Others 7



暗闇を歩く 君と手を携えて




マリューが目を開けると、彼の顔がすぐ近くにあった。
「寝てるときにキスしないでって」
だって可愛い顔で寝てるからさ」
悪びれもせず笑うと、フラガはマリューの前髪を撫でた。
窓から南国の陽射しが差し込む、緩く冷房の入ったその部屋は、病院の一室だ。
輸血を受け、傷の手当てを受けている途中心停止したマリューは、一命を取り留めたものの、それまでの精神的な負荷が一気に体に表れ、長期入院を余儀なくされている。
政府の要人や一部の金持ちが主な入院患者となる特別室は、地球軍や報道関係者に見つからないようにするため、カガリが用意してくれた。
「まーた食欲がないんだってな。昼食をほとんど残したって、看護士サンから聞いた」
額を指でつつかれ、マリューは悪戯を咎められた子どものような顔をした。
かなり元気になってきているが、まだ顔は白いし、フラガの指に軽く触れた額は熱い。
「果物なら食べられるだろ? 苺を買ってきた」
「…いらない」
「食えって。少しだけでも」
フラガはマリューの背に腕をまわし、体を起こさせると、サイドテーブルの上に、洗って用意してあったパックから、ひとつ摘んで口元に運んだ。
一度言い出したら、フラガはしつこい。
マリューは乾いた口中に無理矢理唾液を湧かせ、渋々唇を開いた。
「…甘い」
本当は熱のせいで味を感じなかったのだが、マリューが嘘をつくと、フラガは得意そうに笑った。
だろ? 一番甘いのを選んできたんだぜ」
彼のことだから、本当に確認して買ったのだろうと、マリューはその光景を想像してみた。
それだけで幸せな気分になる。
バルトフェルドからコーヒーを貰ったけどな。
あとでミルクたっぷり入れて作ってやるから」
アイスのほうが飲みやすいよな、と言うフラガを、マリューは見上げた。
「アンディ。もう帰ってしまったの? 会いたかったのに」
残念そうに呟くマリューに、フラガは口を尖らせた。
「その呼び方、気に食わない」
「だって、ずっとそう呼んでるのに。
今更変えたら変でしょ」
それはそうだ。
大体傍にいなかった時間に、マリューが誰と親しくなろうと、フラガになにか言う資格はない。
バルトフェルドに限らず、誰も彼もが「マリューさん」と呼ぶのも引っかかるのだが、これも仕方ない。
「向こうもマリューに会いたかったって言ってたぜ。
寝顔見せるの嫌だったから、ここに入れてやらなかったけど」
「またそんなこと言って」
「いや、本気」
埒が明かないので聞かなかったことにして、マリューはバルトフェルドが多忙を押して、しかも極秘に、わざわざフラガに会いに来た理由を問うた。
「金の話だよ」
「お金…? お父様の…?」
ラウ・ル・クルーゼがアル・ダ・フラガの遺産の多くを自らの活動資金としていたこと。
まだかなりの額が残っていることを、マリューはバルトフェルドから聞かされて知っていた。
「そう。俺のもん、なんだそうだ」
「そうでしょうね」
「いらねえよ」
フラガは不機嫌そうに、窓の外に視線を馳せた。
だが現実問題、空に浮いた金は誰かが引き取らねばならなかった。
「もう少し額が少なければ、ボクが着服してしまうところなんだが、どうにも多すぎて収まりが悪いんでね。
本来の相続人のきみに押し付けることにするよ」
バルトフェルドは彼一流の、人を食った態度でフラガにそう告げ、もしフラガが戻らなければ、いずれ時を見てマリューに管理させるつもりだった、とも語った。
些か胸の一部がざわつくが、彼がマリューを思いやり、支えていたのだろうことを、フラガは認めざるを得ない。
いろんな感情が混ざり合い、フラガは顔をしかめていたのだが、マリューが心配そうな顔をしていることに気づいて慌てて笑った。
「どっか人道的な活動してる組織に寄付しちまえって言ったんだけど、受け手がないって言われたよ」
そうね、とマリューも言う。
「どこもまだ混乱しているから、あまり額の大きい寄付だと、却って活動をおかしくしてしまうかもしれないわね」
「マリューのいたとこは?」
「あそこも同じ。末端で動いている人はともかく、上のほうでは思惑があるから。
組織というものはそういうものなのでしょうけど」
物事の裏側を見てしまった諦念を感じて、フラガは彼女の髪を撫でた。
「額を小さくして、あちこちばらまくってのは、すごい手間がかかるらしいし、オーブかプラントに全部譲ったら代わりにやってくれるかもな、とか、あいつ言いやがるし」
「かもな、ですか」
「そう。かもな」
人に任せれば、どうしても自分の意思とはずれる部分が出てくる。
フラガが福祉に役立ててほしいと委ねた金が、軍需産業に回ることも充分有り得る。
「あなたが自分でいいと思う団体を探して、そこが必要としている額を、寄付していったら?」
「…自分で?」
「当面すること決めてないんでしょ? だったらいいじゃない」
いや、でも、面倒くさい、と言外に匂わすフラガを、マリューは軽く睨んだ。
「面倒くさい、は駄目ですよ」
「あー、うん、そうだなー」
「私も手伝いますから、ね」
フラガはやや頬を引きつらせて頷いた。
そういう仕事は、はっきり言って、向いてない。
これからのことは確かに具体的に考えていなかったが、出来ればパイロットか整備の技術を生かせる仕事をしたいと考えていた。
「まあ、マリューは体を治すのが先だから」
「ごまかそうとしてる」
「してませんって。ほら、もう一個」
マリューはフラガがパックごと目の前に差し出した苺を、自分で摘んで口に入れた。
少し意欲が出てきたようなので、それはいいことだ、と前向きにフラガは意識を切り替える。
「おいしい」
「そりゃ、よかった。はい、もう一個」
マリューは素直に口を開けながら、ベッドに腰掛けるフラガの肩に頭をもたせかけた。




