(3)

部屋に戻って明かりをつける前から、留守番電話のボタンが点滅しているのがわかった。
今時固定電話にメッセージを残す仕事関係者はいないが、一応確かめ、リビングにいくつも積み上げてあるダンボールを横目で見ながら消去した。
忙しすぎて引越し先を決められないせいで、前に付き合っていた相手が浮気に使っていた部屋に、晴はいまだに住んでいる。
電話はその元恋人からだ。
少し前に携帯に会いたいと電話があり、それから時々連絡がある。
最近は無視しているので、固定電話にかけてきたのだろう。
コートのポケットからダイニングのテーブルの上に置こうとした携帯がちょうどその時震えた。
晴は身構えたが、液晶の表示は志月だった。
間違いなく深夜と呼ばれる時間帯だ。
そんな時間に志月からかかってきたことはなく、なにかあったのかと、晴は思わず引いていた手を伸ばして電話を取った。
「もしもし晴さん」
志月は珍しく、いきなり話し出した。
「まだ仕事してますか。少しいいですか」
いつもと少し雰囲気が違うが、切羽詰った感じではない。
晴は拍子抜けした。
「晴さんの言うとおりだと思って、清四郎と話をしたんです」
志月と会ったのは数日前で、なにを言ったかすぐに思い出せない。
「ああ…仲直りしたのか」
そうしろというようなことを、言ったかもしれない。
「清四郎が今ここにいます」
頭で考えるより先に、感情が動いた。
「おまえどこにいるんだ」
「うちの座敷です」
「清四郎は泊まるのか」
「そうですね」
「おまえの部屋に」
友人同士が同じ部屋で泊まろうとどうということはないのだから、くだらないことを確かめたものだが、志月はさらりと答えた。
「座敷に」
それでも、志月、ここで寝ないほうがいい、寒いから、と清四郎の声が聞こえると、晴れの気持ちはまた波打った。
布団の上だから大丈夫と、志月が電話口元からを離して言う。
これは俺が使うから。でも、いいよ、志月が寝る?
携帯を握る晴の手に、どんどん力が入る。
前の恋人のように晴にあてつけようとしているわけはないのだから、晴が過剰に反応しているだけだと、そんな理性で制御出来るなら元からやきもきしない。
俺と話しているときにほかに気を取られるな。
間一髪そんなことを言わずにすんだのは、花奈が登場したからだ。
あらあぁ。志月、どうしたのぉ。寝るときは携帯離しなさいよぉ。
「もしもーしぃ」
「…先生」
「まあぁ。晴ちゃんじゃないのぉ。あ、こら、志月。寝てなさいよぉ」
携帯が転がったのではないかと思われる音がしてから、また志月に代った。
「晴さん、晴さん」
「聞いてる」
志月ぃ、おやすみぃー、と花奈の声が遠ざかったあと、鈍い音がした。
「おい?」
「階段を踏み外しましたけど、大丈夫です」
どうもおかしい。いつもの志月ではない。
晴は疑念を口にした。
「おまえ、ひょっとして酒を飲んだのか」
「え?」
聞き返したというより、あえて聞こえなかったふうを装った、と晴は感じた。
志月は、あいたたた、とわざとらしく声を上げる。
「布団を被ってさっさと寝ろ」
これからベッドに入ります。と、志月は言った。
そうしろと言ったのは晴だが、余計な想像をしてしまうので、宣言はいらない。
布団をめくるかけ声なのか、よいしょ、と呟いたあと、志月は続けた。
「晴さんはなにをしていたんですか」
「普通寝ている時間だろ」
「電話にすぐ出ましたよね」
頭の回転が速すぎて可愛くない。
「仕事が終わって、帰ってきたところだ」
「晴さんは本当に仕事が好きですねぇ」
同じ言葉を、元恋人に、責める響きで何度も言われた。
胸が痛む。
「悪かったな」
「別に悪くないですよ? 客観的で。気配りが出来て。自分中心に世界が回っている。そんな晴さんが、僕は好きです」
一見人当たりはいいが、自分勝手で自己中心的。
そう責められたとき、晴は傷ついた。
直接的に浮気現場を目撃したことよりも深く。
「なあ、志月」
「はい」
「もう寝ろよ、おまえ」
口ごたえしてくるかと思えば、志月は素直に「そうですね」と返してきた。
「晴さん。もう一回名前を呼んでください」
「志月」
志月が笑うのがわかった。
「おやすみなさい、晴さん」
ためらいもなく電話を切るのが、志月らしかった。

