(7)
恋をする
アルミリアは床で寝ている人を初めて見た。
貧しい人のなかには家もベッドもなく地面に直接寝る人もいると聞いたことがあるが、ここは彼の家で格納庫でこんなところで寝なくても部屋はあるはずで。
もしかして、ないの?
混乱しつつも、腕枕をして眠る顔を見つめ続けた。
作業着の上半身を腰のあたりに巻きつけ、半袖のTシャツを着ている。枕にしているのは鉄華団のジャケットだ。
年を聞いていないが、同じくらいだろう。伏せた睫毛が長い。とても長い。アルミリアより長いかもしれない。
「いつまで見てるの?」
「えっ」
驚いて瞬きして一瞬目を閉じたあと開けると、正面から緑の瞳に見据えられていた。飛び退こうとして中腰からバランスを崩す。
宙を掻いた手を掴まれて、寝転がった姿勢から腹筋を使って易々と起き上ったマクギリスに引っ張られ事なきを得る。はずが、ちょうどよいところで止まらずアルミリアは今度は前に、彼の上に倒れ込んだ。
「あいて」
「大丈夫っ?」
「…女の子って軽いんだった」
後頭部を撫でながら逆に、大丈夫? と問われ胸がいっぱいになった。だから大地を揺るがすような叫び声を上げたのはアルミリアではなかった。
「マクギリスっ! あなた、よそさまのお嬢さんになにしてるのっ!」
「アトラ」
格納庫の入り口に立つ女性に指を指され、アルミリアは自分がマクギリスの上に完全に乗っているのに気づいた。
今度はアルミリアが叫んだ。
「ごごごめんなさいっ!」
「だから服が汚れるって」
ワンピースの裾が床をすらないよう、脇に手を入れてマクギリスが立たせてくれたが、あ、ごめん、と謝られた。
「俺の手が汚れてた」
機械油のついた手のひらを見せられる。
「もーお! なにやってるの、あなたは!」
アトラと呼ばれた女性は、ポケットからハンドタオルを取り出してアルミリアの服を拭いてくれた。
「あら、仕立てのいい服」
はっ、と息を飲んでアトラはマクギリスを振り返った。
「マクギリス! いいところのお嬢さんそうな娘を連れ込んで!」
「そのコ、こないだの仕事の保護対象者」
アトラは再び首をめぐらせてアルミリアの顔を見て、また、はっ、と息を飲んだ。
「依頼者を連れ込むなんて!」
「なんで俺そんなに信用ないの」
マクギリスは頭を掻いた。
「あ、あ、わたし、このあいだのお礼に」
「あら」
「ほら」
すれ違いざまにマクギリスはアトラの頭をぽんと叩いた。
「こらっ! 大きくなったからって大人の頭を叩くんじゃありませんっ!」
マクギリスは肩にジャケットをひっかけて、背中を向けて右手を挙げた。
「シャワー浴びてくる」
「またこんなところで寝たのね」
「三日月がバルバトスの整備は俺に任せるって言った」
「それでも夜はちゃんとベッドで寝なさい。そんなところ三日月の真似しなくていいの!」
「はいはい」
アルミリアがなんと言って引き留めていいのかわからないまま、マクギリスは行ってしまった。
父に無理を言ってついてきて、着く早々マクギリスがここにいると聞いて来たのだが、ろくに話も出来なかった。アルミリアが肩を落としていると、アトラが謝った。
「ごめんね。あんな子で。えーと」
「私、アルミリアです」
先日アルミリアは身代金目的で誘拐され、鉄華団に救出された。直接助け出してくれたのがマクギリスで、目が合った瞬間好きになった。
マクギリスは昨日の夕食後から、夜通し格納庫でバルバトスの整備をしていた。
起きているのが限界で気がついたら格納庫で目が覚めるのはマクギリスの休日の朝、あるいは昼ではよくあることだが、今日はいい匂いがすると思って目を開けると女の子がいた。
