ロマンチックは遠すぎる
「それで?」
目の前の女に、克哉は冷たい目を向けた。
「御堂さんと別れてください」
ピンクの口紅が艶やかな唇が舌足らずな言葉を紡ぎ、 それまでの話から結論はわかっていたのだが、克哉のこめかみはぴくりと動いた。
もし向かい合う相手が男であれば、コーヒーを頭からかけてやれたが、女相手に、しかも年下にそれはまずい。
黙ってしまった克哉に業を煮やしたのか、女は続けた。
「私のほうが御堂さんを幸せにしてあげられます」
なにを根拠に。
「子どもも産んであげられるし、世間に認められる家庭を築けます」
それがそんなに大事なのか。
「だからあなたは邪魔なんです」
克哉はテーブルの下で両手を握り締めた。
こんな場面は何度も想像したが、現実となるとこれほどムカツクとは想定外だ。
相手が苦労など永遠に無縁、といった風のお嬢さんだからだろうか。
そのくせ克哉を問答無用で排除しようとする。
別れない。
何度もシュミレートしていたので、答えは決まっている。
ただし、場合によっては一番近い立場から引くことも、やむなしと思っていた。
そうすることが御堂にとって益になるならば、仕方ないと。
それなのに、御堂の見合い相手という女を前にして、克哉は思っていた。
絶対別れるものか。
「別れてください」
「嫌です」
女は目を見張り、信じられないといった表情で克哉を見た。
克哉は精一杯の営業スマイルを浮かべる。
「別れ話は当事者同士でするものでしょう。
オレは孝典さんから直接そう言われない限り、別れません」
物凄く気持ちが盛り上がっているときにしか口にしない、恋人のファーストネームをあえて使ってみると、効果は絶大だった。
自分の理論が通用しなかったことへの悔しさからか、克哉の言葉に妙な生々しさを感じたのか、女は顔を赤くして唇を噛んだ。
目に涙を浮かべて克哉を睨むが、克哉は笑顔で頑張った。
「…もういいですっ!」
音を立てて席を立った女は、ハンドバッグを掴んで店を飛び出していった。
お取り込み中の東洋人に向けられるほかの客の視線を感じながら、克哉は小さく息を吐いた。
御堂が帰宅すると、テーブルにいつもよりはるかに豪勢な食事が並んでいた。
「おかりなさい。今から肉、焼きますね」
「あ、ああ」
分厚い牛フィレをフライパンで焼き始めると途端にいい音がするが、和食が基本の克哉がサラダから始まるコースを作ることは珍しい。
「克哉…?」
「なにしてるんですか? 着替えてきてください。
それとも先にワインを選んでくれますか?」
言葉だけは丁寧だが顔は無表情で、テーブルの華やかさと克哉の態度が、明らかに食い違っている。
御堂は克哉の後ろにまわると、腰に腕をまわした。
「なにを怒ってるんだ?」
怒ってません、と克哉は言わず、肉をひっくり返してフライパンの蓋をした。
御堂としては克哉の髪の匂いを吸い込みたかったのだが、肉の焼ける匂いに包まれる。
克哉はフライ返しをコンロの脇に置くと、その手で御堂の腕に触れ、からだの位置を変えた。
「御堂さん。オレに隠してることありませんか?」
「ないが」
途端に眉根を寄せたところをみると、その答えに不満らしい。
「回りくどい聞き方をするな。なにが知りたいんだ」
「じゃあ言いますけど。
御堂さん、お見合いしたでしょう」
「してない」
「オレ、今日、御堂さんのお見合い相手だという人に呼び出されましたけど」
「はあ? 誰だ、それは」
克哉は意外に悋気が強いが、わけのわからない話に付き合ってやる気はない。
「ちゃんと話せ。なにがあった」
数十分後、克哉からあらましを聞いた御堂は、先日まで手がけていた仕事で一緒だった取引先の社員に電話していた。
「紹介など必要ないと言ったはずです。
単なるパーティということだから、私は参加したんです。
こちらに黙って、相手に見合いと伝えるなんて、なにを考えているんです。
しかもろくに話もしていないのに、私のパートナーに別れろなどと、非常識にもほどがある!」
克哉がおろおろしているのが目の端に入ったが、御堂は言葉を緩めず言いたいことを言って電話を切った。
「み、御堂さん、まずくないんですか。取引先の人にあんな言い方」
「非があったのは向こうだ」
気のいい年配の管理職なのだが、変に世話を焼きたがるので、パートナーがいるのでかまわないでくれとはっきり言ってあった。
その相手と結婚するのかとまで聞かれたので、結婚はしないが一生付き合っていくつもりだとさらに言い、納得したのだと思っていたが、 彼の住居で開かれた打ち上げと称するパーティに招かれていた、ニューヨーク赴任中の旧友の娘というのが、 紹介したがっていた相手だとは思わなかった。
「君のことがなくても、一番結婚したくないタイプだな」
「それは、まあ。普通まだ付き合ってもいない人の交際相手を呼び出しませんよね…」
恵まれた環境で大事にされて育つと、自分の価値観が万能だと思いがちだが、それにしても思い込みが激しい女だ。
「それで?」
すっかり冷えてしまったテーブルの上の料理を、御堂は眺めた。
「一体この脈絡はなんなんだ?
