(2)
一番最初に付き合った18以降、ひとりという時期がほとんどなかった晴だが、このあいだの別れ方がこたえて、当分恋愛沙汰からは遠ざかっておこうと思っていた。
だから志月が突飛なことを言い出してもこちらにその意志がないのだから大丈夫、などとたかをくくっていた。
迂闊にもほどがある。
晴は好きと言われたら好きになれるタイプなのに。
遡って考えると、最初から気になっていたような気がしてくるのだから、我ながらどうかと思う。
「ねえ、志月となにかあったぁ?」
「別になにも」
あれからきっかり一週間後で、花奈は最近晴からの連絡にまともに応対するようになった。
仕事部屋の机に頬杖をついた花奈は、自身の翻訳本のことなどより、明らかに志月との話を聞きたがっている。
「まさかと思いますけど、なにか書こうと思っていませんよね」
花奈は、にたり、と笑った。
一見すると少女のようあるように思えないこともない花奈だが、こういう表情に年齢が出る。
「大丈夫ぅ。フィクションだからぁ」
晴の背中がざわりとした。
「志月のことを書くと、志月が怒るんじゃないんですか」
「怒るかなぁ」
この人に直接言っても駄目なことは、これまでに充分学習している晴は、あとは志月に頼るしかないと悟った。
志月は今日は家にいない。
ここのところ毎日学校に行っているそうだ。
それが志月となにかあったか、という質問に繋がる。
「あの子が別に行かなくても問題ない学校に行くなんて、青天の霹靂なのよぉ」
「出席日数の問題でしょう」
「内緒の話、そこのところはどうにでもなるのよぉ」
人差し指を口の前に立てて、花奈は仰々しく教えてくれたが、中三になったばかりの頃に事故に遭った志月は、志望していた高校よりかなりランクを下げて現在の学校に入学した。
そのためにほとんど登校していないにも関わらず、志月の成績はほかの生徒より群を抜いてよく、学校は全国模試などには参加することを条件に、欠席が多いことについては配慮している、ということだった。
「なにかこう、むかつく話ですね」
「前の志月はもっとむかつく感じだったわよぉ」
「頭がいいでしょぉ。運動も出来るしぃ。あの見てくれでぇ。気も強いぃ」
ちょっと想像して、晴はうんざりしたが、気が強いの部分は納得した。
ずれた物腰なので誤魔化されているが、他人に対してどんなときも一歩も引くところがない。
「嫌な感じでしょぉ」
花奈は志月がいないので晴に淹れさせた麦茶を飲んで、急に笑うのを止めた。
「でもあの子の周りは、そんなあの子が大好きでねぇ。体調のことも含めて、元に戻って欲しいのよねぇ」
親にとっては理想の息子、きょうだいにとっては理想の兄、学校では理想の生徒。
「そんな出来すぎたのより、今のほうがまだ自然じゃないか」
完全無欠より変人のほうがまだ近寄りやすい。
本心からそう思った晴に、花奈は笑った。
「結局あの子、家族とうまくいかなくなって、ここに来たのよぉ。
こう見えて、前は花奈ちゃん、志月とは敬遠の仲だったのだけどねぇ」
今の志月は好きよぉ、と花奈は付け加えた。
志月の変わりっぷりは事故のあとの変化のみなのか、この叔母の影響も加味されたものなのか、晴は怪しんだ。
なにかあったかと訊かれて、キスのことなど当然言わないが、その後なにもないのは本当だ。
告白をされたはずだが、その後志月からはなにも言ってこない。
花奈の予定について連絡などは取り合ったのだが、もしかしてあれは夢だったのでは、というくらい、志月は前と変わらなかった。
からかわれた、ということはないだろうと思っている。
その程度には信頼している。
信頼、という言葉が出てきた瞬間に、晴は顔をしかめた。
もはや子ども扱いしていない。
「ねえねえ、ほんとに書いていいぃ?
