耳朶に甘美
あえてノックをしないで義父の部屋に入った。
執事から帰宅を告げられていたのだろう。義父は驚かなかったが、その隣に侍っていた金髪の少年が、幽霊を見るような目つきでマクギリスを見た。
マクギリスは養子だが、正式な手続きを踏んだこの家の人間だ。不確実だが跡取りでもあり、嫌だから寄りつかないだけで、好きなときに帰ってくる権利がある。
むしろおまえこそ何者だと問うてみたいが、所詮はお人形だ。マクギリスもかつてこの少年と同じように、義父についてまわっていた。
一部の大人に可愛い綺麗と誉めそやされ、時に撫でまわされ、かつてのマクギリスは気持ち悪いことこの上なかったが、この少年は怒りどころか疑問も持たないらしい。確かに義父に気に入られれば、成長したあとも将来は保証される。
「義父上。お願いがあるのですが」
帰宅の挨拶もせず切り出したが、義父は咎めなかった。少年の名を呼び、下がるように言う。少年は義父に頬を撫でられてから退席した。
「座りなさい」
義父の座る長椅子の前のスツールを勧められて従った。
「お願い」自体は義父の権力を持ってすればなんということはないことだ。ただし「それ」をマクギリスが「あえて」頼みに来た、ということに意味がある。
「よかろう。それで、おまえは私になにをしてくれるのだ?」
当然のように見返りを求める義父に、マクギリスは驚かない。
「義父上が以前から懇意にしたいと仰っていた……卿に会ってまいります」
「ほう」
義父は肌身離さない杖を、手のなかで動かした。
……卿のところに行くことは前から義父に打診されていたが、卿の性癖を知るマクギリスは断っていた。ただベッドを共にするだけならよいのだが、あの御仁は悪趣味が過ぎる。
「ご不満ですか?」
「よかろう。手筈はおまえがつけるのだな」
「はい」
やると決めたことはやる。
話が整ったので立ち上がろうとすると、待ちなさいと止められた。
「泊まっていくといい」
独立したわけでもないので、実家に泊まれというのも妙な言い方だが、確かにマクギリスは出て行こうとしていた。いつものように仕事を理由にする前に、義父は重ねて言った。
「あちらで、一晩過ごしていけ」
マクギリスはゆっくり瞳を動かして、義父を見た。
あちらと義父が示したのは隣の寝室だった。
かつて実家で暮らしていた頃、義父の部屋で寝起きしていた時代もあったが、その関係はマクギリスが大人になって終わった。
年端もゆかない少年を愛するとはそういうことで、むしろマクギリスはわりに長く寵愛されたほうらしいが、そのときは割合ショックだった。
嫌悪しつつも、どこかでそれを義父の愛情だと思っていた自分に気づいたのもそのときだ。己に感じたぞっとするあの感覚は今も忘れていない。
なんと返したものか、マクギリスは珍しく迷った。義父の相手を解放されて以降は、専ら家の体面を保つ、もしくは上げるための出来た養子としてのふるまいと、成人していても美しければかまわないという相手の接待を命じられた。最近はさすがにトウが立ってきて、少し落ち着いてはきたが、今度は長年の習い性のおかげで、マクギリス自身が適度に処理する相手がいないと困るようになっていた。
いずれにせよ、少年が好きな義父とは、よほど顔を気に入っているのか時折頬を撫でられることはあっても、もうそういうことはないのだと思っていた。
「なにをしている。こちらに来なさい」
逆らうことは許されていない。
先ほど少年が座っていたところに座った。
「おまえが私に頼みごとをするなど、初めてだな」
頬を撫でられ、唇を指で撫でられる。
「そうですね」
その指が口のなかに入ってきた。
「おまえが行くと言った……卿。あの男は美しいものを傷つけて楽しむのが趣味だ」
存じております。だからこれまで断ってきたのです。とは、舌に指を絡められて言葉に出来なかった。溢れる涎が顎を伝って制服のズボンに染みを作る。
「跡など残らぬよう、きちんと治療するように」
「はい、ちちうえ」
なんとか言葉を紡いだ。傷つくことによってマクギリスが受ける痛みなど、義父にはどうでもいいことだ。
マクギリスはそのまま義父の指を舐った。そのように躾けられていたからだ。
義父は空いている手でマクギリスの髪を乱した。整えていた金髪が頬にかかる。
「こうして見ると、昔と変わらぬな」
そんなはずはなかろう。無力な少年は学問を身に着け身体を鍛え、来るべき日に備え力を蓄えている。
仰向けに押し倒され、覆い被さる義父はマクギリスの着衣を剥いでいった。
時が一気に十年単位で巻き戻った気がした。
「義父上。なにを」
「思い出したのだ」
なにを。
ほかの者は知らない弱いところに触れられ、マクギリスはからだを震わせた。
「思い出したぞ。マクギリス。おまえは私のものだった」
呪詛のはずのその言葉が耳朶に甘く響き、マクギリスは考えるのを止めた。