(3)

オルガ・イツカが目を覚ますとそこは知らない家だった。
ソファで寝ていたがクッションが良かったので、からだはそんなに痛くない。それより気持ちが悪かった。
「おーい。大丈夫かー?」
ドアを開けて入っていたのはガエリオ・ボードウィンだった。長袖のTシャツにジーンズに、生成りのエプロンをしている。
「え? あ? ボードウィンさん?」
「やっぱりなにも覚えてないか。まあいいから、顔洗ってこい」
あっちな、と洗面所の場所を教えられ、オルガは顔を洗った。
「あ、オルガ。あけましておめでとう」
次に言われた部屋に行くと、そこはダイニングで三日月がテーブルに着いていた。
「え? あ? おめでとう、ミカ」
「座りなよ」
言われるまま三日月の隣の椅子に腰掛けた。テーブルの上にはおせちの詰まった重箱が並べられている。
「おまえら、餅、いくつ食べるー?」
奥のキッチンからガエリオの声がする。
「五つ」
「オルガ、おまえは?」
「え。三つ?」
食欲が、と思いながら反射的に答える。
「あー、めんどくさい。おまえも五つ食っとけ」
なんの話かと思えば雑煮が出てきた。
「おまえは先にこれ飲め」
ガエリオにグラスに入った緑色の液体を渡される。
「二日酔いに効く」
一気に煽るとむせた。
「味はまあ、アレだがな」
ガエリオが空いたグラスを下げ、自分の分の雑煮を持ってきて三日月たちの前に座った。
「おめでとう」
三日月が右手を差し出す。
「なんだ、この手は」
「くれないの? お年玉」
ガエリオと三日月はしばし見つめ合った。
「くれないの?」
「わかったよ! やるよ!」
エプロンのポケットからポチ袋が出てくる。
「用意してるなら最初から素直に渡せばいいのに。マッキーは?」
「寝てる」
「そうなんだ。じゃあ、はい、マッキーの分」
三日月が右手を差し出す。
「なんでだ!」
「いいじゃん。パートナーなんだから」
「わけがわからん」
と言いつつ、ガエリオはもうひとつポチ袋を三日月に渡した。オルガには最初からふたつ渡される。
「あ、や、すんません。俺まで。ありがとうございます」
「そういう態度ならやり甲斐もあるんだよ。おまえ、あいつと長いんだろ。なんなんだ、あいつは。金に執着する深いわけでもあるのか」
「いや、別に。ミカは昔から金に汚いだけで」
「最悪だな、おい」
「オルガ、遠慮せず食べなよ。おいしいよ。ここのごはん」
大きい海老を口に突っ込んだ三日月が誘う。
「おまえは少し遠慮しろ」
「またまた。餅をこんなに用意しといてなにをおっしゃる」
「気づけばそこに座って毎日食事されたら、正月だけ来ないとか思わないよな。帰れ」
オルガは今ひとつ状況が飲み込めない。
「あの、ここは」
「あ、マッキー。あけましておめでとー」
「え?」
マクギリスがダイニングに入ってきた。淡いクリーム色のゆったりしたハイネックのシャツに、やはりゆったりしたカーディガンを羽織っている。ボトムもゆったりしたもので、明らかに部屋着だ。
「ああ、おめでとう、三日月」
マクギリスの前に立って当たり前のように右手を出す三日月に、ガエリオが待ったをかけた。
「なんだ、その手は」
「お年玉」
「渡しただろ、さっき。マクギリスの分も」
「正月早々世知辛い。それともこれが若手イジメってやつ? あ、イタイ。イタイ。イタタタ」
三日月はガエリオに両耳を引っ張られた。
「ごめんなさいは?」
「死んでも言わな、イタタタ」
「とりあえず右手を引っ込めろ」
右手は引っ込められた。
「おまえは珍しく早いな」
ガエリオはマクギリスのために椅子を引いたが、マクギリスは座らなかった。
「ちょっと気になることがあって」
口元に手をあてて目を伏せる深刻そうな様子に、ガエリオだけでなく三日月も少し表情を変えた。
「昭弘くんを置いてきた気がする」
どこに? クダルの店にだ。
「初詣組にいただろうか」
三日月は頭を横に振る。
「帰宅組には」
