育休終了
「困ったわねえ」
「そうだなあ」
リビングの真ん中ですやすやと昼寝するお嬢さまを眺めて、マリューとフラガはため息をついた。
お嬢さまは非常にお元気で、すくすくと育っている。ではなにが困ったかと言えば、保育所がどうしても見つからないのだ。
そろそろ育児休暇の期限が切れるのに、お嬢さまを預けることが出来ないと、フラガの職場復帰が出来ない。
「こんなに待機児童が多いなんて思わなかったわ」
「元々保育所の少ない地域なんだよな」
「AA学園に保育所があればいいのだけれど」
「ないもんはしょうがないわな」
気楽な様子のフラガにも、マリューはため息をつく。
どうやらフラガはこのまま主夫をしてもいいと思っているようなのだが、マリューとしては教職に復帰してもらいたい。大雑把なところもあるが、良い教師だと思うのだ。フラガは。
「なんとかならないかしらねえ」
マリューが呟いたとき、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
マリューが立つより先にフラガがインターホンを取り、次いで、げ、と顔を歪めた。
「どなた?」
その表情でわかってしまっていたのだが、一応マリューは問う。そしてフラガは答えた。
「クルーゼのヤロー」
「やあやあ、茶などは結構だ」
玄関の鍵は開けてやらなかったのに、どうやってかクルーゼはリビングに現れた。
「おお、これはまた寝顔までもマリュー先生に似て愛らしい」
これまた勝手にお嬢さまの顔を覗き込む。
てめえ、マリューの寝顔見たことねえだろ!
といつものようにフラガが心中で突っ込んでいると、お嬢さまがぱちりと目を開けた。そしていきなりむんずとクルーゼのサングラスを掴む。
「おおっ! 止めろ!」
「おおっ! いいぞ!」
仰け反ってサングラスを押さえ、クルーゼは危ういところで素顔を晒さずにすんだ。
「ちっ! 惜しい!」
舌打ちと共に、フラガはお嬢さまを抱きかかえてマリューに渡した。クルーゼで遊ぶ気満々のお嬢さまは不服そうに唸ったが、マリューに窘められておとなしくなった。
「なんと…刺激的なところもマリュー先生そっくりだ」
ぜいぜいと息を吐きながら、クルーゼは乱れた髪を直す。
「うるせーんだよ。そんでなにしに来たんだよ、てめー」
「まあ、そんな言い方。あなたに会いにいらしたんでしょ。クルーゼさん。こちらにどうぞお座りになって」
「いやいや、私はマリュー先生のご尊顔を拝しに来たのですがね」
マリューが勧めたソファに、クルーゼはふんぞり返って座る。いらない、と言われたお茶も、粗茶ですが、とマリューはちゃんと出す。
「ところでムウ。おまえの育児休暇はそろそろ終わりになるはずだが、復帰についてまだ事務課に連絡していないそうだな。どうせ保育所が見つからないのであろう」
まさに現在一番の問題を宿敵に持ち出されて、フラガの不機嫌度は上がる。
「てめえには関係ねえよ!」
「ふっ。ひょっとすると私の娘になるかもしれない子どものことだ。大いに関係するな」
「なーにーがーどうなったら、うちの子がてめえの娘になるんだよっ!」
フラガはクルーゼの首に手をかけて、がくがくと揺さぶる。
「止めろっ、ムウ! 私は朗報をもたらしてやりに来たのぞ!」
「なにが朗報だっ! この疫病神っ!」
「この私にそんな口をきいていいのか! AA学園保育所に入れてやらんぞ!」
「…なに?」
フラガは思わず手を緩めた。
AA学園保育所?
「こ、このたび我がAA学園は、保育所を新設することになったのだ。教職員の子どもは優先的に入所出来ることになっている」
げほげほと咳き込みながら、クルーゼが説明する。
「んなこと聞いてねえぞ」
クルーゼは前髪をさっと手で払った。
「ふっ。この計画は秘密裡に進められていたのだ。既に来月開所に向けて、着々と準備されている」
なんのために秘密裡なんだよ、とクルーゼの頭をごつんと殴ろうとしたフラガを、マリューが止めた。
「まあ、よかったじゃない。ムウ。これであなた、仕事に復帰出来るわ。クルーゼさん、わざわざ教えに来てくださって、ありがとうございます」
「いやいや、マリュー先生に喜んでいただけて、私も嬉しく思います」
だからマリューの手を握るなっつーの! とフラガはじたばたした。
しばし後、クルーゼが残していったAA学園附属保育所のパンフレットを、フラガとマリューは眺めていた。
なかなか充実した内容で、大事な子どもを長時間預ける親としては申し分ない。高等部とも近いので、預けるのも迎えに行くのも楽なのがまた助かる。
「…クルーゼさん、やっぱりあなたのことが好きなのね」
「へ?」
入所願書に記入していたフラガは、書き損じそうになって、慌ててペンを願書から離した。
「だって、あなたを復帰させるために、この保育所を作ったとしか思えないもの。そこまでしてあなたに学園に戻ってきて欲しいのね」
悪寒を感じて、フラガは両腕を抱いた。
「いや、きっとまたなんか悪巧みをしているに違いない」
「そうかしら。だとしても、やっぱりあなたと喧嘩したいのじゃないかしら。喧嘩するほど仲がいいって言うけれど、あなたたちはまさしくそれね」
マリューは微笑む。
言われてみればそのような気もしてきて、フラガは慌てて頭を振った。
「…止めてくれ、マリュー。頼むから」
ながーくふかーい因縁で結ばれたフラガとクルーゼ。だが絶対仲良しにだけにはなりたくない、と心から思うフラガだった。