(9)
ポケットのなかで携帯が震えたので見ると、本多からのメールだった。
がんばれよ
短い内容に、克哉は微笑んだ。
今日の全社会議のことを本多に話したのは随分前だが、覚えていてくれたらしい。
「サンキュ、本多」
ここ数日ほとんど寝ていないが、やらねばならないことのすべてを終えて確認した。
最終的にひとりですべてやってしまったことになるが、進行係など 目立つ役割は”彼”が担っているので、見ている限り協力体制に問題があることはわからないだろう。
会議が始まると、出たり入ったりするため一番後ろの入り口に近い席から、克哉は彼の司会ぶりを眺めた。
朝一番で最終確認のために顔合わせしたとき、睡眠不足の克哉よりひどい顔色をしていたが、 無難に役割をこなしていく。
当日必要なのははったり、と御堂は言ったが、彼は元々華やかな印象の上に堂々としていて見栄えがした。
「佐伯さんもマイク持って前に立ったらいいのに」
昼休憩のあいだに次に使う資料を机の上に乗せていると、手伝ってくれている総務部の女性社員が笑った。
「オレはこれでいいよ。裏方のほうが向いてる」
「そっかなあ。佐伯さん、他の人とはなんか違う感じがしますよ」
「地味ってこと?」
そうじゃなくて、と言いかけて、あ、と言葉が途切れる。
「佐伯さん、専務が」
役員室にいるはずの大隈専務が、手招きしている。
「行ってください。こっちはいいですよ」
克哉は礼を言って、その場を離れた。
全社会議はMGNジャパンの長期的戦略を立ち上げ、前回から今に至る状況報告の場であると同時に、 人と情報の交流の場だ。
克哉も休憩のたびに大隈に呼び止められ、各拠点の責任者に引き合わされ、 御堂からは副社長を紹介された。
副社長はまだ四十代で、徒党を組むのが嫌いな一匹狼だと聞いたことがあるが、 それで今の地位なのだから、相当な切れ者ということだ。
御堂に副社長とのパイプがあるということを、克哉は初めて知った。
ほかにも一歩引いて眺めていると、人の流れがよく見え、 仲がいいと思われているふたりが牽制しあっていたり、敵対しているはずが情報交換していたりする。
克哉は以前からこんなふうに俯瞰で全体を捉えていたが、それを仕事に使えることを学んだのは最近だ。
…面白いな。
冷めた目で、そう思った。
やがて準備の大変さに比べると呆気ないほど、定刻どおりに会議は終了した。
役職付の出席者はこのあとそれぞれ食事を兼ねた集まりに参加するが、それは克哉の管轄外だ。
人気のなくなった会議室で、克哉ははあ、と息を吐きながら椅子のひとつに座った。
…よかった。
この一週間張り詰めていた緊張を、克哉は緩めた。
「佐伯さん、お疲れ様でした」
女性社員が紙コップに入ったコーヒーを手渡してくれる。
ほかの社員が机と椅子を片付け始めているのに気づいて、慌てて立ち上がろうとするのを制された。
「総務でやりますから、大丈夫です。佐伯さんは準備しないと」
「準備?」
克哉が首を傾げると、一室の女性社員が早足で会議室に入ってきた。
「すみません、佐伯君抜けるので、あとよろしくお願いします」
「はい、承知してます」
当の克哉を差し置いて言葉を交わすと、女性社員は克哉を引っ張って通路に出た。
「もう少ししたら佐伯君の携帯に、御堂部長から連絡が入るから。そしたら言われた場所に行ってちょうだい」
きょとんとする克哉の背中を、彼女は軽く叩いた。
「今日最後のオツトメ。上役連中の接待」
「ええっ、オレもですか!?」
御堂が遅くなるのは聞いていたが、自分まで行かなければならないとは思ってなかった。
「取り仕切りをやった若手に、上が興味持った場合にだけ呼ばれるの。 だから絶対お声がかかるわけじゃないんだけど、佐伯君だったら必ず呼ばれるから、 終わったら待機させておくように私が御堂部長から言いつかってたの。 先に聞いてたら、会議に全力注げなかったでしょ?」
「はあ、まあ。でもオレ、皆さんの前に出てないから、興味とか問題外じゃ」
「充分存在感あったわよ」
「そ、そうですか?」
携帯が鳴る。御堂からだ。
「いってらっしゃい。こっちの打ち上げは来週やろうね」
一室のメンバーは本来会議の運営には関係ないが、彼女や藤田には自発的にかなり手伝ってもらった。
ありがとうございました、と頭を下げると、どういたしまして、と微笑まれた。
トイレに寄って身嗜みを整えて、エレベータに向かおうと通路を数歩歩き出して、向こうから”彼”が来るのに気がついた。
やはり彼の属する派閥の集まりに呼ばれているのか、上着をきちんと着て鞄を持っていた。
擦れ違いざま、克哉から言った。
「お疲れ様」
「…お疲れ」
明日からは同じビルで働いていても、顔を合わせることはないだろう。
全社会議は終わった。
「お疲れ様でした!」
最後のひとりがタクシーに乗るのを見送って、頭を上げた途端、克哉はバランスを崩した。
「大丈夫か?」
腰に腕をまわした御堂が支えてくれるので、克哉も御堂の肩に手を置いてなんとか体制を保つ。
「…なんでみなさん、オレにばっかりあんなに飲ませるんですか」
「君がうわばみみたいに飲むからだろう」
大隈専務と専務に連なる上役達は、 下戸だと言っても違和感のなさそうな克哉が酒に強いのを面白がって、次から次へと飲ませた。
「前から思っていたが、君は断ることを知らないのか」
「…今度教えてください」
御堂が呆れたようにため息を漏らす。
「酒のことだけではないんだがな」
御堂はタクシーで帰ろうと思っていたようだが、克哉は車だと気分が悪くなりそうだった。
介助があればなんとか自力で歩けるので引っ張ってもらい、少し先にある公園まで行った。
自販機で買ったミネラルウォーターのペットボトルを差し出されて、克哉はベンチに上半身を倒したまま腕を伸ばした。
「寝たら置いて帰るぞ」
のそのそとからだを起こした克哉は、水を飲んだ。
「通りに出たら車をひろえるだろう。もう乗れるか?」
克哉は自分の体調を確認するかのように目を彷徨わせ、やがて言った。
「歩きませんか?」
「まだ気持ち悪くなりそうなのか」
克哉は首を横に振った。
「今なら御堂さんにくっついてても、酔っ払いが介抱されているみたいに見えるでしょう?」
だから歩きませんか? と言うと、御堂は胡散臭そうな顔をした。
「君は、本当に酔っているのか?」
「はい。だってほら」
手を差し出すと、引っ張り上げられ、そのまま顔を近づけてキスをする。
「酒臭いでしょ?」
心底嫌そうに、それでも御堂は克哉の腕を掴んで歩き出した。
掴まれていた腕をやんわり振り払い、離したばかりの腕に絡める。
「堂々と抱きつける、滅多にない機会です」
克哉は確かに酔っていた。
そうでなくてはこんなことは言えないし出来ない。
「…まあ、いい。今回君は頑張ったからな」
素っ気無く言って顔を背ける御堂に、克哉は笑顔を向けた。