清四郎は志月の小学校からの友達で、家は花奈の家からは離れたところにある。
高校も事故に遭う以前に志望していたところで、やはり花奈の家からは遠い。
にも関わらず、花奈の家の最寄り駅にアパートを借りて一人暮らしをしているとかで、志月と仲直りしてからは、頻繁に出入りするようになり、 晴が訪れると、台所にこれまでなかった日常使いのカップがひとつ増えていたり、玄関の靴箱の上に手袋が忘れてあったりした。
一度だけ晴は門の前で清四郎と出くわした。
「あ、晴さん」
「やあ、清四郎」
高校生にいきなり名前呼びされて、晴も呼び捨てにしてやった。
照れ笑いした清四郎は、背は高いが猫背気味で、腰が引けているので間が抜けて見えるが、同時に人懐こい印象を与える。
何度も振り返り、意味もなく頭を下げて清四郎は帰っていった。

二月のある日、花奈の家を訪れた晴は、玄関を開けたときから鼻を突いた甘い香りに顔をしかめた。
特に甘いものが嫌いではないが、換気はしたほうがいい。
源と思われる台所に直行して、暖簾のかかった入り口で足が止まった。
テーブルの上に整然といくつも茶色のケーキが並べられている。
椅子の上にも、シンクの上にも、コンロの上にも。
「おまえ、ケーキ屋でも開くつもりか」
オーブンの前に立っていた志月が振り向いた。
白いシャツにジーンズの上に生成りのエプロンを着けていて、家のなかで志月が制服以外の洋服を着ているのを、晴は初めて見た。
雪が降った翌日で外はかなり寒いが、灯油のストーブとオーブンの熱で台所はそれなりのぬくもりがある。
なにより志月は傍目にわかるくらい集中していて、自分の薄着に気づいていないようだった。
「ああ、晴さん、こんにちは」
ちょうどオーブンがチンと鳴り、志月は挨拶もそこそこにドアを開け、取り出したケーキを型から抜くと、深刻そうなため息をついて頭を振った。
「納得行かない」
呟くと、小麦粉の袋に手を伸ばし、計量を始めた。
話しかけるなと背中が言っているので、晴は花奈の仕事場に向かった。
「花奈ちゃん、うっかり志月に、もうすぐバレンタインだからチョコレートケーキが食べたいなぁって言っちゃったのぉ」
そうしたら志月がケーキ作りにはまり、朝からずっと焼いているのだそうだ。
「朝ごはんも昼ごはんもおやつも全部アレだったのぉ。このままじゃ晩ごはんもきっとアレだわぁ」
漂ってくる匂いと相まって、晴は聞いているだけで胸焼けがしてそうだったが、花奈は浮かれていた。
よく見ると、花奈のパソコンの前には食べかけのケーキが乗った皿が置かれている。
「晴ちゃんも持って帰るといいわぁ。絶品よぉ」
「味がいいなら、どうしてあんなに作り直してるんですか」
「さあぁ? パティシエでも目指してるんじゃないのぉ」
本当にそういう勢いだった。
打ち合わせを終えて再び台所を覗くと、さっきとまったく状況は変わっていなかったが、さすがに疲れたのか志月は椅子をひとつ空けてそこに座っていた。
「ほどほどにしないと、また体調を崩すぞ」
後ろから志月の頭を軽く叩くと、試食のためかテーブルの上の皿に小さく切り分けられていたケーキの欠片をつまんで、晴は口に入れた。
一瞬息を飲むくらい美味い。
「この味になんの不満があるんだ…!」
いいかげんにしろという気持ちを込めて、今度は額を叩いた。
「晴さん、持って帰ります?」
「人にあげてもいいか」
志月は晴を見つめた。
それが妙に長かったので、晴は気付いた。
「事務所に持って帰るんだよ」
志月の作ったものをほかの男にまわしたりはしないし、そもそもバレンタインにプレゼントなど、晴はしたことがない。
そういうことならいくつでもどうぞ、と志月は立ち上がってケーキをラップに包み、さらに紙袋に入れて、はい、と差し出した。
両手でそれを受け取った晴に、そのまま動かないでと言う。
「なんだ?」
問いには答えず、食器棚から小皿を取り出すと指先でなにかをつまんで、晴の口元に真っ直ぐ腕を伸ばしてきた。
反射的に晴は口を開き、間にするりと指が入ってきた。
なにかが舌の上に落とされ、指が出て行く。
「少し早いですけど」
チョコレートだった。
いきなりだったのてたいして味わうことも出来ず、咀嚼して飲み込んでしまったが、確かに美味かった。
「もしかしてこれも、納得行くまで作り直したのか」
「そんな念のこもってそうなもの、食べたいですか」
志月は見惚れるような笑みを作った。
「一発勝負です。最低限満足のいくものが出来なければ、一生チョコレートは作らないくらいの覚悟で作りました」
それはそれでとても重いのだが、晴にとっては不快でなくて優越感だった。
結局辛うじて志月が納得する出来だったのが一粒だけで、それも鑑賞には耐えられないので、見られないように口に放り込んだらしい。
「たぶん俺は、なにがどうなのかわからなかったと思うが」
「そうですね」
志月はあっさり肯定した。
「でも僕が嫌なんです」
「おまえ、生きにくそうだな」
そうですね、と志月はまた肯定した。
チョコレートケーキは橘とほかのメンバーに大いに喜ばれた。
ほとんど脂肪のない体型を苦もなく維持している橘は、食事には関心が薄いが、いわゆる別腹に入るようなものは好きだ。
「しかし、前の男で作った借りを、今の男の作った菓子で返すなんてね」
「洒落のつもりか」
自分でもいまひとつだと思ったのか、橘は大胆に四つに切り分けたケーキの二つ目にかぶりついた。
晴の元恋人との決着は、橘がつけた。
とうとう事務所にまでかけてきた電話を、晴の留守中に橘が取り「話をつけてきたわよ」と、事後報告された。
黒のスーツの下に着た白いシャツのボタンが取れて、髪も随分と乱れていた理由を、晴は橘に聞いていない。