白状すると、志月みたいに特別なのよりぃ、晴ちゃんみたいなほうが書きやすいのよぉ」
何時の間にか、名前で呼ばれているが、気づかなかったことにした。
「どんな構想か知りませんけど、明らかに自分だとわかる表現力があった場合、訴えますからね」
「いやあん。晴ちゃんも怖いぃ」
気持ち悪い声を出して、花奈は身を捩った。
「そもそも先生が書くのは、翻訳本出版ルポじゃないんですか」
「それより晴ちゃんのほうがおもしろ」
「現地関係者も力を入れてますよ。出版イベントも盛り上がりますね」
聞き逃せないようなことを言われる前に遮ると、花奈は滅多にない真顔になった。
「大宮圭介のときより、盛り上がるかしら」
「大宮先生? 」
そういえば仲が悪いようなことを言っていた。
「ほらぁ、聞きなさいよぉ。大宮圭介となにがあったんですかってぇ」
一瞬のうちに、いつもの花奈に戻る。
「聞きませんよ」
交換でなにを聞かれるかわかったものではない。
「つまんないぃ。晴ちゃんてガードが固いわぁ」
「普通です」
「私の付き合っていた女の子を盗ったんだけどね」
物凄い早口だったので、晴は聞き取れなかったふりをした。
「ねえ、出版イベントって晴ちゃんも行くんでしょ。志月も連れて行こうかなぁ」
花奈が個人的に同行させるのは自由だ。
「わあ、それいいかもぉ。旅にハプニングはつきものよねえ」
なんのハプニングかは考えたくもなかったが、花奈はそのあとひとりで大いに盛り上がった。
「行きませんよ」
と、志月が電話で伝えてきたのは、その夜のことだ。
「花奈は叱っておきましたから」
どっちが保護者なのか、時々晴は怪しむ。
かといって志月が大人だとも思えず、この伯母と甥は子ども同士が一緒に暮らしているようだ。
「ところで、花奈はどうして二条さんを名前で呼んでるんですか」
「知るか」
「僕も呼んでいいですか」
晴が黙っていると、勝手にそうすることにしたらしい。
「呼び捨てにしても」
「それはなしだろう」
志月は笑った。
「晴さん」
危うく舌をもつれさせそうなくらい、晴の胸が高鳴った。
「晴さん、どこか連れて行ってください。デートしましょう」
志月が変人でよかった、と心から思った。
とりあえず平静に戻れる。
「デートってなんだ」
「好きな人と出かけるのはデートでしょう?」
疑問形のようにして話しかけてくるのは、ずるいやり方だ。
「俺は忙しいんだよ」
「平日でもいいですから」
「学校は」
「それが停学? 自宅謹慎だったかな。に、なってしまって」
さらりと言うので仰天した。
自宅パソコンのファイル整理をしていたが、危うく必要なファイルを消しそうになった。
「なにしでかした」
「別に…絡まれて突き飛ばされたので、殴ったら大騒ぎされて。
こういう場合って喧嘩両成敗が教育的指導ですよねえ」
妙に花奈に似た喋り方だった。
志月が言うには、休憩時間に教室を移動していると、同学年の別のクラスの生徒数人に階段の踊り場で呼び止められ、わけのわからないことを言われた挙句に突き飛ばされた。
危うく階段から落ちそうになったので、突き飛ばした生徒の頬を平手で張ったところ、教師が飛んでくる騒ぎになり、志月は二週間学校に行かなくていいことになった。ということだ。
殴られた相手はさぞかし驚いたことだろう。
おっとりぼんやりに見えないこともない志月が、手を上げるなどと思いもよらない。
「だから家にいるんです。どこかに誘ってください」
「おとなしく家にいろ」
晴は電話を切ったが、結局気になって仕方なく、翌々日、仕事の合間を縫って家に様子を見に行ってしまった。
花奈はたいてい二階にいて、呼び出さねば出てこず、志月はたいてい一階の座敷付近にいる。
中庭から覗くと、案の定縁側で猫と一緒に丸くなって寝ていた。