私が君に隠れて見合いをしたと君が思ったのは理解した。
それでどうしてこの料理になるんだ?」
克哉は気まずそうに目を逸らせて、それから思い切ったようにもう一度目を合わせた。
「御堂さん、手、出してください。左手」
言われるままに左手を差し出すと、克哉はジーンズの後ろポケットから小さな箱を取り出した。
それは…と思っている間に、なかから指輪を取り出し、御堂の左手薬指にはめられる。
「これからずっとつけていてください。…虫除けです」
ぴったり納まった指輪を、御堂はまじまじと見つめた。
克哉の左手にあるのと同じプラチナリングだ。
「…買ったのか」
「買いました。
サイズがなかったので、ほかの店舗にないか調べてもらって、すぐに欲しかったので取りに行きました。
これで貯金がなくなったので、御堂さんにここを追い出されたら日本に帰ることも出来ません」
「嫌なプレッシャーのかけ方をするな」
御堂が顔をしかめると、克哉はいたずらっ子のように笑った。
近頃は小憎らしいことが多いのだが、そんな顔はやはり可愛い。
今更別れられるものか、と思う。
ニューヨーク赴任になったとき、このまま自然消滅するならそれもいいと思ったはずなのに、一ヵ月後御堂は克哉を迎えに行っていた。
離れているあいだに克哉の気持ちが移ろうかもしれない、などという焦れた思いは二度と経験したくない。
「孝典さん」
克哉は御堂の左の手のひらと自分の左の手のひらを重ね合わせた。
「健やかなるときも病めるときも。えーと、なんでしたっけ」
「死が二人を別つまで、だ」
「なんだかもっとあったような気がしますけど。
いっか。省略。
全部、誓います」
御堂が黙っていると、言え、というふうに左手を押された。
「…誓いのキスが必要か?」
どんなに誓っても心が離れるときには離れる。
こんなことをしてなんになるんだろう、と思う一方で、御堂は克哉に誓わせたことに満足していた。
少なくとも今このとき、彼にはそれだけの気持ちがある。
おそらく克哉も同じ理由で御堂に誓わせるのだろうが、言葉はどうしても気恥ずかしい。
唇を離すと御堂は笑った。
「ついでだから、誓いの儀式もこのままやろう」
「儀式?」
尻をするりと撫でると、克哉は赤くなった。
「なんかこう、ロマンチックになりきれない、というか、即物的、というか」
「君は即物的なことが好きだろう?」
「…否定はしませんが。
御堂さんだって好きでしょう」
「否定はしないな」
テーブルはそのままに、ふたりはベッドルームへなだれ込んだ。
「腹が減ったな…」
御堂の呟きに、仰向けに寝ていた克哉は口を尖らせた。
「だから先に食べましょうって言ったのに」
「こっちに持ってくるか」
「もう冷めておいしくないですよ」
そんなことはないだろう、とからだを起こした御堂は、ふと動きを止めて克哉の顔を覗き込んだ。
「指輪を買ってきたから、今日は豪勢な食事にしたのか?」
そんなことを聞くのは意地が悪いと克哉は思う。
恥ずかしいではないか。女の子みたいな発想が。
「御堂さんの好きなものを作ったつもりなんですけど。
五感に記憶されたら今日を忘れないかと思って」
ああ、と御堂は克哉の額にキスを落としながら言う。
「その点は心配いらない。
今日のことを思い出すとき、私はきっと、ステーキが焼ける匂いを思い出すな」
本当にこの人は意地悪だ。
でもまあいい。
彼が意を決して、全財産をはたいて買った指輪をしてくれているから。
正直こんな思い切りでもなければ一生御堂にこの指輪は渡せなかった。
克哉が貰った指輪は、衝動買いでなければ思い切れないほど物凄い値段だった。
明日から頑張って働こう。
勤労意欲の湧いている自分に気づいて、本当に即物的だ、と克哉は思った。