横に振る。沈黙が覆った。やがて三日月が口を開く。
「仕方ないよ。マッキー。起こったことは変えられない」
「起こっていないという可能性は」
「そんな楽観、マッキーらしくない。このことは忘れよう」
「おい、ミカ」
「そうだな。そうしよう。今更引き取りに行くより知らない顔をしたほうが」
「うん。昭弘のためだよ」
「お、おい、ミカ!」
オルガの肩をガエリオが軽く叩き、ゆっくりと頭を振った。
「け、けど」
ガエリオはもう一度頭を振り、オルガは歯を食いしばった。
「昭弘。すまねえ」
昭弘・アルトランドの演技が一皮剥けたと評判になるのはこの少しあとの撮影からだ。

「なるほど。ふたりは一緒に暮らしてたんですね」
オルガは雑煮のおかわりを受け取った。
「俺がごはん食べるとこなくなっちゃうから、内緒だよ。オルガ」
ツッコミ疲れてきたガエリオは、おかわりを渡すと着席した。箸はとっくに置いて、白ワインを飲んでいる。
「よく秘密が保てているなという人数に、知られてきたような気がするが」
「明日のことなんかわからないのに、そんな契約書にサインしたガリガリが悪い」
ガエリオは顔をしかめた。
「ムカつくがそのとおりだよ」
「その契約つーのはいつまで有効なんすか」
オルガが餅を噛み切りながら聞く。
「あと一年」
「なんだ、すぐじゃん」
三杯目の雑煮をかき込んで、頬をリスのようにした三日月が言う。
「契約の縛りがなくなったらどうするの? 結婚するの?」
「そのつもりだけど」
「え」
口元に運んだワイングラスを傾けようとしていた手を、マクギリスが止めた。
「え」
この、え、はガエリオが発した。この家で暮らすふたりが見つめあったが、色っぽい要素は一切なかった。マクギリスがなにか言おうと唇を動かす前に、ガエリオは右手でマクギリスの口を塞いだ。
「あとだ。あとで話し合おう」
マクギリスはゆっくりと瞬きしてから、自分の手でガエリオの手を離してから頷いた。
「ガリガリ。結婚は相手の同意がないとできないんだよ?」
「わかってるわ! 絞めるぞ、おまえ!」
「八つ当たりなんて、大人気ない」
本当に絞めてやろうかと立ち上がりかけたガエリオのTシャツの背中に、マクギリスが軽く手をあてた。
「三日月も」
気まずくなった空気を破り、三日月の端末が鳴った。確認して顔を上げた三日月は、眉根を寄せていた。
「藍那が初詣の時間を遅らせてほしいって。その時間はアトラとの初詣の時間なのに」
「ミカ、おまえはすごいよ」
脊髄反射のように返すオルガに、ガエリオは頭を振った。マクギリスも額を押さえている。
「おまえ。ここも燃やすつもりか」
元カノと現カノとのいざこざで、三日月の前の住居は燃えた。
「大丈夫。今度はうまくやる」
「やろうとするな! 既にやれてない!」
「とりあえず今日は三人で行くといい。お参りをして解散。帰ってくるように」
マクギリスに言われて、三日月は不満を態度に出した。
「オルガ君。君、ついて行って、三日月を連れて帰ってきてくれないか」
「え。オルガも来るの?」
三日月が獲物を狙う目つきになる。
「ダメだ、マクギリス。こいつらだけじゃご乱行になりかねない」
「あ、いや、なんすか、それ。俺はミカのダチっすよ。それより俺はそんな、ミカのデートの邪魔をするようなことは」
「女がふたりいる時点でそういう話じゃない」
ガエリオは断言した。
「よしわかった。おまえにも相手呼んでやる」
「や、俺はそういうのは」
「メリビットでどうだ」
途端にオルガが上擦った。お嫁さんにしたい女優十年連続ナンバーワン、メリビット・ステープルトンだ。
「メ、メリビットさん? そんな急に誘っても無理なんじゃ」
「どうせ飲んだくれてるだけだから暇してる」
ガエリオは端末を取ってきて電話をかけた。
「ボードウィンさんはメリビットさんと仲いいんですか?」
ふたりは共演シーンがなく現場では顔を合わせていないので、オルガの疑問は尤もだ。