小春日和とはいえ秋も深まってきたので、着物の上に羽織を重ねている。
いまだに家猫なのか野良なのか晴が知らない斑は、晴が影を落とすと不審そうに目を開けて、続いて志月も目を覚ました。
「こんにちは」
のろのろとからだを起こし、寝惚けているような様子で挨拶される。
猫は晴の足元をすり抜けた。
「花奈ならいませんけど」
「仕事じゃない」
志月は眠気を振り払うようにうつむいて頭を振った。
「じゃあなにしに来られたんですか?」
好きだとかデートだとかさんざん言っておきながら、この態度はどうなのか。
どう言ってやろうかと晴が考えているあいだに、ようやく志月の頭は動き出したようだ。
ああ、と呟いて、さっきまでからだの下に敷いていた座布団を横に滑らせた。
「どうぞ。お茶を淹れてきます」
「いや、もう帰る」
「三十分くらいいいでしょう。胡麻団子を作ったんです。花奈が食べたいと言ったから」
待っているのが当然とばかりに、返事も待たずに奥へ消えた志月は、盆を持ってすぐ戻ってきた。
、団子は確かに美味かった。
「ここに住むのに、美味しいものを作るのが条件だったので、料理教室とお菓子教室に通ったんです」
世の中には男性向けの料理教室もあるが、志月の行ったのは女性ばかりのところだろうと、妙な確信を持って晴は思った。
「おまえはすごいよ」
「誉めてます? それとも皮肉?」
「とりあえず俺にありがとうと言っておけ」
「そうですか。ありがとうございます」
噛み合っているのかいないのかわからない会話をしながら、縁側に並んで茶を飲むのは、妙な気分だった。
「おまえは完璧主義か」
「どうでしょう。出来るのに中途半端は苛々しませんか」
「それはわかるが」
「でしょう」
笑いかけられて、晴は目を逸らせた。
薄々思い始めているが、志月と自分は大元の性格が似ている気がする。
「でもそうですねえ。これでも以前に比べるとだいぶどうでもよくなりました」
「そうなのか?」
「出来るからってなんでもしゃにむにやればいいってものではないですよね」
花奈の言っていた以前の志月を想像して、晴は頷いた。
植え込みが葉擦れの音を立てて、猫が帰ってきたのかと顔を上げると、志月が着ているのを見たことがある制服と、同じ制服を着た学生が立っていた。
中庭には晴がそうしたように、玄関の手前から入ってこられる。
そんなものがいるとは思ってもいなかったが、志月の友達かもしれないと、少し晴は腰を浮かせた。
かなり近くに隣りあっていたからだが、見下ろす形になった志月の横顔は冷ややかだった。
「あ、えっと、あの。声をかけたんだけど、誰も出なくて。こっちから声がしたから」
「いらっしゃい。ご用件は」
つい今までとあまりにも態度が違うが、よくよく思い返せば、初めて会ったときはこんな感じだったかもしれない。
志月の学友と思しき男は、志月よりずっと子どもの顔をしていて、おどおどと、それでも好奇心を抑えられないように志月を見ていた。
和装の高校生など滅多に日常にいるものではないから、当然の反応だ。
「あの、どうしてるのかなと思って。あの、高塔君、だけ処分、えと、謹慎になって」
志月の苗字も高塔なのかと、晴はどうでもいいことを思った。
「別にどうも。家にいるだけだけど」
「あの、僕は別に、高塔君に絡んだんじゃなくて、一緒にいたらたまたまあいつが君を呼び止めて。
あいつの彼女が君のことをすごく気に入ってて、あいつそれで頭に来てて」
晴は途中から志月の顔を見ていたが、志月の無表情には、くだらない、と書いてあるようだった。
「そう」
志月が頷いた。
「あの、僕はその、高塔君をどうこう思ってないから」
「わかった」
それ以上はまったく取り合う気はないという笑みは、彼には別の意味に映ったようだ。
ほっと息をつくと、頭を下げて出て行った。
