(6)
役員面々の前で行った所信演説は無事終わった。
固いところはあったが、それも初々しいと好意的に受け取られ、大隈専務も上機嫌だった。
専務室で御堂共々お褒めの言葉をいただいたあと、克哉は御堂より先に退室した。
「あれ」
一室に戻ってくると、みんな出払っていて、女性社員ひとりだけだ。
「お疲れ様、佐伯君。取り仕切り役に決まったんだってね。おめでとう」
彼女は一室の一般職女性社員のリーダー的存在で、御堂の同期だ。
華やかで主張の強いMGN女性社員のなかでは目立たない雰囲気だが、 仕事の正確さとさり気ない気配りにかけて素晴らしく、克哉も何度も助けられていた。
「ありがとうございます。まだ正式に、じゃないですけど」
「明日の朝一番で全社員にメールを送るよう、総務に指示があったって。だから決定よ」
「情報早いですね」
「社歴が長いとあちこちの部署に知り合いばかり」
別の部署にいたのを御堂が一室に呼んだ、と聞いているが、彼女ならば雑談のなかに紛れた貴重な情報を掬い上げ、 あるいは欲しい情報を引き出すことも出来るのだろう。
今日はもう中途半端な時間なので、たまっていた経費の精算と報告書の作成をしようと、 克哉が自分のデスクにつくと「佐伯君」と、再び向かいの席から彼女に声をかけられた。
「もしも、だけど。佐伯君のところに妙なメールが来たりしたら、システム課にいる 知り合いに頼んでどこから来たものか調べてあげるられるから、言って」
勿論秘密厳守。と付け加えられる。
「妙なメール」
「中傷するような。いわゆる怪文書?」
穏やかでない言葉に、克哉は困惑した。
「佐伯君は腰が低いから杞憂だとは思うけど、悪意のある人はなんにでも反発するから、念のため忠告」
「オレは別にそんな対象になるほどのものじゃ」
「うーん。謙虚なのはわかってるけど。佐伯君、同年代で出世街道トップを切ってるのよ? 入社数ヶ月で」
「あ…」
「変なこと言って気分悪いと思うけど。実際そんなことがあってからだと遅いから。 御堂部長に相談出来るならそれでいいし。とにかく嫌がらせを受けたら黙っていないこと。いい?」
克哉が頷くと、彼女は何事もなかったかのように業務に戻った。
やがてひとりふたりと戻ってきて、電話も鳴り出し、一室は賑やかさを取り戻す。
そのなかで、克哉は忠告の中身について考えていた。
そんなに自分が目立っているとは思っていなかった。
やれと言われたことをこなす以外では、御堂が徹底して庇護してくれているので、周りが見えにくい。
キクチにいたときもいろいろ言われたりしたから、比較的打たれ強いとは思うが、 駄目だと思われてなにか言われるのと、やっかまれるのとは違うのかもしれない。
やっかまれる、なんて今まで一度もなかった。
いや、違う。
やっかまれるくらいなら、侮られるほうがましだと思っていた。
でも本当はそれも違って、出来ることも出来ないふりをしているうちに、どんどん自分の存在が消えていって、 苦しくてしかたなかった。
ちやほやされて、いい気になって…
ふいに頭に誰かの声が浮かぶ。
子どもの頃の夢を見たとき、克哉に厳しい言葉を投げかけてくる、あの声だ。
顔は出てこず、名前もわからない。
激しい自己否定と自己肯定は、いつもこの声がきっかけで始まる。
克哉はスーツの胸ポケットを掴んだ。
御堂の部屋のカードキーの感触に、萎縮した心がほぐれていく。
夢を見るのは毎晩ではなくなったし、うなされると御堂がすぐ起こしてあやしてくれるので、今では前ほど怖くない。
能力には責任がつきまとうと、かつて御堂に言われた。
御堂からもらった言葉は、どんなものでも無駄にしたくない。
だから克哉は恐れない。
液晶画面に、メール受信のマークが出た。
まさかこんなタイミングで中傷メール?と思ったが、差出人は”彼”だった。
お互い成功おめでとう。
協力して取り仕切り役を首尾良く終えよう。
一度ゆっくり話をしたかったから、今晩食事に行かないか?