「あれ、マリューさん、ひとりですか?」
ノックの後に扉から顔を出したミリアリアは、病室をぐるりと見渡した。フラガは散歩に行っている、とマリューが教えると、意外そうな顔をした。
「そうなんだ。ムウさんてば、マリューさんから一瞬たりとも離れないって印象があったんですけど。それくらいマリューさんが元気になったってことですね」
ミリアリアは手馴れた様子で、窓辺の花瓶を抱えると、奥の洗面台で水を替えた。
弱っている花は抜き、新たに赤いスイートピーを数本、活ける。
マリューが集中治療室を出てからの、ミリアリアの登校前の習慣だ。
花代はプラントにいるキラとラクスから出ている。
キラはプラントの家からほとんど外出しないし、ラクスは多忙で来られないが、せめてもの心遣いだ。
「今日はとっても顔色いいですよ、マリューさん」
「そう? 熱がないからかも」
「そうなんですか? うわあ、ほんとに良くなってきてるんですね!」
ミリアリアは嬉しそうに笑った。
医師から許可が出て、ミリアリアが面会を許されるようになった最初の頃、マリューはいつも横になっていた。
それからミリアリアがいるあいだだけは起き上がってくれるようになり、この頃では来たときから体を起こしていることが多くなった。
ミリアリアはマリューによく見えるように角度を考えて、花瓶を置いた。
「じゃあ、そろそろお見舞い解禁にしてもいいですよね。
今まで控えてた人たちが、来たいって騒いでるんですって」
「誰?」
「元クルーみんなです。
カガリさんがぶつくさ言ってましたよ。
あいつら、ほとんど全員オーブから出てったのに、こんなときだけ艦長と少佐に会わせろって、わたしを頼って、連絡して来るんだぞーって」
カガリの真似に、マリューもくすくす笑う。
「いっぺんに全員来ると、マリューさんが疲れるだろうから、カガリさんが訪問スケジュール組むそうです。
それでね第一陣はノイマンさんとディアッカですって」
彼らは自力で紛争地域を抜け出し、一月かけてオーブに戻ってきていた。
一度病室に顔を出したが、そのときはマリューの具合がまだ悪くて、ほとんど話をしていない。
迷惑をかけた、と思っているのだろうか。マリューは申し訳なさそうに目を伏せて、組んだ両手の指を眺めた。
「ふたりがいなかったら、今頃私、ここにはいないわ。
きちんとお礼を言わなくちゃいけないわね。
…ムウは何度か会ってたみたいだけど」
「そんな気を使い過ぎちゃ駄目ですよ、マリューさん。
それにノイマンさんはともかく、ディアッカはあんまり誉めると、すぐ調子に乗るんだから」
人差し指を立てて、口の前で軽く揺らすミリアリアに、マリューは微笑んだ。
「仲良しなのね。あなたたち」
「ち、違いますよっ」
ミリアリアは慌てて両手を振ったが、マリューに優しく見つめられ、恥ずかしくなってしまった。
元クルーのみんなが、こぞってマリューに会いたがっている気持ちが、ミリアリアにはよくわかる。
みんな艦長の、こういう顔が見たいのだと思う。
ミリアリアもそうだから、毎日ここに来るのだ。

