(1)
その一画は古い住宅街だ。
幅が狭くて車は入れない通りを、晴と黒沢は歩いていた。
彼方此方の庭先の紫陽花が目を楽しませてくれる時節で、目的の家の前にも大きな鉢があった。
辺りでも一際古いと思われる生垣と木の塀に囲まれた木造建築は、感じよく年月を重ねていて、どこか懐かしい。
格子戸の門は開け放されていて、斑猫が晴達を見て一声鳴いて泰然と出て行った。
髭面に手土産の洋菓子の箱が妙に似合う黒沢が、玄関横のブザーを押した。
かなり待ったが誰も出てこない。
ごめんくださいと呼びかけながら、黒沢が引き戸を開けた。
梅雨の晴れ間の陽光に慣れた目に、室内は薄暗い。
静まりかえっているが、留守にしてはあちこち開け放していて無用心だ。
それでもやはり留守なのか。
そう思わせるだけの時間のあと、ゆっくりと軽い足音が聞こえてきた。
「ああ、すみません。花奈がいると思っていました」
奥から現れた青年と呼ぶにはまだ子どもの気配が残る男は、淡い色の着物を着ていた。
晴は一瞬、レトロな家に幽霊でも現れたのかと思った。
黒沢も同様だったようで、口が空回りさせたあと、慌てて名刺を差し出した。
「出版社の方ですね。いらっしゃるのは聞いています」
ちらりと見て、名刺は受け取らない。
「先生は」
「お茶菓子を買いに行くと出て行ったんですけど。いないのなら、まだ戻ってきていないのかな」
どうぞ、と袂が揺れた。
後ろを向いた男が、素足にスリッパを履いているのに生活感を見て、これは生きている人間なのだと、晴はようやく信じた。
黒沢がそのタイミングで質問した。
「失礼ですが、あなたは先生の」
「甥です。志月と申します」
振り返って会釈した姿は、美人とタイトルにつく浮世絵を思い起こさせた。
通されたのは、庭に面した座敷だ。
一応携帯に電話してみると一旦下がった志月は、やはり出ないと戻ってきた。
作家の気まぐれには慣れている黒沢は、もう少し待たせてほしいと申し入れた。
「かまいませんよ。待ちきれなければ、お好きなときにお帰り下さい」
どうやら志月に客人の相手をするつもりはないようだった。
座卓に冷たい茶の入ったグラスを置いて、腰を上げる。
引き止めるように、黒沢が訊ねた。
「何度かこちらにはお邪魔しましたが、先生にこんな年の近い甥ごさんがいらっしゃるとは知りませんでした。志月さんは大学生で?」
「高校生です」
和装のせいで年齢がわかりにくかったせいもあるが、志月の落ち着きがそんな年だとは思わせず、黒沢ばかりか晴も驚いた。
「ええと、今日は学校は。試験休みかなにかですか」
余計な問いかけに志月が答えようとしたとき、ただいまぁと暢気な声がした。
ああ、帰ってきた、と志月が呟く。
「志月、水羊羹食べるぅ?」
喋りながら近づいてきた花奈は、座敷を覗いて客がいるのに気づいた。
志月は少し笑って、軽く頭を下げてから立ち上がった。
「家にいるはずの人が遅刻するなんて」
「いいお天気だからよぉ。毎年入梅が発表されたら、晴れの日が続くのはどうしてだと思うぅ?」
半袖のワンピースを着た花奈の横を、頭ひとつ背の高い志月が通り過ぎた。
「あ、ほら。志月、水羊羹」
「いらない」
「なによぅ。せっかくあんたの分も買ってきてあげたのにぃ」
「じゃあおいといて。あとでもらう」
志月がいなくなると、花奈は和菓子の箱を座卓の上に置いた。
「ひとつ残しておいてねぇ。志月の分」
黒沢がすっかり忘れていた洋菓子の箱を出すと、どちらを先に食べるべきか、花奈は真剣な顔で悩み出した。
高塔花奈は作家だ。
十代で賞を取り、映像化された作品も数多く根強いファンがいる。
と、同時に変わり者でも有名だ。
見た目はおっとしりたお嬢さん風だが、マイペース極まりない、と彼女を知る人は口を揃える。
