(2)
克哉がエレベータホールで御堂に追いついたとき、御堂は誰かと立ち話をしていた。
邪魔をしたかと謝りながら相手を確かめると、人事部長だった。
「構わない。話は終った」
同意を求めて御堂に顔を向けられた人事部長は、不自然に数回頭を下げて立ち去った。
克哉は若干の非難を込めて、無言で御堂を見つめる。
「なんだ」
御堂は咳払いした。
「十四時のアポイントですが、先方の都合で御堂部長の来社を一時間ずらせてほしいそうです」
そのために外出しようとしていた御堂は眉を寄せた。
「直前か。段取りの悪い」
「責任者の方がちょっと難有りみたいですね」
「具体的に」
「気分次第でアポを入れるので、重複が珍しくないようで」
「それでよく役職に就けたな」
「今後は必ず確認の電話を入れます」
批判については同意せず、しかし御堂の意に沿うようにフォローした克哉は、中途半端に空いた時間に昼食を取ってくればどうかと提案した。
「食べてなかったでしょう。今日も」
ちょうどエレベータの扉が開いたので、克哉は御堂の背を押した。
御堂は普段から割に食が細く、さらに食事よりも大事だと考えている事柄が目の前にあると食べることを怠る。
しかもここのところ夏バテ気味で夕食の量も減っていた。
「鰻とかどうですか。精がつきますよ」
「外に出る時間はない。鰻がいいなら、今晩連れて行ってやる」
そういうつもりではなかったが、去年の夏にも連れて行ってもらった店の味を思い出し、克哉は笑った。
「あ、でも昼は別ですよ。社食だったら時間も大丈夫です」
社員食堂のある階のボタンを勝手に押すと、御堂は顔をしかめた。
「…佐伯君」
満面の笑みで克哉は返事をする。
「はい」
「君は私に精をつけさせて、どうしたいのかね」
「え…?」
ビジネスとプライベートのぎりぎりの境界の低い声の不意打ちに、思わず息を飲みつつ、克哉は踏ん張った。
「仕事に励んでいただきたいです。勿論」
「ほう。私はまた別のことに励んでほしいのかと思ったが。まあいい」
今晩覚悟しておけ。
「御堂さ・・・っ!」
会社でなんてことを! と抗議する前に扉は閉まってしまい、克哉はひとりで赤くなりながら頭を振った。
覚悟というより、期待してしまった。
約束どおりその日の夕食は鰻になった。
食べることに関心が薄いのに、御堂は食通が通うような店をいくつも知っていて顔が利く。
急な予約でも個室を押さえ、克哉は御堂と差し向かいに座った。
「例の福岡行きの話だが、もう忘れていい」
冷酒のグラスに口をつけていた克哉は、視線だけ御堂に移した。
「昼間の人事部長とのお話はそれですか?」
「あれは日和見だからな。同期の福岡支社長に頼まれて君を異動させようとしたが、専務が出てきて大事になりそうなったので、慌てて掌を返した。 曰く”御堂部長の懐刀を奪おうなどというつもりはなかった”そうだ」
克哉は正直ほっとした。
「でも御堂さん。…人事部長を苛めちゃ駄目ですよ?」
御堂よりもはるかに年上の部長を心配するのも失礼な話だが、釘は刺しておかないと、御堂が余計な敵を作る。
昼間のエレベータの前での人事部長の態度からすると、既にかなり威嚇したはずだ。
案の定御堂は不服そうに目を眇めた。
「誰に喧嘩を売ったのか、わからせておくのは大事なことだと思うが?」
だが御堂はやりすぎる。
「オレのためならやめてください」
こういう言い方はあざといが、効果があるのを克哉は経験上知っていた。
そしてやはり御堂は視線を緩める。
「君は可愛いんだか、生意気なんだか」
…生意気。
克哉は心のなかで首をすくめた。
揶揄と嫌悪は御堂のなかで紙一重で、その言葉には要注意だ。
「まあこの件に関しては、大隈専務が激怒しているから私が出る幕はない」
投げ出すように、御堂は言った。