このあいだ仕事で助けた娘だった。
オルガはなるべく経営サイドの仕事にマクギリスを従事させたがるが、このときは成り行きで実行部隊に参加した。
写真で見たときはなんとも思わなかったのに、顔を合わせたとき、とても懐かしい感じがした。
シャワー室から出てTシャツとカーゴパンツに着替えたマクギリスは、休みのとこ悪いが、と断りつきで応接室にいるオルガに呼ばれた。
「警護?」
「こないだみたいなことがないように、お嬢さんの通学時にボディーガードをつけたいそうだ。クリュセの事務所に詰めたら、おまえ、朝夕いけるよな」
ソファに座って足を組むオルガに言われ、マクギリスは反対側に座るアルミリアとその父親を見た。
「まあ、いけるけど」
「目立ちたくないということで、年の変わらないおまえがいいそうだ」
アルミリアが赤くなって下を向いたので、そういうことなのかとは思う。
「じゃあ契約成立ということで」
電子書類を示したオルガは、サインしようとする父親を制した。
「しかし断っておくが、マクギリスはうちの跡取りなので婿にはやれんのでそのつもりで」
マクギリスは手を差し出して、ちょっと待ての意を表した。
とっくに卒業したクリュセの大学では、オルガの意向で経営学を治めた。あの頃はよくわからなかったが、オルガはマクギリスを次の団長にしたいらしい。マクギリスは整備員になりたい。
「わたしには兄がいますので!」
アルミリアが声を張り上げた。
「お婿に入っていただかなくても大丈夫です!」
「そりゃあいい!」
オルガが身を乗り出し、眉間に皺が寄るのを感じて、マクギリスは手を戻して額にあてた。
「しかし娘はまだ学生なので、そういった話はおつきあいを経てからということで」
「そりゃ当然ですよ、おとうさん。まずは健全な交際からです」
マクギリスが額に手を置いて天を仰ぎながら出て行こうとすると、オルガに呼びとめられた。
「しばらく契約の話でお譲さんは退屈だろうから、おまえ、案内して差し上げろ」
ここを? と思ったが、三日月に倣って無駄なことは言わないようにしているので、アルミリアと一緒に応接室を出た。
「別に面白いものとかないけど。昼だから食堂に行く?」
アルミリアは頷いた。
鉄華団に出入りする良家の子女といえばクーデリアだが、彼女は火星独立運動の担い手で肝が据わっている。一方アルミリアは大切におっとり育てられたお嬢様だ。ふんわり柔らかい匂いがして、正直ここにはそぐわない。
「託児室へ寄るから」
「託児室?」
団員の子どもを預かっているところで、時間のあるときはマクギリスが子どもたちを食堂に連れて行く。
マクギリスが小さいときには子守当番をしてくれたみんなは寮に住んでいたが、今ではほとんどが近くに住まいを構えている。託児所にいるのは彼らの子どもだ。
今でもここに暮らしている古参の団員は、鉄華団の不動のエース三日月だけになってしまった。それでマクギリスも、もうだいたい十七歳なので一人暮らしも出来るし、オルガにはうちに来いと言われているが寮にいる。
「にいちゃーん。だっこー」
「違うよ、今日は俺の番だよ」
「ふたりとも違う」
マクギリスはおとなしそうな子ふたりをそれぞれ肩に抱え上げ、空いてる手で先のふたりと手をつないだ。
アルミリアにほかの子どもと手をつなぐよう言うと、おっかなびっくりといったふうに手をつないだ。
「このおねえちゃん、誰?」
「仕事の依頼人」
「えー、にいちゃんのオンナだろ」
