(7)
夏期休暇。御堂のマンションへの引越し。
克哉の夏は慌しく過ぎた。
「途中経過報告書はこれで完成としていい」
朝一番でメールで送っていた報告書について、執務室に呼び出された克哉は胸を撫で下ろした。
MGNへ来て初めて、責任者として担当した喉飴の販売戦略だ。
ずっと以前にヒットして定番化しているが売上げが低迷している商品のリニューアルで、 同様の状態になっているほかの商品を、統一されたイメージで販売展開していく。
「この予算でよくまとめた。正直最初は上が用意した予算は冗談かと思ったが」
「無理なノルマとか予算とか、慣れてますから」
御堂が返事をせず微妙な顔つきになったので、克哉ははたと失言に気づいた。
「ち、違うんですっ。違いますよ、御堂さんっ。別に今のに深い意味はなくて…っ!」
「…まあいい。その件に関しては、今晩ゆっくり言い訳を聞かせてもらおう」
ひっ、と小さく克哉は声を漏らした。
「それよりこれから先、しばらく全社会議の準備とかけもちになるな。藤田君ではまだ代わりにならないことも多いだろうし」
思わず引いてしまった片足を、克哉は慌てて戻した。
「大丈夫です。一週間前には会議のほうにかかりきりになると思いますけど、直前までは両方やれます」
「無理のないように。能力的には出来ると思うが、体力となるとまた別の話だ」
「体力には自信があるんです」
「君の自己評価はあてにならない」
ばっさり切り捨てられ、克哉は首を竦めた。
「まあ、全社会議で必要なのは、周到な事前準備と当日のはったりだけだ。どっちも君は得意分野だから心配はしていない」
事前準備のほうはともかく、はったりって…と思いつつ、はあ、と克哉は言った。
それにしてもさっきの一言はまずかった。絶対気に障った。どうにか機嫌を取らないと、今晩大変なことになる。
背中に嫌な汗をかきながら執務室から自分のデスクに戻ると、全社会議の進行表が置いてあった。
「さっき来てたの。佐伯君が戻ったら内線入れて下さいって」
向かいの席の女性社員が教えてくれた。
“彼”だ。
所属する部署のフロアが違い、移動だけでも時間のロスなので、 メールでいいよ、と何度か言ったが、それでも足を運んでくる。
克哉は内線をかけて進行表を受け取ったことを伝え、 当日の昼食の手配を終えた彼が言うので、総務から上がってきているパンフレットの修正原稿の最終チェックと、 印刷発注を引き受けた。
脇から電話が入っている、というメモが差し出されて、克哉はメモをくれた女性に頷いた。
「ごめん、外線が入った。じゃあ、発注かけたらまたメールする」
内線を切って、外線につなぎ直す。
相手は本多で、新商品ののぼりを急遽数枚欲しいというのが用件だった。
申請すれば十日前後で手に入るが、今日明日にどうしても欲しいという。
見本としての役目を終えたのぼりが、倉庫の入り口に積まれているので、 申請はあとからしてもらうことにして、とりあえずある分を本多が取りに来ることになった。
悪い、感謝する。と言って電話は切れた。
「友達?」
克哉が顔を上げると、”彼”がいた。
内線を切ってからここに来たのだろうが、用向きがわからなくて驚く。
先程の電話で伝え忘れたことはないはずだ。
「ドライな佐伯君が便宜を図ってあげるなんて、相当親しいんだね」
その言い方に、克哉はひっかかりを覚えた。
確かに本多は友人だが、営業を請け負っているものから頼まれたのであれば、このくらいのことは誰であっても引き受ける。
「…ごめん。オレ、倉庫に行かないと」
「佐伯君、今から私、御堂部長のところに郵便物持って行くから、のぼりのこと言っておいてあげる」
向かい側の女性社員が、立ち上がりながら声をかけてくれた。
別段許可をもらうほどのことではないのだが、これで妙な言われ方をされなくてすむ。
総務で倉庫の鍵を借りて、地下に降りた。
前見たときとは若干配置が変わっていて、適当にダンボールに突っ込まれたのぼりを探し出すのに、少々手間取った。
そのほかにも、販促に使えそうなものを引っ張り出してきて抱える。
「見つかった?」
「うわっ!」
最低限の照明しかつけていない倉庫で、突然声がして克哉は飛び上がった。
「ああ、ごめん。驚かせた?」
「え、あ、どうして?」
また”彼”だった。
一緒に来ているとは思わなかった。
「手伝うこと、あるんじゃないかと思ってさ」
通路の照明のほうが明るく、逆光で表情が伺えない。
「あ、ありがとう。でも、ないから」
「そう? でもなにかあるだろ」
ゆっくり近づいてくる彼をよけようとするが、背中が棚にぶつかった。
追い込まれて、顔を上げるしかない。
「そんなに警戒するなよ」