「映画で相手役をやってるからね」
マクギリスが答える。
「ああ! ああ! そうですね! 俺、見ました! 泣きました! あ、や、プライベートでも親しいんですね!」
ダイニングの隅で、ガエリオはメリビットと交渉している。どうやら来てくれるようだった。
「それからおまえ、コンタクト入れて化粧してこいよ。めんどくさ、じゃない。少年の幻想を砕く気か。三日月、待ち合わせの場所教えろ」
「えー。オバさんは来なくていいのに」
ガエリオが端末を三日月のほうに向けた。
「きーこーえーたーわーよー。クーソーガーキー」
三日月が固まった。
「あー、そうそう。クソガキに大人に対する口のきき方教えてやって。とりあえずうちに来てくれ」
じゃあな、とガエリオは電話を切った。

賑やかだった家に本来の静けさが戻った。
ガエリオがテーブルの上を片付けるあいだ、マクギリスはソファに座って新年のニュースを流すテレビを見ていた。
家にいるときの家事はガエリオがする。マクギリスはガエリオがここで暮らすようになる前も今でも、ガエリオがいないときには最低限のことはやるが、いるときはなにもしない。
洗い物を終え、シンクの蛇口を閉めたガエリオは、エプロンを外してテーブルの上に置いた。
「マクギリス。さっきの話だが」
「今するのか」
マクギリスは眉をひそめた。
「今しないでいつするよ」
明日からはふたりとも仕事のつきあいの新年会が予定に入っている。五回目の新年だが、正月に一緒にいるのは初めてだ。マクギリスは毎年年始公演で、ガエリオもマクギリスが家にいないことがわかっているので、この時期に休暇を取らない。同居しているのも、そうしないとまったく会えないからだ。
ガエリオはリモコンでテレビを消した。
「俺は契約更新のタイミングで移籍を考えてるって、話してあったと思うんだが」
「そうだな」
「そのときおまえとつきあってるって公表しようと考えていると、話してあったと思うんだが」
「ああ」
「だから結婚」
「それは聞いていない」
話が終わりかけたが、ガエリオは粘った。
「そうかもしれない。けど、つきあっているのを公表するのはいいんだよな」
マクギリスは否定はしなかった。
「なら結婚するのも同じだろ」
マクギリスから否定の言葉はなかったが、態度が否定的だった。
「おまえ。結婚しない主義だったのか?」
「考えたことがない。主義以前にそのものを」
「一緒だろ。今と。紙切れ一枚出すだけだ」
マクギリスはなにか言おうとしてやめた。
「別れるときに面倒だとか思っただろ、おまえ」
「すごいな。よくわかる」
感嘆されて、ガエリオの忍耐の糸は切れそうになったが耐えた。
「別れるときも紙切れ一枚出せばいいんだよ」
「そんな紙切れのやりとりなら、別にしなくてもいいのではないかと」
「考えてみろ。今のままだとどっちかが病気にでもなっても、他人だから病状も聞けないんだぞ」
「ではそのとき紙切れを出せばいいのでは」
恐ろしいほどの平行線だった。マクギリスが冷静と表現していいのか、まったく感情を見せないので、怒鳴っては終わりだとガエリオは深く息をする。
「俺はおまえが好きなんだけど」
「俺もおまえが好きだが」
「じゃあひとつ確認しておくが、これ、別れ話をしてるんじゃないよな?」
返事がない。
「黙るなよ!」
怒鳴ってしまった。
「俺はおまえが好きでおまえは俺が好きなんだから、別れる理由がないよな!」
「考え方の違いは理由になりえる」
「俺と別れたいのか!」
本気で怒鳴った。マクギリスは口を閉じたが、思い直したように再び開いた。
「…いや、そうじゃない」
血が昇った頭の片隅で、ガエリオはほっとした。

ガエリオがマクギリスに初めて会ったのは二十歳をいくつか過ぎた頃だった。
既に主演映画が何本かあり評価もされていたガエリオは、知り合いのプロデューサーから共演させたい役者がいるが、テレビや映画の仕事は受けないと断られた、君を紹介するという口実で会いたいので協力してほしいと頼まれた。