自身の著作の翻訳出版についての具体的な説明を聞いているあいだ、花奈は上機嫌だった。
「そうねえ、じゃあ、私も企画の段階から関わりたいなぁ」
シュークリームのあとに水羊羹を食べ終えて、花奈は言った。
「関わる?」
黒田が聞き返す。
「翻訳する人に会ったりとか、向こうの出版社の人との打ち合わせに参加したりとか、本屋さんも見てみたいかなあ」
晴は内心、勘弁してくれ、と思った。
花奈が首を突っ込みたいのは、晴の仕事の領分だ。
晴は出版社の人間ではなく、翻訳本が出版される現地との調整を請け負っている。
現地でのイベント参加くらいならかまわないが、逐一花奈に首を突っ込まれてはやりにくい。
だが黒沢は身を乗り出した。
「その流れをまた本にまとめて出すとか!」
「写真とかもとっちゃおうかなぁ。
一週間に一回くらい、どんな感じなのか教えてくださいねぇ」
勿論です、と返事をしたのは黒沢だが、教えなければならないのは晴だ。
「二条君は大宮先生の海外出版のときにも関わってくれていて、実績ありますから頼りにして下さい」
ふうん、と花奈は目つきを変えた。
「大宮圭介? 私あいつ、嫌いなのよね」
「ええっ? 対談とかされてませんでしたか」
「最近嫌いになったのぉ。理由についてはノーコメントぉ」
意図せぬ流れになって、黒田は慌てて話題を切り替えた。
「そういえば先生! 甥ごさんと暮らされてたんですね! 存じ上げませんでした!」
花奈の眉間の皺が消え、うってかわって笑顔になった。
「見っちゃったのねえ。隠してたのにぃ。一年前から預かってるのぉ。親が海外赴任しちゃったからぁ」
この人に果たして保護者が務まるのかと、晴は思わずにはいられなかった。
「今度甥ごさんとの生活を書かれてみては」
「隠してるって言ったでしょうぉ? 志月のことは書かないのぉ」
「それはまたどうして」
「書くなって言われてるからぁ。怒ったら怖いのよ、あの子ぉ。それにご飯も作るのやめるって言われてるしぃ」
「ご飯作ってもらってるんですか?」
「そうなの。美味しいのよ、これがぁ」
そのあと花奈は、志月の作るものがいかにすごいかを延々と語った。
週に一度の定期報告は大袈裟で、なにか進展があったときだけ連絡を入れればいいのだろうという晴の思惑は、見事に外れた。
本当に週一で連絡しないと、「連絡がない」と言ってくるのだ。
晴に直接ならばいいが、黒沢にされるとクレームと取られ差し障りがある。
しかも直接来いと言う。
そのくせ行けばいない。
資料をボストに入れておくのも駄目で、こうなるとパワハラの域だが、よくある、とまでは言いたくないが、晴のような仕事をしていればたまにあることなので、仕方なく空振りの訪問を繰り返していると、同情されたのか志月が取り合ってくれるようになった。
最初のうちはあの叔母にして、と言うべきか、家にいても自分に関係ないと思えば出ても来ず、晴は誰にも会えずに帰っていたのが、一応応対してくれるようになったという程度から始まり「執筆中で話しかけても返事をしない」「ふらりと出て行って帰ってこない」「誰とも会いたくないと言っている」などと何度か玄関先で追い返しているうちに、、それでは晴が花奈に会えないままだと気づいたらしい。
「電話しましょうか? 花奈の機嫌の良さそうなときに」
ようやくそう言ってくれたときには、ほっとした。
「志月は二条さんには甘いのねえ」
なんとか会って書斎で現状を報告している最中に、花奈はつまらなさそうに空を見つめた。
「花奈。二条さんは花奈みたいに暇じゃないんだよ」
「私だって暇じゃないわよお」
お茶を出す志月に、花奈は口を尖らせた。
そろそろ晴も気づいていたが、志月はいつでも家にいる。