子どもの口から出る言葉だと思わなかったのだろう。アルミリアが驚いているので、軽く頭をはたいた。
「にーちゃんがたたいたー」
「叩いてない」
「たーたーいーたー」
げらげら笑う子どもに戸惑うアルミリアに、気にするなと目配せする。
「懐かれているのですね」
「まあ。こいつら生まれたときから知ってるし」
「あなたはいつからここにいるのですか?」
「拾われたときから」
目を丸くしたアルミリアに、手をつないでいる女の子が教える。
「マクギリスおにーちゃんは、鉄華団に拾われたんだよ」
「そうそう。赤ちゃんのとき」
「みんなに育てられたんだよ」
アルミリアに困惑した顔で見られて、マクギリスは頷いた。
「俺、ここに捨てられてた子だから」
もっと困った顔になったので困った。
「そうだよ。マクギリスはその籠に入ってたんだよ」
食堂で、さらにあっけらかんとアトラが言った。
「あ、マクギリス。そのお鍋コンロにかけて」
「はいはい」
子どもたちを席に着けるとマクギリスは厨房に入り、アルミリアには待っていればいいと言ったがついてきた。
「この、籠に?」
果物が入った籠に恐る恐る触れながらアルミリアが確認した。
「そうそう。こーんなにちっちゃかったんだよ。大きくなったよねー」
たぶんアルミリアが気にしているのはそういう問題ではないだろうと思うが、アトラは身長を図る仕草で並ぶマクギリスを見上げた。
「そこのお茶っ葉入ってる缶はね。籠のなかにマクギリスと一緒に入ってたの」
「あ、マクギリスチョコレート」
マクギリスはアルミリアの口元をそっと手で覆い、黙って、という意味で自分の口元に人差し指を当てて見せた。
地球のチョコレートブランドの缶と名前をアルミリアは知っていたようだが、鉄華団のメンバーはいまだに知らないし、その名を捨てた人がつけた名前だと信じている。
「そうじゃないとわかったらみんながっかりするから、黙ってて」
アトラのよそったシチューの皿を乗せたトレーに果物を乗せて、自分の分と合わせて持ったマクギリスは厨房を出て空いている席に着いた。アルミリアは前に座る。
「よ、良いお名前だと思います」
「いいよ、無理しなくて。普通に苗字だし」
「ご、ごめんなさい」
「でも俺は。みんなが呼ぶこの名前が俺の名前だから、それでいいんだ」
マクギリスを見つめていたアルミリアが、柔らかい顔で微笑んだ。
「食べたら? アトラのごはんはおいしいよ」
「ありがとう。アトラ、さん、は、おかあさん?」
「さあ。親ってよくわからないけど。たぶん違う。でも家族」
「家族」
「俺は鉄華団の最後の家族だって、オルガが言う」
鉄華団は今ではそこそこ名の通った企業だが、マクギリスが拾われた頃にはまだ創設から少し経った頃で、その頃のメンバーには家族がいない者が多く、オルガは全員でひとつの家族だと定義していた。
あえていえばマクギリスは鉄華団の子どもだ。
アルミリアが最後に案内されたのはトウモロコシ畑だった。
「警備のお仕事だけじゃなくて、いろんなことをされているんですね」
「いつか堅気の仕事だけで食っていけるようになる、っていうのがオルガの口癖だから」
「堅気」
「うち半分くらい、いや、もっと? そっち系だから。わかる? 意味」
アルミリアは頷いた。
火星を含む地球圏外圏は治安が悪く、一般企業の体を為していても実情はマフィアであるところも多い。鉄華団はヒーローのように語られることもあるが、少し怖いと以前は思っていた。
「わかってるならいい。仕事はきちんとやるから」
その言葉にアルミリアは距離を感じた。
関わるなと言われている…?
