称号返還
八月ももう終わりだというのに、相変わらず暑い。
大人はクーラーのきいた部屋でひっくり返っていたい気温だが、子どもはいつだって遊びたい。
公園に行って熱中症になるのを心配するよりも、とフラガ先生んちでは今年ビニールプールが導入され、非常に活用されていた。
きゃっきゃっきゃっ、と赤ちゃんに逆戻りしたような歓声を上げ、今日も元気にフラガ先生んちの
お嬢さまはビニールプールに浸かっている。
元々はお風呂セットの小さなじょうろがお気に入りで、パパにちょろちょろと肩にかけてもらい大満足だ。
「可愛いよなあ。子どもは」
庭先に出した、デッキチェアに座ったカガリが呟いた。ちなみにそこはマリューがいればマリューの指定席。
「可愛いだろ。うちの子は」
カガリの発言とは、微妙に意図の違うことをフラガが言うと、自分のことだとわかったのか、素早く子どもが右手を挙げた。
いつもははだかんぼでする水浴びだが、今日はお客さんがいるので赤い水着を着せている。
七月の終わりにマリューの休暇に合わせて、ヴァカンスに出かけたときの水着だ。来年も着られるようにと大きいのを選んだので、肩紐がずり落ちてきて、既にほとんどはだかんぼなのだが。
「あんたみたいなおちゃらけた人間が、こうしてまともに家庭を持っているなんて、世の中は私にはわからんことでいっぱいだ」
「そうだろうなあ。世の中には世間知らずのお嬢ちゃんが知らないことが、山ほどあると思うよ」
またもやわざと意図をずらせられ、今度はカガリは眉を吊り上げた。
「おまえってホント、ヤなやつだよなっ!」
「んじゃそのヤなやつの家になんで来んのよ」
「マリューさんがいるかと思ったんだよっ!」
生憎マリューは研究会のために、よその大学にお出かけだ。
「んじゃ、マリューのいるときに出直してくれば」
フラガの提案に、カガリは俯いた。
「…まあ、おまえでもいい」
「はあ」
偉大なる教育家、ウズミ・ナラ・アスハの一人娘カガリ・ユラ・アスハは、実は天才少年キラ・ヤマトの双子のきょうだいで、そのことが明らかになるまでには、あれやこれやそれやの大騒ぎがあったのだが、もう過去の話だ。
思い詰める質のキラと、天真爛漫すぎるカガリと足して2で割ったら、ちょうど良さ気な人間になるのに、なかなかうまくいかんもんだねえ。と、フラガは無責任なことを考えながら、
「なんか相談事?」
とカガリに訊ねた。
「…まあ、そうだ」
「なに?」
しばし言い淀んだカガリだが、やがて思い切ったのか顔を上げた。
「おまえ、アスランが病気だと聞いているか?」
「へ?」
意外な問いかけに、フラガは思わずまともに考えてしまうが、数日前にバルトフェルドの店で会ったアスランは、笑顔のダコスタくんにこき使われてはいたが、健康そのものに見えた。
趣味に偏りまくりのあの店は意外に流行っていて、アスランはアルバイトとして働いている。ちなみにアスラン目当ての女の子が通ってくるようになったので、益々繁盛しているらしい。
「いーや。元気いっぱいだろ、あいつは」
「いや。絶対病気だっ! 病気に違いないんだっ!」
「んなこと、俺に聞くより、キラに聞いたら? あっちが親友なんだから」
「キラにも聞いたが、そんなことはないと言っていた」
「だったら」
「違うっ! アスランは絶対病気なんだっ!」
「して、その根拠は」
それまでフラガに噛みつかんばかりだったカガリの勢いが急に削がれ、また俯いてしまう。
「お嬢ちゃん?」
じょうろの水が途切れて、お嬢さまから抗議されたフラガは、プールの水をすくってじょうろに入れてから、またかけてやる。
「…なんだ」
「は?」
満足の意を伝える子どもの声と、カガリのぼそりとした声が重なって聞き取れなかった。
「なんだって?」
カガリはきっ、となって勢いよく顔を上げた。
「あいつ、この私と同じ部屋にいるのに、ずっとなんにもしないんだっ!」
フラガは思わずじょうろをプールに落としてしまい、お嬢さまに怒られたが、カガリは気にも留めずに続ける。
「だからアスランはきっと病気なんだっ! そうに決まってるっ! なあ、そうだろうっ!」
フラガの頭がくらっとしたのは、おそらく太陽のせいではなかろう。
アスランがフラガにカガリが部屋に居ついて困る、と相談に来たのはいつのことだっただろう。確か目の前のこの子をずっと抱っこしていた頃だから、一年は前だ。
アスラン、おまえ…すごいヤツだ。
そう思いつつ、長年つきまとってきた「二ヶ月据え膳を我慢した男」の称号がもうすぐ取れることに、心のなかでガッツポーズした。
一年据え膳を我慢した男。アスラン・ザラ。
いや、ひょっとすると記録は更新されるかもしれない。
「やっぱりおまえじゃ話にならんっ! マリューさんにまた来ると言っといてくれっ!」
「ほーい」
一体マリューはこの相談事にどう道を示してやるのだろう。
マリュー先生の天然ぶりも並みではなかった、と昔のことを思い出してフラガは思う。
肩をいからせて帰っていくカガリの背中を見送っていると、またじょうろの水が途切れてお嬢さまに怒られた。