学校に言っている気配はなかった。
「じゃあまた来週。会えるかなあ?」
へらへらと笑う花奈に対して、怒りをこらえた晴は自分を誉めたが、玄関を出たところで
「じゃあまた来週」
と志月にも声をかけられた。
左を大きく覗き込むと庭が見え、志月は縁側に腰掛けていた。
顔などはそう似ていないが、このふたりは間違いなく血縁だ。
小道に出たところで携帯が鳴った。
「どうして無視するんですか」
表示を見なくても、志月の声は覚えた。
「してない」
「黙って帰ったじゃないですか」
言い方によっては鬱陶しく聞こえるだろうが、志月は淡々と話すので気にならない。
「ああ、じゃあ、はい、さようなら」
「冷たいなあ」
笑いながら電話が切れて、切れたと思った途端急に寂しくなったことに、晴は少し焦った。
花奈に関係なく、少しずつ志月からのメールや電話が増えていた。
勘がいいのか、偶然なのか、忙しい晴の僅かに出来た時間にそれらは届く。
「仕事中よ、二条」
橘に窘められて、通話を終えた晴は「仕事だ」と返した。
「随分と楽しそうだったけど」
そういう橘は窓際で悠々と煙草を吸っている。
実質的には晴の共同経営者である橘は、スタッフ六名の事務所で唯一の喫煙者で、晴の前では遠慮なく煙を吐く。
「いいわね。次々お相手が見つかって」
今更橘の当てこすりにむっとするものでもなく、晴は携帯を机の上に置いた。
「例の先生の関係者だ」
「出会いってどこで待っているかわからないのね」
「しつこい。高校生だぞ」
橘は形のいい眉を寄せた。
「節操のない」
「だから違う」
小さく開けた窓の隙間にわざとらしく煙を吐く橘に、これ以上はむきになっているようで同じことは言えなかった。
橘とは学生のときからの付き合いで、お互い手の内がわかりすぎている。
例えば、晴は女性に興味を持ったことがなくて、三年付き合った相手と最近別れたとか、橘は十年以上不毛な片思いをしているとか、そんなことを当たり前に知っている。
「しょうもない大人になったなあ、俺達」
「一緒にしないでよ」
アシスタントが来客を告げにきて、ぶつぶつ言いながら橘はパーティションの向こうに行った。
ひとりになってから、晴は口元を手で覆った。
そんなに浮かれていただろうか。
花奈は今週いくつか締め切りを抱えていて、忙しいから来ても会えないと言っている、と実に勝手なことを志月は伝えてきたのだが、晴も明日から現地に行くので丁度いい。
すると志月が言ったのだ。
いつもの特に感情を込めない言い方で。
「ああ、さみしいですね」
不覚にもここで心拍数が上がった。
さみしいな、だったら流しただろう。
志月だけがさみしいのか、晴だけがさみしいとか、それともふたりともなのか。
どうとでも取れる曖昧さは逆に、深い意味などないだろう。
確かに自分は節操がないかもしれないが、まだ特に意識しているわけではない。
晴は花奈よりふたつばかり年下で、倍とは言わないが志月は充分に子どもに見える。
「あれは駄目だろ。いくらなんでも」
軽く頭を振って、仕事へと頭を切り替えた。
数日の出張を終え帰国した翌日、晴は花奈から直接電話を受けた。
「出張報告しにきてね」
「締め切りでお忙しいと聞いてますが」
「だから気分転換したいのぉ!」
今すぐ来いというのを、とりあえず翌日で納得させた。
元々行くつもりではあったので、予定内だ。
翌日、駅前のコインパーキングに車を停めた晴は、すっかり慣れた道を歩いて「先生」の家に向かった。
「二条さん」
声をかけられたのは、入り組んだ小道に入る手前だ。
振り向いて、少しだけ混乱した。
和装以外の志月を見るのは初めてだった。
胸ポケットに校章の刺繍が入ったブレザーに、グレーのズボンは、どう見ても制服だ。