三月は晴が気づいたときには、十四日は過ぎていた。
仕事関係で貰った相手には全員返したが、志月には結局なにも渡さなかったししなかった。
四月は現地イベントを翌月に控え、さらに次の仕事が始まりつつあったのでいつもよりさらに忙しく、花奈の家には一日も行かなかった。
たまに志月から「今電話していいですか」とメールが来て、ほとんど「今は駄目だ」と返信した。
五月に花奈関係の仕事が終了した。
気づくと季節が一巡していた。

まずまずの成功を納めての打ち上げは、黒沢を始めとする出版社の面子と晴と、当然花奈とで行われた。
三次会まで盛り上がり、本当に酔っているのかただはしゃいでいるだけなのか判然としない花奈をタクシーへ押し込んで、晴の仕事は本当に終わった。
まだ騒ぎたいメンバーが四次会への参加者を募るのは断った。
「二条さん、また一緒にやりましょう」
こちらは真実泥酔している黒沢も、次の車へ乗り込み、それを見送った晴は、タクシー乗り場を離れた。
終電に間に合うせいもあったが、このまま帰るか事務所に戻るか迷った。
明日の午後までに理解しておきたい書類がある。
駅構内を歩きながら、携帯をチェックし、今なら志月がメールしてきてもいいのに、と思う。
そしてふと、前のときとまったく同じことをしていることに気づいて、酔いが引いた。
握っていた携帯が震えて、落としそうになる。
志月からの着信だった。
「花奈から今電話があって。晴さんも帰ったと言っていたからいいかと思って、今どこですか」
「駅」
階段を下りてホームに入る。
乗った電車のドアがすぐに閉まってすぐ、あ、と思った。
行き先は家でも事務所でもない。
「もしもし、晴さん?」
「悪い。電車に乗った。降りたらこっちからかける」
車内で携帯を使わないのはマナーだが、志月の返事を待たずに切った自分に、晴は落ち込んだ。
前の相手に責められて、傷ついたなりに反省もしたはずなのに、ずっと年下相手になにをやっているのか。
しかもこの電車の行き先。
どうせもう電車はないから降りる気もしないが、仕事をする気は失せたので、着いたら駅からタクシーで家まで移動だ。
駅を出て、タクシー乗り場の手前で電話した。
「晴さん」
謝ろうと思っていたのが、自分の名を呼ぶ志月の声が嬉しそうすぎて、タイミングを失った。
「家ですか」
「いや、駅」
おまえの家の近くの、と心のなかで呟いて、飲食店の明かりも消えた駅前を眺めた。
「今、話してもいいですか 」
「ああ、いや、悪い」
「駄目ですか」
「そうじゃなくて。毎回そんなようなことを言わせて」
「 仕方ないんじゃないですか。晴さん働くの好きだし」
特に無理をしている感じでもない。
「質問があるんですけど、晴さんはもううちにへ来ないんですか」
「え?」
「花奈の仕事は終わったんですよね。ということは、もううちに来る必要はないんですか」
そう言われればそうだ。
「晴さんは、僕を好きになったりはしないんですか」
携帯が手から滑り落ちそうになった。
「そうしたら、これからも晴さんはうちに来ますよね」
そろそろ晴も志月に慣れてきた。
志月の発想は目的と手段がずれている。
