たとえばこんな日常
ことの発端は客のルール違反だ。
いちげんで泊めた客がほかの客に絡み、銃とナイフを向け合う展開となった。
偽名を使い夜に動く者達のための宿の客の喧嘩は、血生臭いことになるに決まっている。
だから揉め事はご法度で、ニールが止めに入ったのだが、結果、一番やくざだったのがそのニールだった。
クールダウンさせようとする言葉に応じない客にキレて、危うくふたりをミンチにしそうになった。
ティエリアが割って入らなければ、そうしていただろう。
「こういうのをなんと言うのだったか」
男にしては高く、女にしては低い声のトーンが、いつもより三段階くらい低く響く。
「ああ、そうだ。ミイラ取りがミイラになる、だ。思い出した」
ニールは受付の椅子に座らさせれ、腕組みしたティエリアに見下ろされていた。
眼鏡はなくしたままで、この一年で伸びた真っ直ぐな髪を垂らし、派手なスカーフを畳んでカチューシャの代りにして、丈の短いTシャツに細身のパンツを穿いている。
一見すると美少女のようで、よく見ると性別不詳のその格好で、つい先ほどティエリアは物騒な喧嘩をしていた客を叩きのめし、宿の外に放り出し、ついでにニールの腹にも蹴りを喰らわした。
華奢なからだでも一撃必殺出きるよう受けた訓練は、様々な出来事のあとでもなお、そのからだに染み付いている。
「あなたが激昂してどうする」
「すまん…」
「仲裁者は冷静でなくてどうする」
「すみません…」
「ふたつも死体を作ったら、あとの処分をどうする」
「仰るとおりです…」
椅子の上でひたすら小さくなるのは、反省しているからだ。
ニールは先ほど、明らかに一瞬我を忘れた。
頭に血が昇ると、あとはよくわからなくなる。
裏稼業に身を浸してからそういう自分に気づいたが、たぶんもともとそういう人間で、家族がいた頃には表に出てこなかっただけだ。
あるいはなにかが壊れて、そういう部分が出てきた。
ティエリアはまだなにか言いたそうだったが、言葉が尽きたのか、釣り上がった大きな目でニールを睨んだ。
「悪かったよ…な?」
ニールは少し首を伸ばして、ティエリアの顔を覗きこんだ。
「って!」
いつの間にそんな技を覚えたのか、指で額を弾かれた。
「痛ってーだろ!」
ティエリアは心底、という感じのため息をついて、ニールはびくついている自分に気づいた。
もう終わったか、そろそろ動いてもいいのかとやや上目遣いに様子を窺うと、ティエリアはまだ腕組みをしていた。
その腕が解かれて伸びてきて、殴られるのか、それも仕方ない、と覚悟すると、額の上のほうを掌で軽く叩かれた。
ぽんぽん、と。
驚いて今度ははっきり見上げると、ティエリアの表情は緩んでいた。
「なんの真似だ?」
「さあ? だがあなたはこうしてほしいのかと思って」
「わけわからねえ」
「だろうな。
あなたが激昂するのを見るたび、私達は置いていかれたような気分になるのだが、それもあなたにはわからないことだ」
ぽんぽん、とまたされた。
なにを言われているのかさっぱりわからなかったし、私達、というのが誰と誰を含むのかもわからなかったが、悪い気分ではなかった。
先ほど蹴られた腹が痛んだ。
ひょっとしたら肋骨の一本くらい折れているかも、とちらりと思った。