本当に学校に行っていたのか、と思ったのが顔に出たのか、志月は笑った。
「追試を受けに学校に行ってたんです。中間考査を受けていなかったので」
「おまえ、出席日数足りてるのか?」
「診断書が出てますから」
医師の、と志月は付け加えた。
「どこが悪いんだ」
勢いで立ち入ったことを聞いた晴に対し、志月は視線を上にして、それからまた笑った。
「交通事故に遭ってから、調子が出なくて」
「交通事故?」
「歩道を歩いていたら、バンが突っ込んできたんです。三メートル跳ね飛ばされました」
想像して絶句する晴に「案外死なないものですね」と志月は他人事のようだった。
「今日、いらっしゃる予定でしたっけ」
「先生に呼び出された」
並んで歩いていた志月は、晴とほぼ身長が変わらないので、視線を少し動かすだけで表情がわかる。
志月は顔をしかめていた。
「花奈の勝手に全部付き合う必要はないですよ」
「まあ、仕事だしな」
志月が頭を動かして、不服そうに辰巳を見た。
それきり口を開かないので、晴は焦った。
突然不機嫌になったが、原因がわからないし、黙られてみて、これまで志月は楽しそうに話してくれていたのだと気づいた。
結局家に着くまで、志月は無言で、この上花奈まで愛想がなければいたたまれないところだったが、花奈はいつになく上機嫌だった。
いつもはすぐに出てくる志月のお茶が随分と遅く、それもぞんざいに出されたのを見て、さらににこにことしだした。
「あららぁ。君達、喧嘩したのかなぁ」
「するわけないでしょう。でもなにか怒らせたようで」
睡眠不足なのか目の下に隈を作った花奈は、晴に志月とのやりとりを詳細に再現させると、さらに笑みを深くした。
「なあるほどぉ」
語尾を延ばす喋り方が、今日は妙に癇に障った。
「もったいぶるの、止めてもらえませんか」
「あらぁ、ごめんなさいぃ。そうねぇ。二条さんは悪くないんじゃないかしらぁ。志月が勝手に拗ねただけでぇ」
「拗ねる?」
「これまでうちへ来るのに、さんざん世話になっておきながらぁ、今日に限って花奈ちゃんから電話があったからって無視されてぇ、志月は面白くなかったんじゃなあい?」
辰巳は花奈の言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「そう気にすることないわぁ。志月はああ見えてわがままだから、取り合っていたらきりがないわぁ」
志月も先程、花奈のことをそう言っていたなと思った。
だがいつも何気なく晴の帰り際に姿を見せる志月が、今日は出てこない。
このまま帰っていいものか判断しかねていると、花奈が志月の部屋の位置を教えてくれた。
「やる気が出てきたから、私はお仕事するわぁ。志月におやつ持ってきてって、言ってちょうだいねぇ」
二階の志月にまで聞こえているのではないかというくらい、大きな声だった。
ノックをしても反応がなければどうしようと思ったが、返事はあった。
「入るぞ」
駄目だと言われる前に入った。
まず目に入ったのは脱ぎ散らかされた制服で、志月は肌布団を頭から被ってベッドに寝ていた。
布団を引っばった腕と一緒に寝間着であろう浴衣の袖が見えて、下着のみでないことに、晴は内心ほっとした。
「ええと、帰るんだが」
「そうですか」
布団のなかからくぐもった返事があった。
「おまえ、なにか怒ってる?」
「いいえ」
「それなら顔くらい出してもいいと思うんだが」
さらに布団を引っばろうとした手を、そうはさせじと押さえて、その冷たさに驚いた。
秋とはいえ昼間はそこそこの陽気なのに、布団を被っているのは、避けられているからだと思っていたが、違うのかもしれない。
「おまえ、寒いのか?」
手首を掴んで首まで布団を下げると、白いのを通り越して、顔色が蒼白だった。