「俯く癖はだいぶ直ったが、どうにもまだ気弱だな」
「御堂さんが好戦的すぎるんです」
「徹底的に上手に出れば相手は引く」
その強気を克哉は愛しているが、同時に隙を生む危険があると思っている。
そしてだからこそ御堂の傍で自分に出来ることがあるのだとも思える。
横に並んで立っていなくてもいい。同じ方向さえ見ていられれば。
「佐伯君」
受付前で声をかけてきたのは福岡支社長だった。
転勤話以降一度あった出張に御堂は克哉を連れて行かなかったので、顔を合わせるのは久しぶりだ。
本社に出張中という支社長は、外でコーヒーでもどうかと克哉を誘った。
「連れ出しておいてなんだが、仕事は大丈夫かね」
近くの喫茶店に落ち着き、克哉と支社長はコーヒーを注文した。
「これから取引先に出向くので、ゆっくりは出来ませんが」
「ああ、では早速本題に入ろうか。
このたびは迷惑をかけて悪かった。大隈専務が直接動くとは思わなかったのでね」
穏やかで実直だが柔軟性にはやや欠ける、というのが、以前から克哉が感じているこの支社長の人柄だ。
「オレ…私は専務に声をかけていただいて、MGNへ来たので」
「だがお膳立てしたのは御堂部長だろう」
なにをどの程度言うべきか判断出来ず、克哉は口をつぐんだ。
「正直なところ私は支社長止まりだろうし、今更派閥もないのでどうでもいいのだが、君はそうもいかないだろうから。 今回のことで専務になにか言われたりしたのなら申し訳ないと思ってね」
「いえ、別に…」
支社長は微笑んだ。
「ならばよかった。佐伯君は御堂君に憧れているのかね」
どうやら支社長は大隈より御堂について話したいらしい。
「御堂部長は優秀な方ですから」
「確かに。あの若さであれだけの実績は早々納められるものではない。 だがそれは君も同じだろう。この際だから言っておくが、同じように優秀であるなら、タイプの違う上司に憧れるのはマイナスだよ、佐伯君」
「そんなことは」
ない、とはっきり言える。
「学ぶことは多いですし」
「君はまだ若いから、御堂君の華やかさに惑わされても無理はない」
「そういうことでは」
「年長者の目で見れば、君は利用されている」
「利用?」
思ってもみない言葉に、克哉は目を瞬かせた。
「君が御堂君の下で働くことにより得るものと、君を下で働かせることによって御堂君が得るものは、明らかにバランスが取れていない」
「御堂さんは結果に対して常に正当な評価をしてくださる人です」
克哉は語気を強めた。
若くして高い地位に就いた御堂には確かに傲慢なところがあるが、謂れのない誹謗中傷にも数多く晒されている。
他人の手柄を横取りして昇進した、というのがその最たるもので、そんなものが前提条件になればいろんなことが悪く見える。
支社長が克哉を心配してくれているのも本当なのだろうが、つい、と克哉は視線を上げた。
自分のことならなにを言われてもかまわないが、御堂のことでは看過できない。
「支社長は福岡支社で、オレにどんな仕事をさせるつもりだったんですか?」
支社長は目を丸くしたが、克哉はかまわず続けた。
「御堂部長がオレを利用していると仰いましたが、ではオレが福岡支店に行って支社長の下で成績を上げれば、 それは支社長の評価につながり、今度は支社長がオレを利用する図式になりますね」
支社長の知る佐伯克哉は、こんな物言いをする人物ではない。 驚きが先に立ったのか支社長は言葉を返してこなかった。
克哉は立ち上がると、支社長に一礼した。
「失礼を申し上げました。気にかけていただいてありがとうございます。
でもオレは御堂さんの力になりたいと思ってMGNへ来ました。だからそうでなくなるなら、この会社にいる意味がないんです」
レジで二人分のコーヒーの精算をすませると、席で中腰になっていた支社長にもう一度頭を下げて、克哉は店を出た。