(1)
克哉は出社すると、パソコンを立ち上げメールをチェックをした。
今日も一日スケジュールは詰まっている。
プロトファイバーのノルマはクリア確実だが、弾みのついた八課のメンバーは、達成率をどこまで上げられるかを目標に、まったく気を抜くことなく営業活動を続けていた。
至急の案件がなければ、始業の前に得意先に向かおうと思っていた克哉は、一件のメールに目を留めた。
「御堂さんから…?」
送信日時は昨日の夜で、今日の午後一番にMGNに来るように、という内容だ。
夕べは御堂のマンションに泊まって、ついさっきまで一緒にいたのに、そんな話は一切出なかった。
プライベートでビジネスの話はするな、とは言われているが、なんとなく釈然としないものを感じる。
わかっていた予定なら言ってくれればいいのに、と思いながら、克哉はスケジュール帳を開いて午後の予定が調整できるか確認した。
指定された時刻に御堂の執務室を訪問すると、御堂はついてこいと、コートを手にした。
「一時間ほど出てくる」
声をかけられた一室の女性社員にいってらしゃいと見送られ、克哉は着いたばかりのMGNをあとにした。
「君のことだ。昼食を取ってないんだろう」
「はあ、まあ」
それは急に入った御堂のアポイントのせいで、本来この時間に入れていた予定を繰り上げたからなのだが。
克哉の歩調におかまいなしでさっさと歩く御堂について入ったのは、通りの一本奥にある隠れ家のような和食の店だった。
予約を入れてあったのか、すぐに二階の一部屋に通される。
「君も時間がないだろうから、手短に説明するが」
「はい」
何事だろう、と克哉は正座の姿勢を正した。
御堂に呼ばれている、と告げると片桐も「月曜のミーティングでも何事もなかったですし、なんでしょうねえ」と首をひねっていた。
プロトファイバーの生産体制で、突発的なアクシンデントでもあったのだろうか。
だがそれなら昨日すぐに連絡されているはずだ。
御堂の言葉は克哉の予想もしないものだった。
「君は来月いっぱいでキクチを辞めて、MGNに来るんだ」
聞き間違えたかと思ったが、短すぎてありえないし、意味を取り違えるはずもない。
それでも克哉は聞き返した。
「は?」
「は?じゃない。返事は、はい、しかないだろう」
「いや、だって、いきなり。…冗談ですか?」
だとしたら初めて聞く御堂の冗談だ、と思ったが、御堂はにこりともしなかった。
「忙しい最中に、そんなことに時間を取るわけがないだろう。
今日中にキクチの社長に大隈専務から話が行く。
君はMGNの社員になるんだ」
「…え、ええええーーーーっっっ!!!」
叫ぶなり、克哉は逃げるようにうしろに下がり、御堂は眉をひそめた。
「落ち着きたまえ、みっともない。嫌なのか?」
「い、嫌もなにも。なんでそんなことに」
「一言ですませるなら、専務が君を見初めた、ということだ」
「み、見初める?」
御堂は僅かに声を抑えた。
「専務の派閥に君の年代で有望な若手がいない。
対立する役員が、優秀な若手を抱えていて、これに対抗させる社員を求めていたんだ。
そこに現れたのが君だ」
「…はあ」
大隈は確か出荷ミスの件で克哉に責任を負わせようとしたはずだが、現金なものだ。
「あの、それは、御堂さんはなにか」
「私はこの件には関わっていない。
昨日専務に呼ばれて、君にMGNに来る意思があるかどうか、なければ翻意させろ、と言われただけだ」
御堂も大隈の目に留まり異例の速さの昇進を成し得た。
若手社員の実力を見抜く能力に長けている、という評価を、御堂に続く若手を育てて保ちたいらしい。
「…そうなんですか」
ひょっとして御堂がなにか働きかけたのか、と思ったのだが、違ったようで克哉はほっとした。
そんな公私混同を御堂がするはずがない、と思いかけたとき、
「頃合を見て、提案するつもりだったがな」
当の御堂がひっくり返した。
「は?」
「当然だろう。キクチでは君は勿体無い。十二分に力を発揮するなら私の元に来るべきだ」
MGN、から、私の元、になっている。
「あの…オレ、もしMGNに行ったら、どこに配属されるか決まってるんですか?」
「私の下以外のどこで働きたいんだ、君は」
「…一室、ですか?」
さらに後ろに下がろうとして、御堂に睨まれて我慢した。
「さっきからなんだ、君は。嫌なのか」
「だ、だから嫌とかじゃなくて…」
キクチのお荷物営業八課で初めてまともに仕事をして、成績を上げて、その次がいきなり親会社MGNの花形、企画開発部第一室。
無理です、と言おうとして、また睨まれたので口をつぐんだ。
「よもや自分では力量不足、などと言う気ではないだろうな」
「いえ、その」
「俯くな!」
「は、はいっ!」
「私の話は以上だ。わかったな」
ここではいと言ったら、了承したことになってしまう。
「…聞いていいですか?」
再三言っているように、嫌なわけではないが、納得していないうちに押し切られたくはない。
「来月いっぱいでキクチを辞めてMGNへ、って仰いましたよね。
どうしてそんなに急なんですか」
御堂はほんの少し目を細めた。評価してくれているときの顔だ。
「なぜだと思う」
「やっぱりなにかあるんですね」
「MGNグループの全社会議が十月にMGNジャパンで行われる。
専務は取り仕切りを君にさせるつもりだ」
眩暈がしたのは気のせいだろうか。
克哉は俯くことさえ忘れて御堂を見つめた。
「それまでにいくつか実績を上げさせるし、十月には問題なく間に合う。
尤も君がそんな顔になるのも当然だ。
本来今の時点で、君にここまで話す必要はない。萎縮させるだけだからな」
「どうして話して下さったんですか」
「妙な点があると気づいているのだから、納得しないと動かないだろう、君は」
くすぐるような視線に、克哉は赤くなった。
「こういう形で移ってくれば、周囲は君を専務派と見るだろうが、なにもわからない顔をしていればいい。 与えられるチャンスの大きさを考えれば、君にとって損はない。むしろ」
専務を利用するのは君のほうだ。
克哉の声は時々大きくなっているが、御堂はずっと抑えたままだ。
わざわざMGNから離れて個室を取っている理由を、克哉はようやく理解した。
先程からの御堂の発言は、克哉が絶対に漏らさないと思っているからこそだろうが、 万が一にでも大隈の耳に入れば大問題だ。
会社を変わる、というのは重大なことで、移ればすぐに上げねばならない成果も、半端ではない。
本来なら即答しないで、よく考えてから返事すべき話だが、御堂は今答えを求めている。
「オレはMGNへ行って、御堂さんの役に立てますか?」
恋人だからといって、役に立たない人間を傍に置いたりする御堂ではない。
克哉が本当に仕事が出来る人間ならば、キクチにいるよりMGNで同じ一室にいるほうが御堂の力になれる。
公私に渉って御堂を支えることが出来るならば、それ以上の望みはない。
「今の君に、自分のこと以外を考える余裕はないはずだが?」
にべもなく御堂は言い、それはそのとおりなのだが、克哉は引かなかった。
「でもオレは、御堂さんの役に立ちたいんです」
御堂の強い眼差しが微かに揺れた。
仕事とプライベートの境が曖昧になる。
「…だったら、私の元へ来い、克哉」
低い声の熱さに、克哉は一瞬にして焼かれた。
考えることはもうない。
「御堂さんに、ついていきます」
御堂の目を見たままそう言い、よろしくお願いしますと頭を下げた。