(3)

佐伯君が福岡支社長に引導を渡していた。
克哉が客先から戻ると、そんな噂が社内に広がっていた。
喫茶店にいるところを見ていた者がいたらしい。
「佐伯さん。福岡支社長の頭からお冷をぶっかけて、誰が福岡支社なんかに行くか、おとといきやがれバカヤロー、って叫んだって本当ですか」
「…本当だと思うかい?」
「あはは。ですよねー」
藤田は他愛なく笑い飛ばしてくれたが、MGNにおいて噂にどのように尾ひれがついていくのか、克哉は学んだ。
「椅子を蹴って立ち上がり、福岡支社長の顔に熱いコーヒーをかけて、オレは一室を離れない、と叫んだそうだな。克哉」
その日日帰り出張していてマンションに直帰してきた御堂は、着替えもしないうちにそう言った。
地獄耳、という言葉を頭に浮かべながら、克哉は目元を押さえた。
「言うわけないじゃないですか…」
「そうなのか? 君がそこまで一室に愛着を持ってくれているのだと、私は思わず胸が熱くなったのだが」
「それは勿論一室にはいたいですけど」
というか、御堂さんの傍に。
ごにょごにょと言葉を濁しながら、御堂の襟元に手を伸ばした。
MGNはクールビズを遂行しているが、今日は他社での集まりだったので御堂はサマースーツを着込んでいる。
御堂のネクタイのノットにかけた克哉の指に、御堂の指が絡んだ。
「君と支社長の真実のやりとりを教えてもらおうか」
「真実って」
「福岡支社長となにを話した」
御堂さんのことを悪く言うから、カッとなって啖呵を切りました、とは言えない。
よくよく考えれば、支社長の御堂への心象を一層悪くした。
「えっと、あの、その」
「言わないつもりか? それとも無理矢理言わせてほしいのか?」
下半身を引き寄せられて、克哉は焦った。
「あの、オレ、すみません。後先考えずに御堂さんにご迷惑をおかけして…」
「いいからさっさと言え」
「ちょ、えっ、だから、御堂さん…待って…あっ、ア…ッ!」
無造作なのに繊細な手つきに、克哉はあっという間に陥落した。
「言います…言いますからーっ!」
支社長とのやりとりを、思い出せる限り一言一句違わず再現させられた克哉は、ソファにぐったり倒れ込んだ。
「君は時々キレるな」
まったくもってその通りな御堂の感想に、克哉はクッションを引き寄せて頭を隠した。
「…すみません。これからはもっと考えて発言します」
「そうしたまえ。さて、では先にシャワーを浴びるか」
解いたネクタイを襟元から引き抜くと、御堂はバスルームに向かおうとした。
「あ、あの、御堂さん…」
克哉は思わず追いすがる。
中途半端に煽られたままのからだは、全然おさまっていない。
「なんだ? 明日の朝も早いだろう」
「そうですけど…」
とはいえ、毎晩することはするのだ。ただ、平日は一回だけ、と決めている。
食事や風呂を飛ばしてするのもなしだ。
経験則から、その後食事どころでも風呂どころでもなくなってしまうのがわかっているからだ。
「夕食…まだなんですよね?」
「そうだな」
御堂がシャワーを終えて食事を終えてベッドルームに来るまで待てるだろうか、と考えて、克哉は本気で眩暈がしそうになった。
意地悪く笑う御堂は、バスルームを示した。
「一緒に来るか?」
ほんのわずかにためらって、次の瞬間克哉は頷いていた。
健康のために食事がどうの、と普段あれだけ言っておいて、ちょっと快楽に流されてこの有様だ。
「はい。あの、ごめんなさい…」
今日二度目の謝罪だ。しゅんとなって俯くと、顎を掬われた。
「なにが?」
上を向かされて、克哉は胸を詰まらせた。
「御堂さん、好き…」
うわごとのような呟きに、御堂が苦笑する。
どうしてそんな顔をされるのか、克哉にはよくわからなかったが、今は触れ合う肌の熱さがすべてだった。