志月は心底つまらなさそうに彼がいなくなった庭を見ていたが、やがて人差し指で額を押して、晴に向き直った。
「なんの話をしてましたっけ」
「うん、まあ、ガキの世界も大変だな」
「保身と興味」
「身も蓋もないな。おまえ、怖いよ」
「ひどいなあ」
若干ずるいと思わせる、この笑い方が好きだと思ったあと、まるでそれを見透かしたかのようにさらに志月が笑みを深くしたので、晴は全力で一瞬前の思考を打ち消した。
よかったらどうぞ、と持たされた残りの団子を持って事務所に帰ると、それを食べた橘が絶賛した。
年が明けてすぐのことだ。
携帯の向こうから必死、という気配が伝わってくるような電話が黒沢からかかってきた。
「頼む。高塔先生の家にすぐ来てくれ。頼む」
たとえどんなに嫌な予感がしても、頼むで挟まれた仕事上の付き合いの相手の頼みを、無碍に断ることは出来ない。
慌てすぎて埒の明かない黒沢を宥めて事情を聞きだすと、花奈の締め切りが明日なのだが、志月が風邪を引いていて大変なのだと言う。
「今すぐ来て、志月君の面倒を見てくれないか」
「そんなに悪いのなら、病院に連れていったほうが」
「違うんだ。ただの風邪なんだ。
だが先生が志月君の部屋にこもってうつしてもらって、自分も病気になる、そうしたら仕事をしなくてもすむ、と言い張って。
それで志月君が扉を開かないようにしてしまって」
黒沢は晴が頻繁にあの家に出入りしていることを知っているので、自分の助っ人に適任だと思ったらしい。
年始周りの途中だった晴は、風邪でもないのに頭が痛くなったが、予定を変更して花奈のところに行くことになった。
迎え入れてくれたのは黒沢だったが、花奈を訪問して、これほど熱烈に歓迎されたことはなかった。
いいように使われている感がなくもなかったが、貸しを作ったと思えばいいし、無造作に見えて、実は念入りに整えられている黒沢の髭面が、ただの髭面になっているあたりは気の毒だった。
いつからここに泊まっているのかと問うと、昨日からだという答えが返ってきた。
たった一日で大の男をここまでやつれさせる花奈の破壊力はたいしたものだ。
「とにかく今は志月君の部屋が開かずの間になってしまったので、先生も諦めて仕事してくれているんだが、なかで志月君が衰弱しているんじゃないかと気が気じゃなくて」
そんなことはないだろう、と晴は心のなかで呟いた。
「粥を作って扉の前に置いたんだが、あとで見に行ったら飲み物しかなくなっていなくて」
晴が黒沢と一緒にこの家にいるのは最初の訪問一度きりだが、黒沢が志月に対して幻想を抱いた瞬間は、なんとなく認識していた。
性的な意味はないが、第一印象で晴が志月を妖怪かなにかのように思ったのと似た感じで、もっと好意的に美しく、黒沢は志月を普通の男子高校生とは違うものとして捉えた。
水分補給のために飲み物だけ取って、食べ物が残っていたなら、おそらく食欲がないから食べたくなかっただけだろう。
晴がそう言うと、黒沢は目を吊り上げた。
「なんてことを言うんだ! 可哀想じゃないか!」
晴は黙ることにした。
二階に上がってノックをして呼びかけると、ややあって内側からがたがたと音がした。
「晴さん。明けましておめでとうございます」
やっと通れるくらいの隙間から、志月が顔を出して鼻声で新年の挨拶をした。
「おめでとうございます…入るぞ」
からだを斜めにして通ると、扉を塞いでいたのが本棚だとわかった。
「この部屋、鍵がないので」
言いながら、志月は窓を開けた。
寒くなるので申し訳ないが、風邪をうつされたくない晴は換気に感謝した。
「晴さんが来るなんて、意外な展開です」
志月はもぞもぞとベッドに入った。
全体的にとろんとしていて、側にいるだけで熱っぽさが伝わってくる。
「黒沢さんが非常に心配しているので、食事を取ってくれないか」
