フラガ家の日常
「ただいまー」
調味料を買い忘れ、急遽近くのコンビニに走ったフラガは、玄関に入るなり異様な気配を感じて立ち止まった。
「こ、これは…!」
眉間にぴきーん!ときて、慌てて靴を脱ぎ捨てリビングにダッシュする。
「マリュー!」
ばんっ、と扉を開けると、そこには談笑中のマリューがいる。自宅だというのに、きちんと身なりを整えて、今日も綺麗な彼の奥さんだ。
「あ、ムウ。おかえりなさい」
にっこり笑って迎えてくれるのはいい。それはいい。ムウ・ラ・フラガの生きる糧だ。しかし問題は、マリューと同じくらい大事な赤ちゃんの座っている場所。
「なんだ。帰ってきたのか。失踪でもすればよいものを」
「貴様、クルーゼっ! うちのリビングでなにしてるんだっ!」
ふっ、と指でサングラスを押し上げるクルーゼ。
「浅からぬ縁で私と結ばれている子どもの顔を見に。いや、マリュー先生に似て、実に愛らしい」
そして膝の上の赤ちゃんの頭を撫でるクルーゼ。赤ちゃんも上機嫌だ。
「止めろ! 触るな! 病気になったらどうするんだ!」
我が子を取り戻さんと、身を乗り出したフラガだったが、クルーゼは腕にすっぽりくるんで抱き上げてしまう。きゃっ、きゃっ、と笑う赤ちゃんの、誰に対しても人見知りしない愛想の良さが、今日に限っては恨めしい。
「クルーゼさんは子ども好きでいらっしゃるのね」
「はっはっはっ。マリュー先生の子どもならば、百人でも二百人でもお世話できますぞ」
「あら、そんなに産めませんわ」
…こら、マリュー。なにをにこやかにクルーゼなんぞと会話してるんだ。
フラガがじとっと睨んでいると、マリューはようやくフラガの様子がいつもと違うことに気づいた。
「嫌だわ、ムウ。なんて顔してるの」
両手でフラガの頬を挟んで、笑顔、笑顔、と口の端を上に向けようとする。
「いやいや、マリュー先生。私とムウは因縁の仲ですからな。無理もありません。では、これにて私は失礼しよう」
クルーゼはソファからすっと立ち上がり、身を翻した。
「待ちやがれ。置いてけ」
「は? なんのことかな?」
「てめえの腕のなかのうちの子だよ!」
赤ちゃんが無邪気に、クルーゼのサングラスに向かい手を伸ばす。
「あら」
さすがにマリューが慌てて、クルーゼの腕から赤ちゃんを引き取った。
「いやあ、ついうっかりしてしまったかな」
はっはっはっ、とわざとらしいクルーゼの笑いが、フラガ家のリビングに響く。フラガはクルーゼの襟首を掴んで、ぐぐぐっと顔を近づけた。
「てめえ、一回埋めてやろうか」
「なにを物騒な。フレイが一人前になり、私もいろいろ寂しいのだよ。ひとりの夜にはふと、そろそろ結婚でもしようかなー、などと思ったりしたりしてな」
誰とするのだ。ひょっとしてマリューに抱かれている赤ちゃんとか?
「結婚してるだろーがっ! てめえはよっ! 行方不明のフレイの母親、一体どこにいるんだよっ!」
「旅行中だ」
「何年旅行してんだよっ!」
「ふっ…永遠かな」
何故だか照れるように前髪をかき上げたクルーゼに、不覚にもフラガの背筋に冷たいものが走った。
こいつ、絶対犯罪犯してる…
なんとかクルーゼを追い出し、再度入ってこられないよう扉を背中で押さえながら、フラガはほっと息を吐く。
その姿を見たマリューが、しみじみ呟いた。
「ムウは本当にクルーゼさんと仲がいいのねえ」
「…マリュー」
フラガは泣きたくなってきた。
「だって、なんだかんだとクルーゼさん、あなたのいるときに、よくうちに来るじゃない。やっぱり血は水より濃し、血縁って強いのよねえ」
そんな強さ、いらない。
心底そう思う。
「俺の家族はマリューとこの子だけだから!」
むきになって怒鳴ると、フラガの複雑な家庭を知っているマリューは、それ以上は言わない。
クルーゼはともかく、アル・ダ・フラガが真実箸にも棒にもかからない、ジコチュー人間だということは、最早マリューも嫌というほど知っている。
「じゃあ、家族水入らずでお茶の時間にしましょうか。ケーキを出してくるわね。勿論赤ちゃんはミルクだけど」
甘党フラガの機嫌が途端に良くなる。
「え、ケーキがあるの?」
「ええ。クルーゼさんから頂いたの」
一瞬、毒でも入ってないかと疑うと、マリューはにっこり微笑んだ。
「大丈夫よ。私とムウはなんでも半分こするってクルーゼさんにお話したら、慌てて持ってこられたのを捨てて、買い替えに行かれてたから」
…やっぱり毒入りだったのか。
なにもかもどうでもいい気分になりそうだ。
「…マリュー、ごめんな。俺、ろくでもない親族ばっかりで」
マリューはうなだれたフラガに、小首を傾げて見せた。
「そんなのあなたの責任じゃないでしょ?」
「マリュー…」
「さあさあ、ムウ。へこたれてないで、私はお茶を入れてくるから、赤ちゃんをお願いね」
ちゅっ、と頬にキスしてもらい、フラガの落ち込みは一瞬にして解消される。
「おう、マリュー。まかせてくれ!」
ろくでもない親族じゃないわよ、とは言わない、正直なマリュー先生と、それでも感動するフラガ先生は、同僚、生徒、元生徒のあいだでは、ベストマッチングなふたりと評されている。