その内容によって、彼もまた内定したのだと克哉は知った。
当然だろう。元々彼に決まっていたところに、克哉が割り込んだ形だ。
彼の言うとおり、これから力を合わせてやっていかなければならない。接する機会も増えるだろう。
だが今晩は無理だ。
御堂が食事に連れて行ってくれることになっている。
それに克哉は基本的に、個人とは飲みに行かないことにしていた。
キクチの頃は煩わしいから。
MGNへ来てからは御堂がいるから。
いや、それよりなにより。
“彼”とは行きたくない。
そう思っている自分に気づいて、克哉は愕然とした。
彼のことを忘れてしまっている克哉に対して、彼は好意的だ。
失礼な物言いをされたこともないし、むしろ親しげに接せられている。
なのに克哉は、”彼”が嫌だ。
他人に対してこんな感情を持ったことは、これまでない。
御堂に会うまで、誰のことも好きではなかったが、誰のことも嫌ではなかった。
小学校の同級生だからだろうか。
彼は克哉が苛められていたことを知っているはずだ。
というより、クラス中から無視されていたのだから、彼もそちら側だったはずだ。
だがそんな昔のことを彼も持ち出さないし、仮になにか言われたとしても克哉だって気にすることはない。
でもやっぱり、”彼”とは行きたくない。
しばらく考えて、断りのメールを入れた。
するとすぐにまた返信があった。
じゃあ、来週。同期を何人か誘うから、皆でどう?
条件を少し変えた代案だ。
これを断ると、おまえとは行きたくない、と伝わってしまい、これから協力しなくてはならないのにそれは困る。
結局克哉は了承のメールを送った。
翌週。仕事を早目に切り上げた克哉は、ダイニングバーにいた。
現地集合と指定され、メールに添付されてきた地図を見て来たので、どんな店なのかまったく知らなかったが、 凝った内装で落ち着いた雰囲気だ。
「うわ、高そうな店ですね」
傍らの藤田が正直な感想を漏らした。
確かに二十代半ばのサラリーマンには分不相応な店だ。
「大人の店って感じ。彼女とか連れてきたらイイカッコできそう」
「いるんだ、藤田君。彼女」
「いやその。こないだフラれたんで今はひとりです」
頭を掻く藤田は一室で一番若いメンバーで、今日になって突然、この集まりに出席することになった。
御堂から直接「佐伯君と我が社の若手出世頭数名が飲みに行くから、君も後学のためについていきたまえ」 などと言われては、断れるはずがない。
「ごめん。藤田君。ほんとは予定あったんだろ?」
「ああ、全然。今日は帰って寝るだけでした。一回佐伯さんとご一緒したかったんで、むしろラッキーです」
店員に”彼”の名前を告げると、奥の個室に案内される。
「にしてもすごいですよね。出世頭って、稼いでるんですね。佐伯さんもですか?」
藤田は克哉に耳打ちする。
「オレの給料じゃ、普段使いにこんなとこ無理だよ」
克哉もこっそり返した。
御堂に連れられて行くのが高級店ばかりなので、雰囲気に呑まれはしないが、ただの親睦会という名の飲み会に、 よくこんな店を選んだものだ。
思いつつ入って行くと、既に参加者は集まっていて、克哉達が一番最後だった。
「あ、ごめん。遅くなって」
「いいや、全然。花形の一室が忙しいのはわかってるよ」
“彼”が席を立って、場所を空けてくれる。
「すみません、俺までお邪魔しちゃって」
「全然かまわないよ、藤田君。気楽にしてよ」
“彼”を除いて四名を紹介される。
同期、とメールではあったが実際には前後様々で、いずれも各課で目立った顔なので、克哉もまったく知らないわけではなかった。
「佐伯君とは前から話をしてみたかったんだよね」
「なんたって話題の人物だからね」
「あの御堂部長のお気に入りだっていうのがすごいし」
人の言うことなど、年代が変わってもそう変化しないもので、 取引先との接待でも、たいてい同じようなことを言われる。
さらにこの場には些かの悪意も加味されていた。
「でもさあ、普通子会社からうちへ引き抜き、なんてありえないよな。確か前代未聞だろ?すっごく優秀なんだねえ、佐伯君」
「よっぽど気に入られたんだねえ、御堂部長に」
実際には克哉を引き抜く手筈を整えたのは大隈専務だが、さすがにこの場で専務の名を出すのは憚られるのか、 それとも本当に知らないのか。
「まあさ、でも、気に入られるにもやっぱ努力が必要なんじゃない?」
「そうだよねえ。でも、こう、さ。俺らみたいにプライド持ってると、出世のためとはいえなかなかへつらえないじゃない? 教えてもらいたいよなあ、佐伯君に」
この集まりが、どういう主旨のものであるものであるかはわかった。
この店も、克哉を萎縮させる目的で選ばれたのだろう。
けれど。
克哉は妙に醒めた心地だった。