「ああ、おいしくなさそうだったから」
黒沢が聞いたら、泣くだろう。
「それに米の粒々が嫌だなあ」
下で花奈を見張りながら、こちらの様子を伺っている黒沢は、志月が実は花奈と同じ種類に分類される生き物なのだとは、夢にも思わないだろう。
「じゃあ何なら食うんだ」
ぼんやりした目で天井を眺めたあと、志月はふいに笑った。
「晴さんが作ってくれるもの」
すっかりぬるくなっている水の入った洗面器とタオルを持って、晴は志月の部屋を出た。
台所を借りていると、背後に人の気配がした。
「いい匂いぃ」
振り向いてぎょっとした。
花奈が床を這っていた。
「晴ちゃん、志月はどうだったぁ」
「これ食わせたら、薬が切れていると言うから、病院に連れて行く」
「私にも作ってぇ」
もこもことしたカーディガンを着ている花奈は、女性を例えるのにどうかと思うが、粗大ごみに出されたこたつ布団のようだ。
「先生、駄目ですよ! これが終わったら、なんでも好きなものをご馳走しますから、今は仕事をしてください!」
追いかけてきた黒沢も、目が血走っている。
「河豚とか…?」
「ああ、いいですねえ! 河豚! 皆で行きましょう!」 そこに自分が入っていないことを、黒沢に引きずられていく花奈を見ながら、晴は心底願った。
冷凍庫に入っていた出汁を解凍して、うどんを茹でたものを、志月は美味しいと食べた。
当たり前だ。志月が作ったのと同じだ。
冷凍庫のなかは圧巻だった。
料理研究家の冷凍庫を見たことがあるが、それのように整然と、ぎっしりと食材と調味料、日持ちする調理済みの惣菜が詰まっていた。
花奈の希望もあるのだろうが、志月の徹底ぶりも半端ない。
「花奈先生もひどいことになっているな」
「年末の締め切りを破ったのに、正月に南の島で遊んでたせいですよ」
咳をしながら、志月は言った。
「おまえも?」
「どうして花奈が彼氏と一緒の旅行に僕が」
「彼氏…?」
このあいだは女の子がどうのと聞いた気がする。
「花奈は恋多き人ですよ」
世の中には男であろうが女であろうが、あんな女と付き合おうというつわものがいる、と考えて、晴は別のことに思い至った。
「じゃあおまえ、正月ひとりだったのか?」
だんだん食べる速度が落ちてきた志月は、大きく息を吐いた。
「だったらよかったんですけど。
実家に呼び戻されていて、おかげで帰ってきたら疲労困憊で、この風邪です」
遂に箸を置いて、志月は布団の上に頭を落とした。
食べたので若干顔色が良くなったが、やはり辛そうだ。
引き始めに病院に行って、インフルエンザではないことは確認していたが、薬が切れていたので、晴は志月を着替えさせて病院に連れていった。
着慣れた着物に羽織にマフラーにマスクといういでたちは、目立つを通り越していて、もうどうでもいいと晴に思わせた。
車を使えない道を歩いたので、志月がぐったりしてしまい、人の目どころではなかったせいもある。
「晴さんは年末年始はどうしてたんですか」
待合で、志月は腰の位置をずらせて、半分寝そべるようにして長椅子に座った。
こぶしひとつ離れて座られて遠く感じるのは、普段はもっと近いからだ。
「もたれていいぞ」
「うつしたら困ります」
それはそうだが、少し苛ついた。
病院内は温かく、息苦しくなったのか志月はマスクをはずした。
看護師に志月は体温計を渡す。
高熱だ。
「年末年始」
「三十一日まで仕事していて、その流れで同僚と初詣に行って、そのあとは寝ていて、二日から仕事だ」
今年晴が独りだからではなく、去年も一昨年もそうだった。
仕事か橘と結婚すればいい、というのが、別れた恋人の最後の罵倒のひとつだ。
どちらも晴としては冗談ではないのだが、行動を言葉にしてみて、自分は恋人として結構ひどかったのではないかと初めて思った。
「働き者ですねえ」