思わず額に掌をあてたが、熱はない。
「寝てたら治るからほうっておいてください」
最後のほうが聞き取れないくらい辛そうだ。
「花奈先生を呼んでくる」
「だから大丈夫です」
今度は逆に手首を掴まれた。
掌までじっとり冷たい汗をかいている。
「時々なるんです。医者は気の問題だと言うから、そうなんでしょう。だから大丈夫です」
丸めた背中が痛々しくてさすってやろうと手を置くと、志月が視線だけ晴に動かした。
嫌がられたかとひやりとしたが、一度瞬きをして目蓋が閉じられた。
「そのままでいてください」
手を引こうとすると、咎めるようにとめられた。
「気持ちいいから、そのままでいてください」
邪気があったわけではないのだが、そう言われると意識する。
志月は晴の嗜好を知っているのか、志月自身はどうなのか、晴にはさっばりわからなかった。
常ならば大体わかる。
その気のない相手を振り向かせるのが好きな者もいるが、晴はしない。
相手の生理的嫌悪を押してまで、通したい気持ちはないし、晴自身がどんなに頼まれても女は駄目なのだから、それはエゴだ。
肩甲骨の感触や、はだけているようで見えない鎖骨より下のほうとか、気にすると気になる。
志月は具合が悪いのだし、とりあえず余計なことは考えるなと自制心を総動員していると、寝息が聞こえてきた。
顔色はいくらか戻っている。
なんなのだろう、志月にとって自分のこのポジションは。
気楽に接することのできるお兄さんといったところか。花奈の年齢に近いことを思えば、おじさんかもしれない。
自虐的になってきたので、晴は考えるのをやめた。
心配なさそうだが、一応花奈に声をかけておこうと志月の部屋を出ると、花奈が階段の途中に座り、膝の上にノートパソコンを乗せてカタカタとタイピングしていた。
「なにしてるんですか」
「花奈ちゃん、これ以上締め切り伸ばせなくて大変なのよぅ。志月は大丈夫そう?」
「本人はそう言っていたし、今眠ってますが」
「そう。じゃあちょっと様子見てこようかなぁ」
いいわよね? とノートパソコンの蓋を閉じた花奈に下から顔を覗き込まれ、邪推されるようなこともないので晴は知らないふりをした。
花奈は晴の嗜好を承知していると確信したが、肯定する筋合いもない。
「あれは貧血ですか?」
「うーん、なんだろ。事故の後遺症かなぁ」
「車に跳ね飛ばされたっていう?」
「あらぁ、ご存知。志月のお腹の傷痕見たぁ?」
「見るわけないでしょう」
「内蔵を少し失くしたの。そのとき。でも手術は成功してるし、日常過ごすのになんの問題もない。はずなんだけどねぇ」
平然と聞いていいのか、晴は困った。
花奈が語るのがどの程度のことなのか、わからない。
「というわけなので、志月をよろしくぅ」
花奈が芝居がかった動きで頭を下げた。
「いや、だからだな」
「わかってるわよぅ。うまくいかなくっても、それも志月にはまたお勉強ってことだしぃ」
勝手に締めくくると、花奈は志月の様子を見に行った。
翌日気になって、夜電話を入れた。
打ち合わせを兼ねた食事の合間にかけたのだが、呼び出し音が途切れて志月が電話に出て、晴が名乗ったあとたっぷり数秒置いて無言で切られた。
嫌がられた、というより、かけ直すのを見越したような絶妙の間合いだった。
考えるより先にリダイヤルしかけたところに、打ち合わせ相手が呼びに来た。
次に携帯を見ることが出来たのは深夜になってから、帰りのタクシーのなかだったので、電話は諦めた。
翌日は忙しくて、何度か思い出したがとても連絡できなかった。
翌々日、花奈に用はなかったが、たまたま最寄り駅の一駅手前まで出向いたので、用件を片付けてから遅い昼食を取るために入った店から電話した。
「どうして電話くれないんですか」
