穏やかな日

「ただいま」
部屋に入った刹那は、一歩進むたびに踏んづける服やらタオルやらを拾いあげつつ、メインルームに入った。
「おかえり、刹那」
素っ気無くではあっても出迎えの挨拶をしてくれるのはいいのだが、頬杖をついてソファに寝そべり端末を見ているティエリアの姿は非常にだらしない。
足を交互にぱたぱたと上に下に動かし、どうやら機嫌はいいらしい。
「なにか変わったことはあったか」
「…たまには外に出て、自分で確かめたらどうだ、ティエリア」
「嫌だ」
妙に力を込めてティエリアは言い切った。
この町に来て一ヶ月になるが、ティエリアはずっとここにいる。
メインルームにベッドルームがふたつの広い部屋とはいえ、よく息が詰まらないものだと思うが、どの町へ行っても大体ティエリアは外に出ない。
「食事はしたのか」
「してない。いらない」
どうせそうだと思っていたので、持ち帰った紙袋からデリを取り出す。
「拒否するなら無理矢理口に突っ込むぞ」
以前に一度本当にそうされたときのことを思い出したのか、思い切り顔をしかめてティエリアは起き上がった。
しばらく切っていない髪は肩甲骨のあたりまで伸びていて、中性的な容貌を女性寄りに見せている。
刹那の故郷の民族衣装に似た白のワンピースを着ていて、細い足首などが魅惑的、と言えないこともないのだろうが、生憎刹那にはなんのアピールもない。
それにはいろんな理由があるが、こんな伸びきった状態を知ってしまったことが一番の原因だ。
今後なにがあっても、ティエリアに惑うことはないと断言できる。
彼らの仲間が「ティエリア・アーデ」だと思っている、かつて刹那もそう思っていた姿は、任務と責務があってこその「ティエリア・アーデ」だった。
為せねばならぬ、という縛りがあったので、そのために自分を律してたティエリアは、縛りがなくなると、長期休暇中の子どものようになってしまった。
スメラギ化、と刹那は密かに呼んでいる。
ティエリア曰く、「誰にも迷惑をかけていない」そうだが、現に刹那があれこれ世話を焼いている。
だがそれをあまり言うと、
「じゃあ刹那は好きなところに行け」
となるので、言えない。
「刹那はさっさとマリナ・イスマイールのところに行け」
は、ティエリアの口癖だ。
マリナのところに行かないのには刹那なりの理由があるのだが、それはティエリアには理解されない。
本当は理解されているのだろうが、くだらない理屈だと思われている。
今もティエリアはテーブルに着きながら言った。
「刹那はいつまでも僕にかまっていないで」
水の入ったボトルの封をねじ切って差し出した刹那に、ふわりと笑いかける。
「彼女のところに行けばいいのに」
微妙に開いた外見年齢のため、普段はティエリアのほうが年下のようなのに、こういう笑い方をするときだけ大人びる。
筋力を維持する必要がないのなら、と完全なベジタリアンになったティエリアは、サラダのなかに入っている細かなベーコンを器用に分けながら、葉虫のようにレタスを咀嚼する。
捨てるのは勿体無い、と自分のほうに差し出されたベーコンを、刹那はつまみながら訊ねた。
「次はどこにする?」
そうだな、とティエリアは視線を彷徨わせた。
彼らはもうあちこちいろんなところに行った。
それでも世界にはたくさんの町があり、すべてを訪れるにはまだまだ時間が必要だ。
「俺は行きたいところがある」
「どこだ」
「ダブリン」
刹那の提案に、何事にもあまり心を動かされないティエリアが、赤い瞳をつい、と動かした。
「行ったことがなかったか、刹那」
「任務は行ったことに入れない決まりだ」
そうだったな、とティエリアはフォークの先を唇の上に置いて思案した。
「じゃあ、次はダブリンへ。
僕は行ったことがあるが」
「任務以外でか」
「そう。墓参りに」
ああ、と刹那は頷いた。
そんな話は初耳だった。
「雨が降っていて寒かった」
懐かしむようにティエリアは呟いた。
「ダブリンに着いたら、行くか?」
「墓参りに? いや、もう行かない」
「なぜだ」
「ロックオン・ストラトスはあそこにはいないと思うから」
彼の口からその名が出るのは久しぶりで、刹那は柄にもなくどきりとした。
「だが、やはり行こうかな」
「どっちだ」
「さあ。着いてから考えることにする」
次の行き先も決まり、話すこともなくなったので、ふたりはそれぞれ反対の方向を向いた。
穏やかななんでもない日の午後だ。

Posted by ありす南水