どこに行くのも御堂に同行する時期が過ぎ、克哉が主体となる案件をいくつか抱える立場になったせいで、 克哉が次に福岡支社長に会ったのは、半年近くあとだった。
新年総会のパーティの会場で支社長の姿を見つけて、克哉は役員との会話をそつなく切り上げた。
人をかきわけて近づいてきた克哉に、支社長も気づいた。
「ああ、佐伯君。久しぶりだね」
「あの」
ビジネストークはかなり上手くなったはずだが、言葉が出てこなかった。
「あの。以前は大変失礼なことを言いまして、申し訳ありませんでした」
「…ああ」
忘れるはずもなかろうが、支社長は今思い出した、という顔をした。
それから会場の隅のほうを身振りで示す。
「君は目立つからね。また噂になるといけない」
もうとっくに消えたが、克哉と支社長が喧嘩した、という話が一時期広まったことを、当然支社長も知っていた。
なにか飲むかと尋ねると、お茶を、というのでウーロン茶のグラスをふたつテーブルから取ってきて、克哉は支社長と壁際に並んだ。
「あの、本当にオレ…」
「律儀な君のことだから、気にしてるんじゃないかと思っていたが、やはりそうだったか」
克哉は困る。
支社長がこだわっていないなら、自己満足のために謝意を伝えていることになるが、人の本当の気持ちなど言葉からはわからない。
若造に生意気な口をきかれて、気分がよかったはずがなく、 ましてや支社長は克哉を思いやりこそすれ、害のあることを言ったわけではなかった。
「実はあの次の日、御堂君から電話が入ってね」
「え!」
思わず克哉が素の状態になってしまうと、支社長は笑った。
「佐伯君は優秀だがまだ若いので、感情に走ってしまうことがある。申し訳なかったと謝罪された」
そんな話は聞いていない。
だがあのあと、御堂と支社長の関係は特に悪くはならなかった。
それはこういうわけだったのか。
「他人のために頭を下げることが出来ない男だと思っていた。
君の言う通りだな。
君にとって御堂君は信頼するに足る人物なのだろう」
認めてほしいはずなのに、認められてしまうと気恥ずかしい。
「あの、御堂さんは確かにそうなんですけど、オレは本当に失礼しました」
支社長はまた笑ったが、今度はそれまでとは少し違った感じだった。
そして克哉はさらに支社長と話をした。

「君は記録にでも挑戦しているのか」
ベッドで経済誌を読んでいる御堂を、クッションを抱えて隣に寝転びながら見ていた克哉は慌てて首を横に振った。
「えっと、あの、オレ、どのくらい御堂さんを見ていました?」
「私が気づいてから、三十分」
時計を見ると、克哉が最後に時間を確認してから一時間弱過ぎていた。
直後から見ていたわけではないが、かなりの時間見つめていたわけだ。
「いつ飽きるのかと思って、黙っていたら」
「す、すみません…っ。オレ、なにか飲み物取ってきます」
タオルケットを腰に巻きつけてベッドを抜けようとしたが、御堂に腕を掴まれて膝の上に倒れこんだ。
「…御堂さんっ」
「別にいいぞ。見たいだけ見ていれば」
上から顔を覗き込まれて、ぎりぎりまで唇が近づいてくると、克哉は我慢出来ずに自分からキスをした。
首に腕を回して体重をかけて、御堂もベッドに倒れさせる。
くしゃりと音がしたので視線を寄せると、経済誌の上に御堂の手が乗っていた。
景気の動向を分析する記事の見出しを無意識に読み取り、頭がふと仕事に切り替わる。
「御堂さん」
「なんだ」
「オレ、このあいだ福岡支社長と話をしました」
御堂は一度瞬きした。
そのことについて具体的になにも言うな、と目が語る。
福岡支社長は御堂に言ったのだそうだ。
君が絶えずプレッシャーを加えることによって、佐伯君は努力し続け、無理をしているのではないか、と。
それに対して御堂は答えた。
「私も常に努力しています。佐伯君の目指す私であるために」
支社長の前で、克哉は顔が赤くなるのを抑えられなかったし、今も思い出すと頬が熱い。
克哉は御堂を見上げた。
「オレ、もっともっと御堂さんのお役に立てるように頑張ります」
御堂の指の節が、克哉の頬を撫でる。
「御堂さん?」
「私は君が三十になるのを目処に、MGNを辞める」
「え?」
「一室の部長職に就いた次は、経営陣に加わるか起業独立だ。
以前はどちらでもいいと思っていたが、今は起業のほうが魅力的だ。
君がいるからな」
「オレ…?」
御堂は克哉の知る一番傲慢な顔で頷いた。
「君となら世界でも手に入れられる」
いきなりな話に、克哉は目をぱちくりさせた。
「…冗談、ですか?」
「本気だ。
だが君がそんなことには興味がないなら、それでもいい。MGNで働き続けたいというなら私も残るし、もう働きたくないと言うなら、養ってやる」
「……」
それはちょっと、と克哉は思った。
御堂は大好きだが、養ってほしいわけではない。
顔に出たのか、御堂はくすりと笑った。
「不満なようだな」
「いえ…じゃあオレも、御堂さんが働きたくなくなったら、御堂さんのこと養いますから、いつでも言ってください」
今よりかなり生活レベル落ちると思いますけど、と付け加えると、御堂は吹き出した。
「そこはオレ的には笑うとこじゃないんですけど」
「そうなのか? それは悪かった」
ベッドを抜けようとする克哉を、御堂は甘く拘束する。
気分を害したふりをやめて、克哉は御堂の腕のなかにおさまった。
あと数年で起業。
この人に並んだとき、見える世界はどんなふうなんだろう。
嫌われないように、ずっと好きでいてもらえるようにといつも思っている今の克哉には想像もつかない。
期待に心が震えた。
「逃がさない」
「逃げません。御堂さんについていきますって言ったじゃないですか」
「追い越せると思ったら、追い越してもいいぞ」
「追い越しません…オレはいつか並びたいだけです」
そして半歩下がって御堂を守る。
それが「ひとり」ではない「ふたり」の意味だと思うから。

Posted by ありす南水