目は冷めているのに、口元だけが笑っている。
「俺は克哉と仲良くなりたいだけなんだ。前みたいに」
「覚えてないんだ」
「本当に?」
つまらなさそうに、上着のポケットに手を入れて彼は横を向いた。
「克哉は本当にすごいよな」
「やめてくれよ。そういう言い方」
克哉の抗議を彼は無視した。
「俺はこれでも努力してきたんだ。おまえのようになれるよう、ずっと頑張ってきた。だっておまえは、俺の理想だからな」
再び克哉を見た彼の目には、熱が込められていた。
克哉は嫌な感じにぞくぞくする。
覚えてない、と言いながら、思い出していく。
声は違う。
あのときはまだ完全に声変わりしていなかった。
そう。声変わりは克哉のほうが早くて、あいつはそれを悔しがっていた。
ちぇっ。俺はいっつも克哉のあとだ。
そう言いながら、笑っていた。
なんだ、バレちゃったのか。
俺のこと、味方だって信じてたのは、おまえだけなんだよ。
全身が粟立った。
克哉の心の動きが見えるかのように、彼は微笑んだ。
「おまえが俺のこと、忘れるはずがない。
俺はおまえにあんなに酷いことをしたんだ。
一生残る心の傷になったはずだ」
「……」
克哉が”彼”のファーストネームを呼ぶと、彼は喜びで顔を赤くした。
「そうだよ! 覚えてるんじゃないか、克哉!」
今思い出したのだ、と言っても意味はないだろう。
どちらにせよ、すべて過去のことだ。
「…もういいよ」
小さく息を吸い込んでから、克哉は言った。
「もういい。子どものときのことだ。オレは気にしてない」
“彼”の目が見開かれる。
「気にしてない…?」
「ああ」
御堂と出会う前、あの不思議な眼鏡が引きこした一連の出来事の前ならば、もっと違うように感じたかもしれない。
だが克哉は今、過ぎたことにこだわりはなかった。
かつて、人と対立することがあれほど怖かった理由がわかった。それだけだ。
「だから君も」
気にしないで、と続けるつもりだった。「嘘だ」と強く遮られなければ。
「嘘だ。克哉。俺のしたことは、おまえを深く傷つけて、ことあるごとにおまえを苛んだはずだ」
いきなり顔が近づいてきて、克哉はとっさに腕を上げて顔を隠した。
「…っ!」
隠した腕で払いのけられて、”彼”はよろめいた。
その隙に克哉は棚を背中にした位置から抜け出した。
「なにするんだ!」
彼は歪んだ笑いを漏らす。
「鈍いなあ。それともわかってて焦らしてんのか?
俺はおまえが好きなんだよ。ずっと昔から」
動揺する克哉を面白そうに見ながら、彼はネクタイを緩めた。
「ガキだったからさ。自分の気持ちがよくわからなかった。
今ならあんなことはしないで、とっとと犯してるな。
ああ、抱かれてやってもよかったぜ。あの頃みたいなおまえにだったらな」
なにを言っているんだ、と言いたいのに、克哉は声が出なかった。
御堂以外にそんな目で自分を見ているものがいあるなんて、思いもしないことだった。
「俺はずっと一緒にいたけどさ。ガキの世界だったからおまえのあとについていけたが、 もっと先に進めば無理だって気づいてた。
わかるか? 一番と二番のあいだには、ものすごく大きな溝があるんだぜ。
そして俺はいつかおまえにおいていかれる。
そんなの冗談じゃなかった」
克哉は自分に向けられているのに空に浮いていく言葉に呆然とした。
「おまえは俺のことを親友と言いながら、私立を受けた。
俺達の通ってた小学校からは、おまえしか受からなかった難関中学だ。
あのときは離れられてせいせいした。これで劣等感に苛まれずにすむと思った。
だけど、中学に行って、高校に上がって、それでも俺はおまえのことを忘れられなかった。
そして気づいた。俺はおまえが目障りだったんじゃない。憧れてたんだ。おまえみたいになりたかった。
おまえのことが、好きだったんだ。
だが遅かった。おまえとはもうなんの接点もなかった。家を見に行ったこともあるが、姿を見ることも出来なかった」
落ち着こうとして、克哉はカードキーの入った胸ポケットを押さえながら、深く息を吸った。
彼のペースに巻き込まれてはならない。
遠い日々に、彼にあのような行動を取らせたそもそもは、自分の迂闊さにある。
あの頃も、克哉は確かにそう思った。
克哉を罵るその表情が、苦しそうで泣き出しそうで、裏切られたショックを上回ってしまうほどだった。
だから克哉は自己否定した。
今、目の前にいる”彼”も苦しそうだ。
だが受け入れられない。
それしか答えはなかった。
克哉には恋人がいる。御堂以外はなにも欲しいとは思わない。だからなのか。
気持ちは受け入れらないとしても、再び友人となることも出来ないと思うのは?