晴がなにか言う前にこうだ。
「してるだろう」
「もっと早くするべきでしょう」
「しただろう。おまえが切っただけで」
志月の悔しそうな表情が目に浮かぶようだった。
「おまえ、段々本性が出てきたな。まあいい。元気そうだし」
「 元気じゃなかったら、どうなんですか」
「近くまで来てるから、見舞いに行こうかと思ったんだよ」
志月が黙ったので、また切られるかと思ったが、違った。
「どこにいるんですか?」
駅名と今から昼を食べるのだと教えた。
「じゃあ、すぐ行きますから」
脈絡がわからない。
「おまえが着く頃には、俺は店を出る時間だから」
だから来なくていい、というつもりは、志月には通じなかった。
「だから、すぐ行きます」
いつもの和装ならば、さぞかし目立つだろうと思ったが、志月は長袖シャツにジーンズという実に普通の格好で現れた。
「そんな服も持っているんだ」
「当たり前でしょう」
道が混んでいたので、途中でタクシーを降りて走ってきたという志月は、肩で息をしていた。
顔色はいいから、大丈夫だろうと晴は判断した。
食事はとうに終えて、二杯目のコーヒーを飲んでいた晴がメニューを渡すと、志月はアイスティーを頼んだ。
ウェイトレスの女の子が、オーダーを聞く合間にちらちらと志月の顔を見ていた。
晴はもう当たり前になったが、志月の顔はやはり整っている。
志月のほうは気にする様子もなく、来たときから晴を睨みつけていた。
自意識過剰をあえて無視してもっと適切に言うなら、晴を見つめていた。
「どうして電話くれないんですか」
「まだ言うか。一日しか空いてないだろう」
だがそういえば、志月の声を聞かない日は、この間海外にいたとき以外なかったし、それまでの電話は全部、志月からだった。
「おまえからしてこいよ」
「用もないのに」
いつもの電話のほとんどは、何時の間にやら用など関係なしになっていたが。
「じゃあ今日おまえがここに来た用件は?」
「会いたかっただけです」
コーヒーカップを落としそうになった。
晴にとっては折りよく橘から電話が入って、どう受け取っていいのか不明な発言に対して、舌をもつれさせなくてすんだ。
次の予定は橘に同行するので、その確認をされているあいだに、アイスティーが運ばれてきた。
紙のコースターの下に、小さな紙切れが置かれるのを、橘と話しながら晴は見ていた。
伝票のはずはなく、オーダーを取ったのと同じ女の子は志月に目配せした。
「忙しいんですね」
電話を切った晴に、志月は言った。
「二条さんていつ休みなんですか」
「仕事の合間だな」
ここ数ヶ月事前に予定して一日休みだったことはないし、橘も同じだ。
だから平日の真っ昼間に、最早仕事と言い訳し辛い志月と会っていることも可能だ。
「仕事が好きなんですか」
「仕事は仕事だ。自由業だからな。暇より忙しいほうがいい」
「サラリーマンになろうと思わなかったんですか」
「思わなかった。向かない」
「それはゲイだからですか?」
晴は言葉を失った。
ある程度親しくなった相手に、それとなくそうなのかと聞かれることはあるが、こんなに面と向かっては初めてだ。
「おまえ、いや、まあ、そうなんだが。なんでそんなことを」
「花奈が言っていたから」
花奈に知られているのはわかっていたが、
「それをおまえに言うか!」
「僕が二条さんの話ばかりしていたからじゃないですか?」
晴は頭を抱えたくなった。
「ひとつ確かめておきたいんだか、おまえ俺をからかってるんじゃないよな」
「はい」
即答されるとかえって疑いたくなるが、志月は大真面目なようだった。
「もういい。それよりそれ、気になるんだが」
コースターの下の紙切れを目線で示す。
ああ、と志月はつまらなそうに頷いた。