ほかの役者を口説くのにダシにされるのは気に食わなかったが、マクギリスは当時話題でチケットの取り辛かった芝居の主演で、それを見たい気持ちがあった。
板の上で圧倒的オーラを放ち、近くで見ても超絶美形、それがマクギリスだった。
とはいえ、この業界にいればそういう人間はまま存在する。なるほど、プロデューサーが使いたがるわけだな、と思っただけだ。
マクギリスはあまり喋らないタイプで、打ち上げでも挨拶したくらいでほとんどガエリオとは話さなかった。代わりというべきか、ほかの劇団員とは仲良くなって、そのうち稽古を見に行くという約束をした。
ガエリオはその後マクギリスとあちこちで偶然顔を合わせるようになったが、やはり話はしなかった。映画の試写会だったり、パーティ会場だったり、あ、いるな、と思うと会釈する程度だ。
ふたりの関係が急に変わったのは、ガエリオが忙しさのせいで延び延びにしていた劇団の稽古場への見学に行った日だった。
そこで見たのだ。
稽古場の入ったビルのエントランスで、例のプロデューサーとマクギリスがキスをしているところを。
役者に色恋はつきものだし、人前でも堂々としている輩は結構いるので驚くには値しないはずなのに、ガエリオは実際に足がよろけるくらいに衝撃を受けた。さらにマクギリスの次の行動にも息を飲んだ。
唇を離して、プロデューサーがなにか言うのを聞いたあと、表情ひとつ変えずプロデューサーの股間を蹴り上げた。同じ男がよくそんなむごいことを、と思うほどの思い切りの良さだった。
「この件についてはあなたのお勤めの局に報告させていただきます」
のたうち回る男を氷のような眼差しで見降ろし、マクギリスの口元は笑っていた。そしてその笑みをそのまま、立ち尽くすガエリオに向けた。
「やあ。見学かい? 行こう」
マクギリスはガエリオが気づかず落としていた差し入れの紙袋を拾い、階段を上がり始めた。
「い、今のは」
マクギリスの背中に訊ねた。
「ああ。しつこくて」
声が穏やかなのがひたすら不穏だ。
「あれ、ほうっておいて」
「手加減したから、自分で帰るだろう」
嘘だ、絶対手加減なしだった、とガエリオは思ったが、口にする勇気はなかった。さらにそんなことよりもっと、ガエリオにとって重要なこともあった。
ざわざわする。
驚いたので心拍数は上がったが、そうではないからだの奥の妙なところから来るざわざわだ。
マクギリスの後ろ姿から目を離せない。二枚目で通っている役者なのだから佇まいまで綺麗なのは当然だ。これまでなんとも思ったことはない。なかったのに、落ち着かない。
「ちょっと待ってくれ」
ガエリオはうしろからマクギリスの腕を掴んだ。振り向くマクギリスから、いい匂いがした。こんなこともこれまで思ったこともない。
なんだ、と言いかけた口が途中で止まり、見開いた目が冷ややかに細められるのまで、ガエリオは全部見ていた。 見た上で、キスをした。
紙袋が転がって音を立てないように、自分の手に移し替えて階段に置く。突き飛ばされないよう、両手首をそれぞれ掴み、蹴られるのも御免なので脚の間にからだをねじ込んだ。
そのあいだもキスはどんどん深めていった。舌を絡めとるとマクギリスが眉根を寄せるのがわかったが、噛みつかれることはなかった。
呼吸する間を与えないので、酸素を求める上擦った声が聞けた。口の端から零れる唾液を舐めとる。
左手が思わず緩んでマクギリスの右手が自由になったが、不安定な姿勢のせいかその手はガエリオのジャケットの背中を掴んだ。
ガエリオはマクギリスのセーターの下のシャツをズボンから引っ張り出し、腰から臍の辺りを直接触った。捻れるからだを下半身を強く押しつけることで押さえる。
もう明らかだったが、ガエリオは興奮していた。だから唐突に手を離した。解放されたマクギリスは、ずるずると壁にもたれたまま階段に座り込んだ。