そこだけ病人の口調ではなくなったので視線を動かすと、志月も晴を見ていて、口の端を少し上げた。
憎らしくなってきて肩のあたりを押すと、力の入っていない志月のからだは椅子から落ちそうになり、慌てて両肩に手を置いて引っ張った。
片手を離し、残る片手を背中に移動させて支える。
志月は晴にからだを傾けてきて、すぐに戻した。
晴は元々持っていなかったものをなくしたような気分になった。
「おまえは正月、なにをしてたんだ」
志月は上を向いて、目を閉じた。
「初詣に連れて行かれたり。中学のときの知り合いが会いに来たり」
最悪でした、と呟く。
「いいじゃないか、たまには」
「彼らはいつか僕が元に戻ると思っている」
元、というのは事故に遭う前の、という意味だろうか。
この志月しか知らない晴にとって、これ以外は想像しがたいし、そこまで身内がこだわるのなら、前の志月というのは今とは全然違うのだろう。
順番が回ってきて、志月は診察室へ入った。
次に晴が花奈の家に行くと、志月は元気になっていた。
「ご迷惑をおかけしました」
けろりと言うと、箒を持って中庭の掃除を続ける。
着物は温かいのだそうだが襟元が寒そうで、しかし志月は鎖骨がきれいだ。
落ち葉を集める箒の先に、斑猫が飛びつこうとするのを、志月は閉じた口を笑みの形にしたまま、ひょいひょいとかわす。
「そういえば、おいしかったですか、河豚」
晴は顔を引きつらせた。
黒沢が約束を守った宴席は、晴にとってたいして思い出したくもない出来事だ。
「どうしておまえは来なかったんだ」
「どうしてと言われても。外でまで花奈とご飯を食べる理由がないからですが」
「黒沢さんはおまえの全快祝いを兼ねてのつもりだったぞ」
考えるような素振りのあと、
「あの人はいい人ですよねえ」
そのことに少しも価値を置いていない感じで、志月は言った。
今回のことで、黒沢の晴に対する評価は非常に上がった。
晴としてはこの家の住人には振り回されているとしか思えないのだが、黒沢の目には扱いの難しい花奈先生とうまく折り合いをつけている、というふうに見えたらしい。
志月の代わりだと、花奈が志月と同じ年頃の男を連れてきていて、鍋を囲む場が微妙な空気になりかけたのを、晴がなんとか取りなしたので、余計だ。
「それは聞いてないです。どんなやつでしたか」
「背が高くて内気そうな。名前は、ええと」
「清四郎?」
「そうだ。苗字は言わなかったな」
「溝端清四郎」
ふうん、と志月は呟いた。
志月の態度が変わったので、斑猫は離れた。
「征四郎を連れていったんだ」
そんなふうに志月が顔をしかめるのを、晴は初めて見た。
友達なのかと問うと、
「友達というか、待てと言われればいつまでも待っている犬というか。いや、まあ、友達なのかな、やっぱり」
という答えが返ってきた。
「お待たせぇ。晴ちゃん。イベントの日程、決まったんでしょおぅ」
縁側にいそいそと現れた花奈を、志月は睨んだ。
「あらあぁ。志月、怖い顔ぉ。
あ、そうだぁ。こないだ河豚食べに行ったとき、清四郎も来たのよぉ。志月も来たらよかったのにねぇぇ」
語尾が自分に向けられて、晴は慌てて否定の形に頭を振った。
志月は箒を放り出して縁側から座敷に上がると、襖が外れるのではないかという勢いで閉められた。
「さっ、晴ちゃん。打ち合わせしましょうかぁ」
その後の花奈の異様な上機嫌は、どうやら志月の不機嫌に起因するようだった。
途中お茶を持ってきた志月が口もきかないのが、心底楽しそうだった。
「先生、性格悪いですね…」
いつもよりぬるい気がするお茶を飲みながら晴が言うと、花奈は一層嬉しそうになった。
「晴ちゃん。女子の本懐は意地悪よぉ」
うふふふふ、と花奈は笑った。
帰るとき志月は家におらず、気になりつつも辞した晴は、込み入った細い路地が終わるあたりで向こうから来る羽織を羽織った志月と出くわした。
