奥様の日曜日

出産ぎりぎりまで教壇に立って、産んでから三ヶ月で復職して以来、家のことはフラガにまかせきり。
僅かにあった心配など吹き飛ばすくらい、フラガは家事と子育てをこなしてくれているが、毎日の夕食の下ごしらえだけは、自分の仕事と決めているマリューだった。
毎晩帰宅してからそんなことをしている余裕はないので、日曜日に金曜までの分を準備しておく。

「よしっ、と。金曜日のハンバーグの出来上がり」
こねて丸めたひき肉とたまねぎをラップに包んで、ペンで「金」と記入して冷凍庫へ。
「ムウー、木曜日は野菜の煮物だから、それは作ってね」
キッチンからリビングに向かって声をかけると、えー、という不満声。
「俺、それ嫌い」
「知ってるわよ。でもお肉と揚げ物ばっかり食べてちゃ体に悪いでしょ。ひじきは炊いておいたほうがいい?」
入り口に現れたフラガは、壁にもたれて渋々首を横に振る。
「いいよ。作る」
「そ、じゃあ、鶏肉はここに入れておくわね」
献立を決めるのもマリューの役目だ。
やればできたというか、独身時代はカップ麺しか作ったことのなかったフラガも、今では一通り家庭料理をこなす。
が、栄養バランスという概念が抜け落ちているらしく、食べたいものを食べたいだけ作るので、好きにさせておくと、高脂肪高カロリーのとんでもない献立になってしまう。
「あと、そこにあるのが来週のおやつ。先に全部食べちゃっても、買い足しは駄目よ」
マリューはテーブルに乗せたスナック菓子の入ったスーパーの袋を示す。赤ちゃんはまだ食べられる年齢ではなく、これはフラガのおやつだ。
がさごそと袋の中身を確認して、またしても不満声のフラガ。
「さっきもっと買ったじゃん」
「買ったけど、駄目。それで充分でしょ」
蛇口をひねって洗い物を始めるマリューの背中に、フラガは抱きつく。
「なー、育児って結構カロリー使うんですけどー」
「一日何万カロリー摂取するつもり?」
「マリュー先生は、いつから家庭科の先生になったのさ」
マリューはくすくす笑う。
「あら、いいわね。フラガ先生専属の家庭科の先生」
「どうせなら保健の先生になってよ」
フラガがマリューの胸の下にまわした手にぐっと力を込めると、じゃーっ、と水の下をくぐらせていた包丁の刃先が、くいっと自分のほうに向けられたので、慌てて手を離した。
「ほら、おちびちゃんが大好きなパパを追っかけてきたわよ。ここは危ないから、リビングに戻って」
マリューの言葉にフラガが足元を見ると、赤ちゃんがはいはいでキッチンに入ってきていたので、よっこらしょ、と抱き上げる。
ちょっと前まで頼りないくらい軽かったのに、今では結構抱え甲斐のある重さだ。
「さて、じゃあ今から今日のお夕飯の支度をしなくちゃ」
「今日はなに?」
まだマリューにまとわりついていたいフラガは、キッチンをうろうろする。
「んー、どうしようかな。ムウ、なにが食べたい?」
冷蔵庫を開けてマリューが振り返ると、フラガは、鍋、と即答した。マリューはちょっとだけ顔をしかめる。
「…もう暖かいわよ?」
薄手のブラウスにスカートという季節だ。
「でも、鍋がいい。なあ、マリュー、俺、鍋がいいなー。な、おまえも鍋がいいよなー」
伝家の宝刀とばかりに、赤ちゃんの顔を覗き込むフラガに、マリューは苦笑する。
「おちびちゃんはまだ食べられないでしょ。あ、おやつ、おちびちゃんが食べたから早くなくなった、とかいう言い訳は通用しませんからね」
「あちゃー、お見通し?」
「そのくらいわかるわよ。ねー?」
今度はマリューが赤ちゃんの顔を覗き込んで、ほっぺを指でつつく。
親ばかの自覚はあるので、フラガのように口にはしないが、とっても可愛い子だと思う。
「じゃあ、あなたは匂いしか味わえないけど、今夜はパパの大好きなお鍋にしましょうねー」
「うーわ、やった!」
無邪気にフラガが笑うので、マリューも嬉しくなった。
なんだかんだとキッチンから出て行かず、フラガは赤ちゃんを抱いたまま椅子に掛けて、マリューの背中に話しかける。
「俺、マリューと暮らすようになるまで、家で鍋食ったことなかったんだよねー」
「そうなの?」
とんとんとん、と野菜を切るマリューは忙しい。
「家族とかいないしさ」
「でもお友達は大勢いるでしょ?」
「べたべたつるむのは好きじゃないから。宴会とかは行くけどさ、家行き来して鍋なんかはちょっとって思ってた」
「…ふうん」
そんな話は初めて聞いた。
フラガは自分のことを結構いろいろ話す人だが、それでもまだ聞いてなかったことがあるのだと思い、ちょっと寂しくなるのと同時に、今日聞けたことが嬉しくて、胸が熱くなったりもする。
マリューは長ネギを切るのを止めて、振り返った。
そこにいるのは立派なガタイの、半分やんちゃな少年、半分冷静すぎる大人のフラガ先生。
「でも今は大好きよね?」
「すごい好きだよ」
「私もムウがすごい好き」
「へ…?」
鍋の話からいきなり愛の告白に変わって、フラガは驚く。
でもマリューにとっては鍋の話は愛の話と一緒なのだ。
「待っててくださいね。いつもの二倍おいしいのを作るから!」
「あ、ああ…」
途惑うフラガをよそに、最高の鍋を作るために、マリューは再びまな板に向かった。

Posted by ありす南水