あのとき。

最後の戦いとなったドミニオンとの決戦で、フラガ少佐の乗ったストライクは、ブリッジの目前でローエングリンの光に包まれて消え去った。
だがそのことより、艦長のあの叫びのほうが、私たちの胸を裂いた、とミリアリアは思っている。
だから今、少佐が戻ってきて、戦争中には見たことのない表情で笑っている艦長を、みんな見たいのだ。
戦後地球軍に拘束されたマリューは、ミリアリアが想像出来ないような非難に晒されたらしいが、当時は彼女たちにはなにも知らされなかった。
処刑されたりしないよう、オーブとプラントが総力を挙げて地球軍に干渉していたことも、まったく知らなかった。
その後解放されたマリューは、なにも語らないまま紛争地域に行ってしまった。

「私のことはいいんですよ。
それよりマリューさんは、ムウさんと結婚するんですか?」
「なあに、突然。…さあ、どうかしら」
「え? しないんですか?」
話題を逸らそうとして聞いただけだが、意外な答えに思わず身を乗り出した。
「そうねえ。したほうがいいと思う?」
問い返されて、ミリアリアは困ってしまった。
「そりゃまあ、けじめというかなんというか…マリューさん、ムウさんのこと好きなんですよね?」
幸せそうに微笑まれ、ミリアリアのほうが照れる。
フラガがマリューを好きなのも間違いないので、マリューの健康が回復すればすぐに結婚するものと思い込んでいたが、どうも違うようだ。
「マリューさんはそれでいいんですか?」
マリューは頷いた。
いろんなことを抱えてしまっているふたりは、単純にめでたしめでたしというわけにはいかないのだろうかもしれない、とミリアリアは考える。
カガリはマリューが回復していると聞いて安心しているが、行方不明のあいだのフラガの行動をとても気にしている。
彼が収容されたという野戦病院だけは特定出来たものの、そのあとの足取りは、フラガがはっきり言わないので不明のままだそうだ。

言わないっていうのは妙じゃないか?

カガリはフラガに直接問い詰めようともしたらしいが、キサカに言い含められて止めたらしい。
それをする資格があるのはマリューだけだと、キサカは言ったそうだ。

「ミリィ、急がないと遅刻するわよ」
マリューに促されて、ミリアリアは時計を見た。
「いっけない。一時間目、遅刻にうるさい教授なのに!」
ちょうど買い物袋を手にぶら下げたフラガが戻ってきて、マリューは彼に、ミリアリアを学校まで送るように言ってくれた。
買出しのために、カガリが用意してくれた車があるのだ。
なんだかんだと言って、カガリは面倒見がいいし、このふたりが好きだ。
だから心配するのだろう。
「いいです、そんな。悪いから」
「遠慮すんなって。慌てて事故にでも遭ったら、えらいことだし」
言いながら、フラガはただいまといってらっしゃいのキスを、同時にマリューにして、よくある恋人同士の挨拶なのに、妙に艶めいて見えるその光景に、ミリアリアはまた赤くなった。