恋の話
金曜の夜本多は佐伯克哉のアパートへ向かっていた。
克哉は今日は一日内勤だったので、もう帰っている時間だろう。
約束を取り付けない訪問は、このところ元気のなかった克哉を驚かせ、気分を変えさせてやろうという気持ちからだった。
コンビニで買ったビールとつまみの入った袋を提げ、克哉のアパートの前まで来て、本多は足を止めた。
辺りは暗いが、アパートの廊下には照明があり、かえってくっきりと浮き上がっている。
克哉の部屋の前に誰かいた。
背の高い、男だ。
本多は何度か瞬きして、それが知っている人物であることを確認した。
御堂…?
仕立てのいいコートに身を包んだ御堂は、ワンルームのアパートにはまったく馴染んでいない。
一年近く会っていないが、印象の強さはそのままだ。
MGNの企画開発一室の御堂部長。
いや、もうMGNの、ではない。
本多はわずかに顔を顰めた。
プロトファイバーの一件は、本多にとっても苦い経験だ。
なんとか道を切り拓けると信じていたのに、結果は思い通りにならなかった。
責任者の御堂は担当を外され退職し、営業を受け持った八課はそれまでよりさらに厳しい状況に置かれた。
だがあれがきっかけで、その後は大きく変わった。
それまで本多がどんなにはっぱをかけても、今ひとつやる気を見せなかったが克哉が、 別人のように成績を伸ばし始めたのは、あのあとだ。
克哉の仕事は着眼点が斬新で大胆で、大手の新規得意先をいくつも開拓し、 影響でほかのメンバーのモチベーションも上がり、八課全体の成績も上がった。
営業八課が下半期の業績で、花形である一課を抜くのは間違いない。
その克哉の口から、御堂の話題が出たことはない。
御堂が転職したという葉書は随分前に受け取ったが、そのときも克哉はなんの反応も示していなかった。
克哉に用、なのか? まさか
そう思ったとき、ドアが開いて、ジーンズにカジュアルなコートを羽織った克哉が出てきた。
片足を上げてスニーカーを履きながら、何事か御堂に話しかけるが、御堂は克哉を置いて、階段を下り始めた。
「待ってください、御堂さん」
抑え目に張り上げた克哉の声が、夜の静けさに響く。
振り返りもしない御堂に、さらに声が追った。
「待ってくださいってば。…孝典さん」
御堂の足が止まった。
克哉はそのあいだにドアに鍵をかけ、笑顔で近寄り隣に立った。
御堂が克哉になにか言うのは本多には聞こえなかったが、克哉がその腕に自分の手を絡ませ、前に引っ張るのは見えた。
ふたりはそのまま、駅の方向に歩いていった。
寄り添うふたりの姿はまるで。
まるで。
月曜日、本多は克哉を昼食に誘ったが予定が合わず、就業後飲みに行くことになった。
取引先相手同席では克哉は本多に声をかけることが多いが、ふたりでは久し振りだ。
「克哉」
注文したビールが運ばれてくるのを待てず、本多は聞いた。
「おまえ、御堂と今でも会ってるのか」
携帯のメールチェックをしていた克哉は、顔を上げて本多を見た。
克哉にこんなに真っ直ぐ目を見られたのは、随分久し振りだ。
「御堂さん?」
表情から感情は読み取れない。
「金曜日、おまえのアパートに行ったんだ。
一緒に飲もうかと思って」
一度瞬きしてから、克哉は笑った。
「そうなんだ。何時くらい?」
「9時、になってなかったと思う」
「じゃあ、出かけたとこかな。本多が見たのは。
御堂さんが来たのは7時くらいだったから」
携帯を閉じながら、克哉が言った。
そのあまりに普通の様子に、本多は混乱した。
「来たって…あの御堂がおまえの部屋に?」
「うん。だって本多、見たんだろ?」
ようやく運ばれてきたジョッキの淵を、はい、お疲れ、と言いながら、克哉が本多のジョッキにぶつけた。
「いや、そりゃ見たけどよ。見たけど、おまえ」
「付き合ってるんだ。一年くらい前から」
黙っててごめん。ビールを一口飲んで、克哉は謝る。
本多はジョッキを落としそうになった。
「つ、付き合ってるぅ?」
賑やかな居酒屋の店内で、多少の声の大きさは目立たない。
克哉はまったく気にしなかった。
「おい、待てよ。俺は今、御堂の話を」
「わかってるよ?」
だからごめん。友達が男と付き合ってるなんて、本多、ショックだろ?
目の前の克哉が困った顔で笑いながら、そんなことを言うのを、本多は遠い世界の出来事のように眺めていた。
ショックはショックだが、克哉が言っているような意味ではなかった。
そのほうがショックだ。
味などしないが、落ち着こうとビールを飲む。
「一年前から、ってプロトファイバーの営業してた頃じゃねえか」
「ちゃんと付き合うようになったのは、少しあとからだけど」
克哉の視線が少しだけ揺れて、目が伏せられてからまた上げられた。
「でさ、本多。オレ、会社辞める」
「はあ?」
「今日片桐さんに辞表出したんだ。まだ正式には受理されてないけど」
「ま、待てよ。辞めてどうするんだ」
「ニューヨークに行く。御堂さんが来いって言うから」
一月前から御堂はニューヨークで仕事をしているのだという。
「お、おまえまで行って、どうするんだよ。仕事は」
「わかんないけど。探すよ」
「探すって、おまえ」
「うん、わかる、本多の心配。
オレもそう思ったから、一ヶ月前ついて行けなかった」
淡々とした口調が、本多を克哉から遠ざける。
「御堂さんもなにも言わなかったから、ああ、終わったのかなって」
思って過ごしたこの一ヶ月、なにをする気力もなくて。
「御堂さんがいないと、生きていけない」
ぽつりと漏らされた言葉が、本多の胸をえぐる。
「そしたら、迎えに来てくれた」
克哉から、愛の告白を聞かされる日が来るなんて、思いもしなかった。
たとえそれが、自分に向けられていない告白であったとしても。
だが早打ちのようになっている鼓動とは逆に、本多の頭は妙に冷めていた。
「御堂は今、どこにいるんだ」
「ニューヨーク。日曜の朝戻ったから」
「…おまえに会うためだけに帰ってきたのか」
幸せを抑え切れない、というふうに克哉は笑った。
なんてことだ。
なんてことになっていたんだ。
あいつはやめろ。
絶対やめろ。
おまえにはほかにもっと似合う奴がいる。
そう思っても、もう遅い。
克哉がなぜ、自信を持って仕事に取り組むようになったのか、生き生きして楽しそうに笑うことが増えたのか、本多にもわかってしまった。
「あの、本多」
克哉が少し居住まいを正した。
「オレが会社辞めても、オレたち、友達、だよな?」
本多は言葉に詰まった。
自分の気持ちも今わかった。
わかってしまった。
克哉に対するこの感情は、友情などではない。
だが本多はこらえた。
会社を辞めるなら、御堂とのことは言わないままにしておくこともできたのに、克哉は本多に話をした。
克哉が自分を友達だと思っていてくれるならば。
「当たり前だろ」
少し声が掠れたが、一応笑うことは出来た。
「いつでも電話してこいよ。寂しくなったらさ」
克哉がほっとしたように表情を緩めた。
「うん、そうする」
その顔が今まで見てきたどの顔より可愛くて、本多は克哉にわからないよう唇を噛み締めた。