ここまで来るのに使った車に、戻ろうとするマクギリスの背に呼びかけた。
「マッキー!」
マクギリスは少し目を見開いて振り返った。
「そんなふうに呼ばれたことがない」
「あ、ごめんなさい」
「いいけど」
アルミリアは火星では一握りの富裕層の家に生まれて、本当に箱に入れられているように大事に守られて育った。異性に関しても晩生だと学校の友達に笑われるくらいで、誰かを好きになったことも勿論告白したこともない。
「聞いて!」
「聞いてる」
その通りだった。マクギリスは足を止めてアルミリアに向き合っていた。にわかに緊張してきて、顔に血が昇って湯気が出ているのではないかと思った。
「私は、あなたに会えて嬉しいの」
よく知らない男の子にこんなことを言って、頭のおかしい子だと思われたかもしれない。感極まって涙が零れそうになったが、目の縁にマクギリスの指があてられてすくいとられた。
「俺も」
「え?」
「俺も、嬉しい」
「本当?」
「懐かしい感じがする」
「わ、私も! 私もする! それから、やっと追いついたって気がする!」
マクギリスがゆっくり瞬きするのを、アルミリアは見つめた。身長差はあるが目線を合わせられる。
追いついた。
なぜそんなことを思うのかわからないが、そう思う。
今度は、同じ時間を生きていける。
事務所に戻ってくるよう無線が入り、マクギリスは車にアルミリアを乗せた。
普段リムジンの後部座席に乗っていて、乗用車の助手席に慣れていないアルミリアがシートベルトを着用するのにもたついたので、マクギリスは腕を伸ばして手伝った。極力触れないよう気をつけたが、距離の近さはどうしようもない。
「あ!」
「え?」
わりと慎ましやかな胸がワンピースの布越し大きく動いて、マクギリスは頭を少し動かした。
「あなたって、私よりずっと美人」
マクギリスは不思議なものを見るように、アルミリアを眺めた。
「それ、今言うんだ」
「え? どういうこと? あっ! 私みたいなさえない子が図々しいことを言っていると思ってた?」
アルミリアはどうも本気で言っているようだった。マクギリスは自分が非常に人目を惹くのは知っている。女の子が彼を好きと言うときには、たいていこの顔が好きなのだ。
「君は可愛いと思うけど」
だが別に容姿はそれほど重要ではない。マクギリスはそういうところにまったく興味がなかった。
「か、かわ…っ」
見た目を言うなら、ちょっとたれてる大きな瞳が可愛いと思うが、それよりも真っ赤になったこういう反応こそが。
「すごく可愛いと思う」
「オルガ、なにしてるの」
「おう、ミカ」
三日月が団長室に入ると、オルガはクローゼットからスーツを引っ張り出していた。
「いや、マクギリスがこないだの依頼人のお嬢さんの警護をすることになったんで、やっぱスーツとかいるかなと思ってな」
ちゃんと仕立てたほうがいいよな、ビシッときまってねえとサマにならなくて舐められるって、昔名瀬のアニキから教わったしな、などとオルガはブツブツ続ける。
「さっきチョコが畑で女の子といるところ見たけど、警備対象ってあの子?」
「おお。どんな雰囲気だった?」
「チョコが女の子に優しくしてるのって珍しいよね」
「優しくしてたのか!」
「そんなふうに見えたけど?」
オルガは天井を見上げた。
「ミカぁ。どう思う。俺はまだあいつが嫁に行くのは早いと思うんだ」
ビスケットが入ってきて苦笑した。
「落ち着いて、オルガ。マクギリスはお嫁さんをもらうほうだから」
「いや、だがビスケット。万が一ってことが」
「ないから」
「ないね」
ふたりに言われて、オルガは一応安心した。
三日月が格納庫に行くと、マクギリスがバルバトスの整備をしていた。
「チョコ。そろそろ食堂に行かないと、片付かないってまたアトラに叱られる」
マクギリスはコクピットから身を乗り出した。アルミリアが帰ってからずっとここにいた。
「もうそんな時間」
軍手を外して作業着のズボンの後ろポケットに入れてから、マクギリスは飛び降りた。結構な高さだ。
阿頼耶識持ちのなかで育ったせいで、マクギリスは常人ならしないようなことをする。みんなが出来るなら自分も出来るはずだと考え、そのせいで何度も怪我をしているが懲りないし、結果としてかなり無茶なことでも出来るようになった。
「三日月は?」
マクギリスは三日月の元に駆け寄った。
「行くよ」
外は暗くなっていて、照明の下をふたりで歩いた。
「チョコ。彼女が出来たんだって?」
「ああ、まあ」
「やるじゃん」
全然やるじゃんという感じではない口調だが、三日月はいつもそんな感じだ。
「チョコはああいう娘が好きだったんだ」
「ああいう娘?」
「おっとしりたお嬢さん」
「ちょっと違うかな」
「違うの」
「ああいう娘じゃなくて、あの娘がいい」
「ふうん」
やっぱやるじゃん、と三日月はマクギリスの背中の真ん中あたりを叩いた。