いつかあなたに追いつく日まで
皆にさよならを告げてから、どのくらい経っただろう。
「どうして僕のデータを消さない」
突然話しかけられて、僕は少し驚いた。
リボンズ・アルマークの意識は頑なに対話を拒んで、随分長い間沈黙が続いていた。
底を目指して潜るのを中断し、僕は意識を浮上させた。
「君が人間を嫌いな理由を知りたいから」
僕が答えると、リボンズは笑った。
「ヴェーダに蓄積したいなら、記録だけ残せばいい。意識は必要ない」
「君の心を知りたい」
本当はもう知っていた。
刹那との戦いのなかで、彼は何度も本音を漏らしていた。
リボンズにはいなかったのだ。
彼が彼であるだけで存在していい、と言ってくれる人間が。
既に僕とリボンズはヴェーダの一部なので、僕の思いはそのままリボンズに伝わった。
リボンズは僕を攻撃する。
「ロックオン・ストラトスが君に優しくしたのは、ティエリア・アーデ、君が特別だからじゃない」
そのとおりだ。
彼は僕でなくとも、僕と同じ状態の者がいれば手を差し伸べただろう。
それでも、なんの役にも立たない僕でもそれは僕なのだと、ロックオンはそう言ってくれた。
彼によって僕は、優しさとはなんなのかを学んだ。
「まやかしだ。君は自分に都合のいい夢を見ている」
リボンズは苛立ちを隠しもしない。
僕は提案する。
「君にも見られる夢だ。
確かめてみたいなら、肉体を得てもう一度人間と関わってみるといい」
「いいのかい。僕はまた、刹那・F・セイエイを排除しようとするよ」
「同じことを二度する君じゃない」
リボンズは再び黙り込み、僕は判断を彼に任せ、傍を離れた。
意識のほとんどを、再び電子の海に沈ませていく。
膨大なデータの蓄積はひとつの世界を新たに作り、果てしなく深い海の底は柔らかな殻に包まれ、別の世界と隣り合っている。
そのことに気づいてから、隣り合う別の世界を見るために、僕はたいてい底のほうにいるようになった。
殻が接しているあたりには、ただ淡く光が満ちているだけでほかにはなにもない。
向こうが光の塊のようなので、こちらも照らされているのだ。
あちら側は、なにも知らなかったかつての僕が、いつか辿り着けると思っていた場所だ。
命が、帰っていくところ。
僕は殻の向こうには行けないが、ここで歩くように動くと光の粒が足に絡み、砂浜を歩いた記憶が呼び起こされる。
裸足で歩くなど当時の僕には考えられないことだったが、波で靴が濡れて仕方なくのことだった。
一番後ろにいる僕をアレルヤが気遣うように振り返り、刹那は気にも留めない様子で、 でもなぜかすぐ隣を、ロックオンは取り上げた僕の靴を左右の手にひとつずつ持ちながら、一番前を歩いていた。
僕をひとりの人間たらしめた、記憶の欠片。
ここでは時間の流れ方も、肉体のある世界とは違う。
一瞬とも永遠とも言える時間を、僕はここで光の波と戯れて過ごした。
起きているのか眠っているのか、そんな状態のなか、ふと僕はそこに彼がいることに気づいた。
ずっとそこにいたのか。
僕が知らずに移動していたのか。
彼がやってきたのか。
どれであれ僕は彼を見つけて、急いで近づいた。
会いたかった。
どうしてここに。
そんな言葉は結局彼には伝えられなかった。
彼は頭を抱えてうずくまっていた。
「ロックオン」
顔を伏せているので、表情を伺えない。
「ロックオン、どうした」
「…寒いんだ」
久しぶりに聞く声は震えていた。
丸めた背中に手を置くと、氷のように冷たい。
僕は少しでも彼が温もればと思い、傍らに寄り添った。
「ロックオン。あちら側に行けば温かくなる」
僕は隣り合う世界を見ながら言った。
「…動けない」
「連れて行ってあげたいけれど、僕にはあそこへ行くことは出来ない」
なにをすればいいのかわからなくて、背中を撫で続けていると、彼が顔を上げた。
誰だか思い出せないようだったので、僕は微笑んだ。
「あなたに救われた命だ」
彼は困惑するような表情を浮かべた。
右目は綺麗な緑色で、ああ、傷は癒えたのだと安心した。
僕は彼の手を取り、グローブを脱がせた。
「あなたはもう銃を持たないから」
ゆっくりと光の源を指差して、視線を導いた。
「さあ、あちら側へ」
だが彼はまた顔を歪めた。
「俺には、あそこへ行く資格がない」
「資格などいらない。あそこで生まれたものはあそこへ帰っていく。それだけだ」
僕が腕を引っ張ると、僕にすがるようにして彼は立ち上がった。
「ロックオン、あなたは十二分に戦った。
あとは安らかな眠りにつくといい」
いつの間にか、彼は十代の少年の姿になっていた。
僕より少し年下に見えるその表情は幼いが、もう泣いていなかった。
僕は彼の背中を力を込めてゆっくり押した。
「さあ、行くんだ」
少年は歩き出し、ゆっくりと、確実に光の源へ近づいていき、薄い殻が接触する手前まで辿り着いた。
そこで彼は振り向いた。
ああ、さようならだ。と僕は思った。
永遠に、さようならだ。
僕は忘れない。
僕のなかではなにひとつ色褪せない。
少年はまた光のほうに向き直った。
それからまた急に向きを変えて、こちらに戻ってきた。
走るほどではなく、歩くよりは早く。
僕の目の前に戻ってくると、少年は僕を見上げた。
「おまえと一緒にいる」
どうして。
「一緒にいる」
見た目相応なのか、口調が子どもっぽい。
笑いたいのか泣きたいのか、僕は自分でわからなくなった。
「あなたという人は」
ここは永遠のような場所だ。
ここに彼とずっといられるというならば、それは僕にとっての誘惑だ。
僕は笑おうとしたが、やはり本当は泣きたかったのかもしれない。
「いい加減にしたほうがいい。
さすがに僕でも、それを優しいと言っていいのかどうか考える」
なにか言いかける少年を見つめると、気まずそうに目を逸らした。
僕は少年の手を取って、一緒に境界まで歩いた。
僕が行けない証拠に、僕は殻に手を触れた。
なにも起こらない。
「さあ」
促すと、彼は右手を殻にあてた。
そこからゆるゆると殻が溶けていく。
戸惑い顔で僕を見た少年に、僕は頷いた。
殻は少年を通すと、すぐにまた元の殻になり、向こう側の光が徐々に光度を上げていき、溶けるように輝いた。
眩しくてなにも見えなくなったそのとき、少年ではない、僕の知るロックオンの声が聞こえた。
「また会おうぜ、ティエリア」
元の明るさに戻ったとき、僕はひとりだった。
僕はぽつんと立ち尽くし、耳に残った声を何度も再生した。
そうか。
別れの時にはああ言えばいいものなのか。
さようならより寂しくない。
皆にもそう言えばよかったかもしれない。
また会おう、皆。
またいつか。
僕はまたロックオンに教えられた。
会えるだろうか。
どの地か。どの時か。どの姿でか。
「僕はきっと、あなたと出会う」