この状況は、以前、御堂に初めてワインバーに連れて行ってもらったときに似ている。
ワインの知識のない克哉をからかって恥をかかせよう、という御堂の目論みは、克哉が御堂の友人達に気に入られる、 という思わぬ結果に終わったが、罠にかかった獲物をさらに痛めつけようとする容赦のなさは、肌にナイフの刃を当てられたかのような ひやりとした感覚として、克哉のなかに残っていた。
御堂さんの辛辣さに比べると、この人達は甘い…
つついたら泣き出してしまいそうな無害な顔をしながら、克哉はそんなことを思っていた。
それにしても、このあと一時間は会食を続けねばならず、そのあいだ中言われっぱなしというのも如何なものか。
それは先程から何度も名前が挙がっている、御堂に対しても失礼ではないか。
「そうなんですよ、佐伯さん、ほんと、すごいんですよ」
場の空気を破ったのは、藤田の明るい声だった。
「別に押しがすごく強いってわけじゃないし、むしろ心配したくなるようなときもあるのに、ここぞ、って時にはもう最高に説得力あるんです。
引きつけられちゃうっていうか。会議とかで議論が白熱しすぎてわけわかんなくなってる時でも、佐伯さんがなにか一言言って、ぱっと解決しちゃうこと、よくあるんですよ」
ほんとすごいですよねー、と藤田は隣に座る男ににこにこ笑いかけた。
毒気を抜かれて、相手は、あ、そうなんだ、などと呟いている。
「やっぱり営業で小売店をまわったりした経験が、生かされてたりするんですか? ほら、うちだとどうしても系列しか関わりないし、そういうのとはまた違ったりしますよね」
藤田は克哉のほうに身を乗り出した。
「それは、どうだろう。直接は関係ないと思うけど。でもやっぱりいろんな人がいていろんな店舗があって、事情もそれぞれ違ったりするから。 そういうのは今の仕事に就いてからも、無意識に考えてたりはするよ」
「いろんな世界を見てると、幅広い視野が持てるってことですか」
「オレはたまたま会社を移ったから。ひとつのところで極めるっていうのも立派だと思うよ」
いつの間にか克哉と藤田の会話に、ほかの参加者も聞き入っていた。
「けど、佐伯君みたいに営業から企画にってのも異例だよな。プロトファイバーの売上実績ナンバーワンだったんだろ? そのまま営業したいって思わなかったのか?」
「現場の営業が売りたくなるような商品を作ってみたいな、と思って」
「あー、なるほど。そういう発想か」
出だしの剣呑さが嘘の様に、そのあとは盛り上がり、 克哉が感謝の目配せをすると、藤田はにっこり笑い返してきた。
帰り際、カードでまとめて支払いをしようとする”彼”を、克哉は止めた。
「御堂部長から預かってるから」
上着の内ポケットから封筒を取り出して、全員の分を払う。
御堂の個人的な払いであることを強調するために、領収書も貰わなかった。
「え、あ、ほんとにいいの」
人数で割ると、ひとり数万の支払いだ。
「はい、結構です。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
金を出した上に頭を下げる克哉に、面々は愛想笑いを浮かべ、 “彼”もまた、仕方なさそうに笑っていた。
翌日、昨日の参加者が次々と御堂の元へ礼を述べに来るのを、克哉は自分のデスクから見ていた。
“彼”が来たとき、克哉は執務室にいた。
恐縮の言葉を連ねる彼に対する御堂の振る舞いは、若くて有能な他部署の部長、として完璧だった。
彼が辞したあと、克哉も礼を言った。
昨夜は終わったらマンションに来るように言われていたので、既に言ってあったのだがもう一度。
「昨日の代金はお返ししますから」
「必要ないと言ったはずだ」
「でも飲み食いしたのはオレですよ」
昨夜も同じやりとりをしたが、却下されていた。
御堂は椅子の背もたれにからだを預けて、足を組んだ。
「君が昨日一緒にいたのは、いずれも我が社の若手で有望と言われている人材ばかりだ。
派閥に入っているものもいれば、いないものもいるが、とりあえず今回のことで私は彼らと面識が出来た。
君は私が無駄な金を使ったと思うか?」
「…思いません」
「ならこの話はこれで終わりだ。ああ、そうだ。使え、と渡したが、どういうふうに、とは私は指示しなかった。 君は充分効果的に使ってくれた」
「見栄を張ってみたくなっただけですよ。…御堂さんのお金ですけど」
克哉はなにも考えずうかうかと出向いたが、藤田を同行させたり、金を持たせたり、御堂は最初からどういう集まりかわかっていたようだ。
「藤田君の話では、なにを言われても君は余裕たっぷりで、格が違ったそうじゃないか」
「そんなことないですけど」
意地悪の格が、あなたとはまったく違ったので平気でした、とはさすがに言えなかった。