「わかった」
「は?」
乱れた呼吸を整えようとしながら、マクギリスが紅潮した顔を上げた。
「ああ、うん。わかった。とりあえずここ人来そうだからやめる。それにおまえ、これから稽古だろ」
ガエリオが手を差し出すと、マクギリスは信じられないものを見る目でそれを見た。
「ほら、立てるか?」
たっぷり数秒、マクギリスはガエリオの手を見てから、口元の笑みだけを取り戻した。
「今のはなんだったのだろう?」
「え? いや、俺、男にその気になったのが初めてで、気の迷いかどうか確かめてみようと思って」
「ほほう」
髪も服も乱れたまま、超絶美形が笑うと怖い。ということを、ガエリオは知った。
手の甲で口元を拭うとマクギリスはガエリオの手を取り立ち上がり、そのまま早足で階段を上がり始めた。引っ張られたガエリオはつんのめりそうになる。
「お、おい?」
マクギリスは稽古場の隣の部屋のドアを開けた。倉庫に使っているのかカビ臭く、顔をしかめているあいだにドアが閉められ施錠された。ガエリオは窓際の壁に背中をつかされ、マクギリスに覆い被さられる。
マクギリスはどこまでも笑顔だった。
「一方的に確かめてそれで終わるとか、随分いい思いしかしてきたことがないようだな」
息がかかる距離で言い放つと、噛みつくように首元にキスしてきた。ガエリオの脚の間に下半身が押しつけられる。
「煽るだけ煽っておいて」
マクギリスはガエリオの顎を掴むと、唇を合わせ舌を絡めてきた。思わぬ展開に次どうすべきか戸惑ったが、際どいわりにどうもマクギリスの動きに待ちがある。ガエリオは密着している腰をさらに引き寄せ、そのまま姿勢を入れ替えた。
 こいつ、綺麗だな、と今日何度目かの男には思ったことのないことを思った。
 勝手がよくわからずためらうと、さりげなく誘導される。
「おまえ、慣れてるな」
「それはどうも」
 少しも怯まず見返してきた一瞬あと、
 あ、俺、今、恋に落ちた。
 ズボン下ろしながら思うことでもないだろうことを思った。
 たぶん後ろからするほうが楽なのだろうが、マクギリスは腕を首にまわしてきた。ガエリオが見ているようにマクギリスもガエリオを見ている。冷たく輝く宝石のような、と形容される瞳なのは知っている。それが深さを湛えて上擦った光を放っていた。
「…あっ、う」
 愛撫などほとんどないまま挿入したが、無理なことをしているとは思わなかった。同じくらいの熱がマクギリスから伝わっていて、仰け反って露わになった首筋を食い破るように噛みついた。短いが途切れない熱い息と共に吐き出される声が、ガエリオに我慢をなくさせた。それでも、
 なかはまずいだろ。
 という最後の理性は、離れようとした途端に腰を引き寄せられて呆気なく消えた。

手を離すと、荒い息をそのままにマクギリスは床に座り込んだ。
身支度をすませてガエリオがマクギリスに手を伸ばすと、自分でできると断られた。
目の前にいるのはたった今まで抱き合っていた相手なのだが、既にもう信じられない。なにがどうなってこうなったのか。よくわからないが、もう一度抱き寄せたい衝動を抑えるのに苦労した。
ガエリオはマクギリスと目線を合わせるために膝を折った。
「おまえ、今、誰かとつきあってる?」
気怠そうにマクギリスは視線を上げた。
「つきあってるなら、そいつと別れろ」
マクギリスは眉をひそめた。こいつの瞳は緑なのだな、と、ずっと見ていたのに初めて色に気がついた。
「別れて俺とつきあえ」
緑の瞳が微かに揺れた。揺れてからマクギリスは笑い出した。
「おい! 俺は真面目に!」
「ああ、だからおかしくて。いや、違う。そういう意味じゃない」
ムッとするガエリオの顔の前に手のひらを向けるあいだも、マクギリスは笑っていた。ムカついたが、しどけない姿にはやはりそそられた。
「で、どうなんだよ」