「今までは、晴さんの気持ちはどうでもよかったんですけど」
「なんだって?」
とんでもないことを言われた。
「晴さんを好きなだけで、楽しかったので。好きになってくれなくても、会えるならいいんですけど」
「おまえ、ちょっと立ち止まれ」
「縁側に座ってます。いい月ですよ」
晴は空を見上げた。
「ああ、そうだな」
晴は花奈の家の前にいた。
一年前と同じ、紫陽花が見える。
考えなどなしに門を開けると志月がいた。
月を見上げる横顔が綺麗で、浴衣から出た素足が地面についていた。
「志月」
「あれ、晴さん」
耳にあてていた携帯と晴を交互に眺めてから、携帯を縁側に置いた。
「どうしてここにいるんですか」
志月が近寄ってきた。
裸足、と思いながら、晴は目の前の志月を見た。
どうしてここにいるのかという問いには、気づいたら来ていたという答えと、会いたかったからという答えの両方あった。
ただ志月があまりにも嬉しそうなので、言葉より行動を選んだ。
キスしてすぐに離れると、志月は大きく瞬いた。
「あれ?」
「あれ、じゃねえよ」
もう一度引き寄せて同じようにすると、今度は離れる前に晴の首に腕が回ってきた。
「思い出した。晴さんは自分を好きになった相手を好きになれる人でした」
晴は志月の額を掌で叩いた。
「痛っ」
「おまえ馬鹿だろ」
「ええ? ああ、なんでもいいですけど。晴さんが僕を好きなら」
間が持たない、と晴は思った。
これまでならこういう時、抱きしめて誤魔化すのだが、保護者のいる家でなにが出来ようか。
「花奈ならいませんよ」
変なところでだけ察しのいい志月が言った。
「清四郎の所に泊まるそうです」
自由奔放の限度がないらしい花奈に、晴は右手を握り締めた。
「そうだ。晴さん、泊まって行きます?」
額を叩こうとすると、今度はかわされた。
「帰る」
志月は晴の腕に手を絡めた。
「客用布団くらいありますよ」
「そういう問題じゃないだろ」
首を傾げた志月は、ああ、と頷いた。
「じゃあ僕の部屋に…」
「俺は高校生には手を出したくないんだよ!」
志月が目を丸くした。
「なるほど」
それからまた首を傾げた。
「それにどんな意味が?」
意味などないのだろうが、晴は自分が少数派だと気付いた時から、守れるルールは守ろうと決めていた。
ふーん、と呟いた志月は、首を伸ばして晴にキスした。
「これはいいんですよね」
晴は答えに詰まった。
「じゃあ例えば、僕が晴さんを押し倒したりしたら?」
志月は最高の笑顔を見せた。
「とりあえず冗談です。教えてもらわないと、なにをどうするのかわからないし」
こいつは本気で怖い、と晴は思った。
「嫌だな。晴さんの嫌がることはしませんよ?」
「おまえは微妙なところで語尾を上げるよな」
笑顔を維持した志月は晴の腕を引っ張り、縁側に座らせた。
「じゃあここで一緒に月を見ましょう。大丈夫。あと何時間かで朝です」
今更隣に座って心拍数が上がる恋愛をするとは思わなかった。
月よりも白んでいく空よりも、晴は志月の地面についたままの素足と足首が気になって仕方なかった。

創作

Posted by ありす南水