志月は晴を見ると、むくれたような顔をした。
「おまえ、なにをしてるんだ」
「気分転換」
子どもっぽい仕草でそっぽを向くのが年相応なのかもしれないが、いつも落ち着きはらっているので新鮮だ。
「気分が変わったようにも見えないが。駅まで一緒に歩くか」
「…歩きます」
どちらの歩が遅いのかわからないが、いつもなら二十分かからない道をゆっくりと歩いた。
志月は不機嫌と嬉しいのが交じり合った、複雑なのか単純なのか困るような様子で晴の隣にいた。
「意地悪は女子の本懐だと、先生は言ってたぞ」
志月は横目でちらりと晴を見た。
女子って…と、至極尤もなことを志月は呟いた。
「晴さん、清四郎と話をしました?」
「いや、先生がべったりだったからな」
背が高くてからだつきもしっかりしていたが、おとなしい印象で、もっとはっきり言えばおどおどしていた。
「やっぱり友達なんだろ」
志月は唇を噛んで、それからあまり話したくなさそうに話し出した。
「小中の同級生です。
気づいたらいじめられてて、それが目に入ると苛々するからなんとなく一緒にいたんですけど。
事故に遭ってから僕も人のことどころじゃなくなったので、自立してほしいと言ったんです」
それは一体どういう関係かと思ったが、晴はしばらく黙って聞いていようと思った。
「そうしたらいつの間にか花奈と付き合っているし」
一瞬前の気持ちは呆気なく消えた。
「付き合ってるのか。あれは、やっぱり」
確認したくはなかったが、せずにはいられない。
河豚の席を微妙な空気にさせたのは、ひょっとしてこのふたり…という疑惑のせいだった。
「ちょっと待て。正月旅行に行ったというのは、まさか彼か」
「あれは別の人とです」
そこにも突っ込みたかったが、志月はどうでもよさそうだった。
「なにがどうなって花奈と付き合いだしたのか、花奈に聞くのは嫌だし、清四郎に聞くのはそこだけしか関わりたくないっていうのは、さすがにあれかなと思うので、出来ないし」
「おまえの悩みとは思えないな」
それよりも花奈の自由すぎる恋愛模様について悩むべきだと思う。
「それで、なんだ、先生はおまえのその意外な悩みを知っていて、意地悪を仕掛けてくるのか」
「花奈は人の弱みが大好きですから。
ちょっと我慢すればいいだけですけど」
「おまえが? 我慢?」
「あの家を追い出されたら行くところがないから、仕方ないです」
晴は思わず息を飲んでしまった。
志月の弱気が思いのほか可愛いかったからで、遂に可愛いと思ってしまったことに、晴は激しく後悔した。
花奈が志月に意地悪するのも、志月が思っているような理由よりも、この様子を見たいからだろう。
気配を察したのか、志月が顔を傾ける。
「おまえが思ってるより、先生はおまえのことが好きだと思うぞ」
「それはそれで気持ち悪い」
強気だろうが弱きだろうが、志月は志月だ。
「ひとつ教えてやろうか、志月。
友達はなろうと思ってなるわけでも、やめようと思ってやめられるわけでもないから、おまえの悩みはくだらないんだよ。だから先生にからかわれるんだ」
志月が二度瞬きするのがはっきり見えた。
心なしか顔が赤い。
「志月?」
「初めて名前を呼ばれた」
「…そうか?」
そうかもしれない。つい呼んでしまった。
「もう一回」
「それは不自然だろう」
「じゃあ僕が晴さんて呼びかけるので」
どこの恋人同士だ。
「馬鹿なこと言ってるんじゃねえよ」
掌で額を叩くと、志月は今度ははっきりと赤くなった。
人通りのある場所でよかった、と晴は思った。
誰もいなければ、衝動的になにかしてしまったかもしれない。
「おまえもう帰れ」
次の通りを渡れば駅が見えてくる。
「ちゃんと帰れよ。寄り道せずに」
もう元通りの顔に戻った志月は、はい、と言った。