「誰ともつきあってない。そうだな。つきあってみようか」
「本当か?」
おさまらない笑いをこらえようと、マクギリスは手で口元を押さえた。
「ああ」
 よろしく、とマクギリスは口元から手を離し、ガエリオに差し出した。
 つきあうことになった相手と握手するのは妙な気分だった。
マクギリスは自分のテリトリーに他人を入れたがらない人間だったが、そこはガエリオの契約条件を盾にぐいぐい押しこんだ。互いに忙しすぎて、ぼんやりしていると自然消滅しそうで、最初のうちマクギリスがそれでもかまわないと思っているのが透けて見えたせいだ。
 今は、まあ、いい感じだと思っていた。

日が傾いてもマクギリスはソファに座ったままだった。
前髪をいじるのは思考するときの癖だ。
ガエリオはダイニングから椅子を持ってきて背もたれを前にして座り、その様子をずっと見つつ台本を読んだ。若干退屈だったが、見ていないといなくなるかもしれない。
「いつまでそうしているつもりだ」
聞いたのはマクギリスだ。
「おまえ次第だな」
台詞はすっかり覚えてしまった。
「俺と結婚する気になったか?」
マクギリスは前髪から手を離した。
「そんな急に結論は出ない」
「いや、ほんとに! ずっとこのままのつもりだったのか?」
 マクギリスはまた黙ってしまった。

 マクギリスは人との縁が薄い人間だ。
 容姿が人を引きつけるが安定した関係は築けない。
 それがなぜか他人と五年も暮らしている。
 外で会えないので家で会って、それもガエリオの家に出入りするほうが目立つのでマクギリスの家で会って。そのうち面倒になってきてガエリオが帰らなくなっただけだが、特に帰ってほしいと思ったことはなかった。
 ふと目が覚めたとき隣にガエリオが眠っているのを、たまに不思議な気持ちで眺める。
ガエリオが荷物を持ってきた日に、寝るときは別々がいいと言ったマクギリスに対して、
「は? おまえ、なに言ってんの? 深く眠れない? 今まで普通に寝てただろ」
 と、身振り手振りのすごい勢いで却下された。
 睡眠に問題が出たらソファで寝よう、と思って今日まで経つが、いまだにソファで寝たことはない。
 ガエリオが形式にこだわる気持ちがよくわからないが、そういう点では彼の方が常識人なのでマクギリスがおかしいのだろう。
 ここで我を張ると本当に別れることになるのだろうか。

 ガエリオが立ち上がって言った。
「わかった。この問題は保留にしよう」
 マクギリスは顔を上げた。
「え」
 突然はしごをはずされた感覚だ。
「どうせ一年あとのことだし、また話し合おう」
 はしごがまたかかった気分だが、こういう揺さぶりはやめてほしい。そういうつもりがないだろうから余計に。
「明日のこともわからないのに、先のことの約束などよくする気になる」
「そうか? 俺は絶対一年あともおまえが好きだぞ」
 どんな顔をして言っているのかと、マクギリスはガエリオの顔をまじまじと見つめた。拍子抜けするほど自然体だ。
「ま、その先は想像もつかないが、一年経って考えたらまたその先の一年も好きだろう」
 あまりの適当さに呆然としてしまう。それからおかしくなってきた。抑えていたがこらえきれなくなってきて大笑いすると、ガエリオがむっとした顔になった。
「おまえの笑いどころがわからん」
「ああ、いや、違う。違わないんだが」
「どっちだ!」
 手をぶんぶん振るので、叩かれないように注意して腕を伸ばして手首に触れた。
「わかった。おまえの契約に問題がなくなったら結婚しよう」
「へ?」
「その話をしてたんだろ?」
「そうだが」
 狐につままれたような、というのはこういうのを言うのだろう、という表情にガエリオはなった。またおかしくなってきたが、笑いだす前に抱きしめられた。
「マクギリス、愛してる」
「ああ、はい」
 マクギリスはガエリオの背中をぽんぽんと叩いた。

ガエマク

Posted by ありす南水