?」
「そう。考えるのに丁度いい。内緒だから」
「だが墓参りの道中にウェディングドレスのデザインってのは」
ティエリアは平服だが、ロックオンはティエリア製の黒いスーツだ。
「なにか不都合でもあるのか」
「縁起でもねえっつうか。喪服の男の前ですることじゃねえっつうか」
「亡くなった人を悼む行為は、忌むべきことではない」
ロックオンが珍しく言葉に詰まっているあいだに、ティエリアはノートに目を落とした。
「…おまえもそのうちそういうのを着るのかね」
沈黙が気詰まりで適当に言うと、素っ気無く返された。
「僕は着ない」
「いやいや、おまえさんもいつの間にかお年頃だし。案外好きなヤツとかいんじゃねえの」
適当に言い続けると怒られた。
「気持ち悪いことを言うな」
「すみません」
「だがあなたが結婚するときに、タキシードを仕立てることはやぶさかではない」
ロックオンは小さく吹き出した。
「んじゃ頑張って、今から相手探さねえとな」
動きが見えるくらいゆっくりと、眼鏡の奥の瞳が動いた。
「ならばあなたもそろそろ、金銭のやり取りのない男女の付き合いをしたほうがいい」
危うくコーヒーを零しそうになった。
ティエリアはもうノートに集中していて、カマをかけられたのかと一瞬疑ったが、直球勝負のティエリアにそんな芸当が出来るとは思えない。マリナやシーリンが見ないふりをしていることを、ティエリアがわざわざ口にしたというだけだろう。
「僕が思うに、友人が悪いに違いない」
さらさらと鉛筆を動かすティエリアは、顔を上げもしないで言った。
「あ、なに? 友人?」
「昼間から酒を飲ませる店をやっている男など、碌なものではない」
ティエリアの言うのが誰のことだかわかって、ロックオンは苦笑した。
「アレルヤんとこは酒屋だ。居酒屋は余ったスペースでちょろっとやってるだけだろ」
ロックオンのように家で飲めない身にとっては、便利な店だ。
ロックオンは酒には強いので酔って帰るわけではないが、ティエリアは嫌がる。そんなわけで、ひとりで店を切り盛りしているアレルヤは、口数の少ない穏やかでいい男だが、ティエリアはよく言わない。
「もっと大きくなったら、おまえも連れて行ってやるよ」
本当はとんでもない話だ。たとえ年齢が満ちたとしても、酔っ払いのいる店に、ティエリアを連れて行こうなどとは思わない。
「時々刹那を連れて行っているな」
お、とロックオンは声を詰まらせた。
「言っとくけど飲ませてないぞ。あいつ飲まない主義らしくて」
「未成年だ」
「いやだから。大人になっても飲まないんだってよ」
だから親切なアレルヤは、刹那のために冷蔵庫にミルクを常備してくれている。
「刹那といえばあいつ今頃どこにいるのかね。またふらっといなくなりやがって」
「大丈夫だろう。刹那なら」
ついこのあいだまで二個イチだったティエリアは、怒ることもなく淡々としている。
「心配しないのか?」
「刹那は必ず帰ってくる」
事も無げな言葉のあと、ティエリアはふと目を上げた。
「どちらかと言えば、あなたが帰ってこないときのほうが心配だ」
なんと答えていいものか迷っているあいだに、ティエリアはまたノートに目を落とした。
続く沈黙に、ロックオンは窓枠に肘をかけて外を眺めた。
故郷の町が近づいてくる。