「メアドか番号かだと思いますけど」
自分は見ないで、晴に開いて見せる。
「両方だな」
そうですか、と片手で畳んでまたコースターの下に敷く。
「取り合っていたらきりがない」
素っ気なく言い放つ志月に、晴はいくらか冷めた気分になった。
今では変わっている部分に気が行って、志月の見た目にあまり関心が向かないが、客観的に見ればやはり綺麗だ。
随分と年下の、そんな相手に振り回されるのも情けない。
「二条さん」
「なんだ」
もう勘弁してくれ、とは意地で言わなかった。
「普通に好きと、恋愛感情ってどう違うんですか」
そら来た、と思える程度に晴は志月に慣れてきた。
「そんなこと、自分が女の子を好きになったときのことを思い出せ」
「ないからわからない」
「あるだろ!」
志月が首を捻った。
「好きになられたから好きになるとか」
「それはありえないでしょう。二条さんはあるんですか」
それもありだろうと思うが、なぜこんな話をしているのか、晴は本当に頭を抱えた。
「おまえの質問に手っ取り早く答えると、普通に好きと恋愛の違いは、触りたいと思うかどうかだ」
「普通に好きでも触ったりするでしょう」
「おまえ、そこまで子どもか」
目を泳がせたあと、ああ、と志月は頷いた。
「ああ、はい。わかりました」
本当にわかったのか甚だ疑わしい。
不毛なやりとりを打ち切って、晴は伝票を掴んで立ち上がった。
志月が貰った紙切れをそのままにしてきたので、余計なトラブルを避けるため、晴が会計しているあいだ、先に店の外に出した。
ガラス貼りのドアの向こうに立つ志月とすれ違う人の何人かが、振り返ってこの生活感のない生き物を眺めていた。
「ひとりで帰れるな」
途中で気分か悪くなられては困るので尋ねたが、志月は心ここにあらずといった感じで頷いてから口を開いた。
「触ってほしいと思うのも、恋愛感情?」
晴はここまでかなり我慢をしていた。
だから多分我慢の限界に達して、怒りに近いなにかが振り切れたのだろう。
志月の手首を掴むと、雑居ビルの隙間に引っ張り込んだ。
志月の足が古びた看板に当たって大きな音を立てたが、さらに引っ張ったのは、労わるためではない。
ガラス玉のような瞳が丸くなるのを途中まで見て、晴は目を閉じて唇を重ねた。
驚きの言葉を発しようと開いた唇のあいだに、舌を差し込んですぐ解放した。
よろけて壁に肩をぶつけた姿に、ようやく晴の溜飲が下がった。
「今みたいなのに抵抗がなければ、好きってことだよ」
志月は丸くした目を逸らせもせず、ああ、と呟いた。
「ああ、はい。わかりました」
動かないので、今度は通りに出るために腕を取ろうとすると、信じられないことが起こった。
晴の腕に逆に手を添えた志月が、晴に抱きついたかと思うと、いきなりキスされた。
こいつは学習能力が高い、と思わせられたのは、晴がしたのと同じように舌を入れてきたからだ。
今度は晴が目を見張る番だった。
なにをしたらいいのかわからない。
というよりも、なにもするなと理性が警告している。
これはまずい。洒落にならない。起こりうるすべての可能性に責任がとれない。
バニック寸前の晴から離れると、志月は特に感情を乱した様子もなく言った。
「じゃあ、好きです」
なにががどうして、じゃあ、が好きにつながるのか。
晴の疑問に気付いたのか、志月は説明した。
「されてもしても嫌じゃなかったので、普通以上に好きってことですよね」
「ね、って聞くな」
許されるなら座り込んでしまいたかったが、携帯が鳴った。
橘だ。
出ているあいだに、志月は軽く会釈をして行ってしまった。
引き止める間もない。
「もしもし、二条。どうかした?」
「いや、別に」
連絡事項を聞きながら通りに出ると、もう志月の背中も見えなかった。