それは、たとえ克哉に非があったとしても、彼の言うように彼が克哉を傷つけたからだ。
克哉の半分は彼を許すことが出来るが、半分は許すことが出来ない。
克哉は腰をかがめ、注意深く、警戒をしながらさっき落としたのぼりを拾った。
「克哉!」
「オレ、行くよ。仕事が残ってるし」
ほかにどんな言葉も、届くとは思えなかった。
「俺とおまえはまた会った。これは運命だ」
「運命…?」
このとき初めて、克哉はじんわりと腹立ちを覚えた。
運命なんかあるものか。そんなものはない。あるのは作為と結果、それからもうひとつ。
「ただの偶然だよ」
言い捨てて、倉庫を出た。
追いかけてきたら、殴ってやろうと思っていたが、彼は来なかった。
エレベータを使わず、非常階段を上がっていると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴る。
「あ、克哉か? 会社のほうに電話したら、倉庫にいるから携帯なら出るだろうって言われてさ。
さっきののぼり、今すぐもらいに行ってもいいか? 急に取引先に行くことになって、途中寄って受け取りたいんだ」
いつもの本多の声に、克哉の全身から力が抜けた。
「いいよ。何時くらいになる?」
「実はもうMGNの前にいる」
倉庫から直接玄関前に出ると、本多は植え込みの前で待っていた。
「克哉!」
周囲に響き渡る大きな声で克哉を呼ぶのに、苦笑する。
「本多、恥ずかしいからさ」
「あ、悪りぃ」
「おまえ、仕事のほうどうだ。相変わらず忙しいのか。飯ちゃんと食ってんのか」
克哉は笑った。
「そんないっぺんに答えられないよ」
本多はどんなときも変わらない。
克哉が使えない営業課員だったときも、本多の成績を抜いてトップになったときも、 MGNへ移ってからも。
克哉は自分の靴の先を見て、それから顔を上げた。
「本多、これから地下鉄で移動か? オレ、おまえに話したいことがあるんだけど、駅の入り口まで話しながらついてっていいか?」
本多は気遣わしげに眉をひそめる。
「なんだ? なんか相談か?」
本当に時間がないのだろう。歩き出したが、それでも話を聞こうとしてくれる。
「違うよ」
克哉は、また笑った。
「本多には言わなくちゃって、前から思ってたんだ」
「ああ」
「驚くかもしれないけどさ」
早口で克哉は言った。この勢いを借りなければチャンスを失う。
「オレ、御堂さんと付き合ってる」
本多の相槌がなくなったが、かまわず続けた。
「引越したって言っただろ? 御堂さんのマンションに移ったんだ。
だから今は一緒に暮らしてる」
次の本多の行動は、克哉には予想外だった。
「うああああああっ!」
唸ると同時に、本多はその場にしゃがみこんでしまった。
「ほ、本多?」
昼間のオフィス街に人通りは多い。
注目を浴びているのを感じながら、克哉は慌てて自分もしゃがんだ。
「本多、大丈夫か? 突然どうしたんだよ。気分が悪いのか?」
「…いつからだ」
「え?」
「御堂とはいつからだ」
「あ…」
キクチにいる頃からだと正直に言えば、だからこいつはMGNへ引き抜かれたのだ、と思われるかもしれない。
だがここに来て、嘘を言っても仕方ない。
「プロトファイバーの、最初の営業期間の終わりのほうから」
本多は顔を覆った掌を動かし、克哉を見た。
この世の不幸をすべて背負った男の表情に見えるのはなぜだろう。
「なんでそんなことになったんだ」
「それは…言えない」
「なんでだ」
「オレと御堂さんの、その、個人的なことだから」
言いながら、頬が熱くなってくるのを感じて、克哉は恥ずかしくなった。
そんな克哉を本多は見つめる。
「好きなのか。御堂を」
「…うん」
人から問われて、御堂が好きであることを肯定するのは、なぜかとても幸せだった。
だが甘い気分は、本多が再び、
「あああああーっ!」
と声を上げたので吹き飛んだ。
「ほ、本多っ!?」
「…いつか悪いのにひっかかるんじゃないかと、思ってたんだ」
「は?」
「御堂はやめとけ…っつても、もう遅いんだろう。おまえ、ここのところやたら幸せそうだもんな」
「は…」
そうだったのか、と克哉は思わず自分の顔を手で触った。
「夏休み、山に行ったって言ってたよな。それも御堂とか」
「うん。御堂さんのおじいさんが山荘を持っていて。それがすごいんだよ、本多。今度聞いてくれよ。 よかった。そういうことも今まで話せなかったから」
「俺はちっともよくないんだぜ、克哉」
「あ、ごめん。…やっぱり、嫌? 不快…?」
違うんだよ、そういうんじゃねーんだよ、とかなんとかぶつぶつひとしきり呟いたあと、本多は克哉と目を合わせた。
「で?」
「え?」
「おまえが誰と付き合ってんのかはわかった。それで話は終りか?」
「あ、ああ。終わり」
「御堂んちなんぞ絶対行かないと思うが、おまえがひとりのとき風邪でも引いたら見舞いに行くから、 新しい住所はあとでメールしてくれ」
「う、うん」
時間がなくなったらしく、本多は腕時計を確認して立ち上がった。
忙しい道行く人は、ちらちらと見ては行くが他人にはかまわない。
「んじゃ、俺行くわ。今度ちゃんと話聞かせてもらう。断っとくが、のろけは聞かないからな」
「うん…」
地下鉄の入り口で、階段をおりかけた本多が振り返った。
「克哉」
「え。なに」
「おまえ、男、見る目ねえな」
「は…?」
思わず呆けてしまったが、ここは言い返さなくてはならないとすぐ思い直した。
「そ、そんなことない! …と、思う、けど」
段々声が小さくなったことは、御堂には絶対秘密だ。
「ま、おまえがそう思ってんならいいけどよ。
来週飲みに誘うから、絶対来いよ。親友の義務だぞ」
「わ、わかった」
本多の背中を見送ると、克哉は急に膝の力が抜けて、近くの標識のポールに掴まった。
帰宅後、本多に御堂さんとのことを話しました、と言っても、御堂からは特になんの反応もなかった。
先だって引っ越してきたときも思ったが、御堂は周囲に対して自分達の関係をどう位置付けるつもりなのか、 克哉はこの機会に尋ねてみた。
「プライベートな友人に隠すことではない。ビジネスでの付き合いの人間に話す必要もない」
明確すぎる答えが返ってきて、克哉は、はあ、と言うしかなかった。
「オープンにしてほしいのか?」
食洗器に夕食に使った皿を入れようとしていた克哉は、手を滑らせそうになった。
「え? あ、ち、違いますっ! 違いますよっ!」
そんなこと、とんでもない。
そんなことをしたら、御堂にどれだけ迷惑をかけてしまうか。
会社に転居届けを出したときも、冷や冷やした。
大勢の社員のなかの、たったふたりの住所が同じであっても、誰も気づきはしなかったが。
ふうん、と御堂はつまらなさそうに呟いた。
「あの、それで、来週本多と飲みに行ってもいいですか?」
「好きにしたまえ」
それでは許可になっていない。
食洗器のスタートボタンを押して、克哉は振り向いた。
「…行かないほうがいいですか?」
それならそれでいい。本多には悪いが、御堂が気を悪くすることはしたくない。
怒ったように克哉を見つめる御堂は、やがて息を大きく吐いた。
「行ってこい。本多のことだ。私が行かせないとか、大騒ぎするんだろう」
「そんなことは、…ありそうですけど」
克哉は小さく笑って、額を御堂の肩にあてた。
克哉が御堂を好きなのは、御堂が真っ直ぐ自分を求めてくれるからだ。
手段は別にどうでもいい。それは克哉にとって大事ではない。
「オレ、本多のこと試したんです」
首の後ろに御堂の手が触れる。
「オレが御堂さんを好きだってことを話しても、友達なのかどうか試したんです」
御堂は小さく息を吐いた。
「君にとって本多は友人なのか」
「はい」
「だったら本多にとってもそうだろう。…やっとキープしたその位置だ」
「え?」
意味を質そうとすると、髪を掴まれて、上を向かされた。
「君は昼間、私に対して不用意な発言をしたことを忘れているんじゃないか」
「あ…」
「さて、どういうふうに謝ってもらおうか」
今何時だろう、と克哉は思った。
今夜はどのくらいの時間、御堂と抱き合っていられるだろうか。
御堂の行動は時々克哉の理解を超えることがあって、怖いと思ったりする。
だがそれさえ、もはや嫌ではなかった。
「どうしてほしい?」
腰を引き寄せられて、甘くて暗い予感にからだが震えた。
「孝典さんの、いいように…」
欲望に声が掠れた。