主夫編 X年後
コーヒーハウス「レセップス」のカウンター一番奥の席は、フラガの指定席だ。
彼の席の斜め隣、すぐ手の届くところにはピンク色のベビーカーがあり、中にはふっくらほっぺの色白赤ちゃんがいる。
この子を連れて公園で日向ぼっこし、それから午後二時半から三時にかけて、ここで「砂漠の虎スペシャル」を飲むのが、フラガの日課だ。
カランカラン、と音がして、「レセップス」の扉が開くと、
「いらっしゃいませー」
と、ダコスタの愛想のいい声が店内に響く。
「よう、アスラン。久し振りー」
フラガがひらひらと手を振ると、背の高い青年は笑顔になった。
「フラガ先生」
赤ちゃんもアスランに顔を向け、あぶあぶと笑う。
「ああ、大きくなりましたねー」
「可愛いだろー」
相好を崩したフラガの様子は、まさに親馬鹿だが、大学で助教授をしているマリューに代わって、育児休暇をとって子育てしているのだから、無理もないといえば無理もない。
「すみません、お忙しいところ、お時間割いていただいて」
「まー忙しいっちゃ忙しいけどな。買い物とか掃除とか洗濯とか、子どもの世話とかで」
と言いながらも、フラガはどこか嬉しそう。
あのずぼらなフラガ先生が、真面目に主夫業に勤しんでいることは、AA学園新七不思議のひとつだ。
ダコスタに本日のスペシャルブレンドを頼んで、アスランはフラガの隣の席に座った。邪魔なのでベビーカーは移動させ、赤ちゃんはフラガの膝の上に。
「んで、なにさ。話って」
「はい、実は、“二ヶ月間据え膳お預け状態に耐えた男”と称されるフラガ先生に、是非お伺いしたいことがありまして」
今ひとつ気に入らない形容詞を出されて、フラガは顔をしかめるが、真剣なアスランは気づかない。
ちなみに彼は、現在プラント学園の大学生だ。
「言っとくが、今は相思相愛、ベストカップル、ラブラブだからな、俺とマリューは」
「知ってます」
「嫌というほどね~」
「ダコスタは黙ってろ」
茶々入れしたダコスタは、首をすくめる。
「で?」
「はい、あの、先生はどうやって、その状態に耐えたんですか?」
「は?」
「極意とかあれば教えてくださいっ! お願いしますっ!」
アスランはいきなり椅子から飛び降り、土下座する。赤ちゃんがびっくりして体を跳ねさせたので、フラガはよしよし、とあやしてやった。
「止めろよ、おまえ。子どもがびっくりしてんだろ」
「でも、俺にとっては大事なことなんです!」
「って、なんだよ。カガリか?」
見る見るうちに赤くなるアスランを、フラガは面白そうに眺めた。
あのキラの親友なのに、アスランはてんでおくてだ、と、本人は思っている。やってることを見ていると、どうも違う、とフラガも周囲も思っているので、本人の認識とはずれているが。
フラガ先生っ、とアスランはフラガの足にすがりついた。
「カガリが三日前から俺の部屋にいるんです!
自分の部屋より、俺のとこのほうが、キャンパスに近いからって!」
「ほう」
オーブ学園理事長の一人娘であるカガリは、父の所有する一軒家に住んでいるのだが、元々AA学園に通うために用意した家なので、プラント学園からはやや離れていた。
そう。カガリはAA学園高等部に編入し、卒業したあと、プラント学園大学部に進学した。そしてあれやこれやといろいろあって、現在はアスランのガールフレンドのようなものだ。
断言できないのは、カガリが本物の天然だからだ。天然とくれば誰もが思い出すマリューとはまた種類が違う。
天然なりに大人だったマリューに比べ、カガリは今時珍しい純粋培養。フラガのところに赤ちゃんが生まれたときに初めて、子どもがどうやってできるのかを知ったという逸材なのだ。
「そんで?」
「一睡も出来やしませんよ! 出て行ってくれって言っても、友達甲斐のない奴だとかなんとか、全然わかってないですから!」
「そりゃまあ、仕方ないかもな。あのお嬢ちゃんが相手じゃ」
「フラガ先生は、どうやってマリュー先生と同じ部屋で、二ヶ月も耐えたんですかっ!」
アスランが膝まで這い上がってきたので、フラガは片手で赤ちゃんを抱き上げて避難させた。
「だから、おまえ。うちの子をびっくりさせるなって」
「先生っ、元生徒を見捨てるんですか!」
「あのなあ、アスラン。見捨てるもなにも、お嬢ちゃんには出てってもらえよ。それか襲っちまうか。どっちかだな」
「だからどっちも出来ないから、先生の極意を教えてくださいって、言ってるんじゃないですか!」
極意ねえ、とフラガは赤ちゃんを見た。
目が合うとにこっと笑うので、フラガもにこっと笑い返す。
「そんなもん、ねえよ」
「でも、先生は…!」
「俺だって今のおまえの年だったら、あんな状況耐えられなかったと思うさ。あれは三十手前になってようやく、って心境だな。それでも苦行のようだったし」
「そ、そんなっ、じゃあ俺はどうしたら…! 夜中に町内走ってみるとかはしてるんですが…!」
「それって、余計にもやもやしてこんか?」
すかさず頷くアスラン。
「もしや、先生、ご経験が」
「おう、やってみたぜー。腕立て伏せ千回とかな。ぜんっぜんっ、効果なかったけどな」
「そ、そうなんですか…」
アスランはがっくり肩を落とす。
「がんばれよー、ワカモノ」
フラガは落ちたアスランの肩を、ぱんぱん叩いた。
「…いいですよね。先生は。シアワセ一杯で」
「道が険しいほど、手に入るものはでっかいぜー」
へらっと笑って言われても、あんまり説得力はない。
お腹が空いてぐずりだした赤ちゃんに、ミルクを飲ませるフラガは、ダコスタがサービスで出してくれたチーズケーキを食べるアスランに聞いてみた。
「おまえも厄介なお嬢ちゃんを好きになったねー
一体お嬢ちゃんのどこが好きなのさ」
アスランはフォークをくるくる回した。
「あいつといるとなんだか昔っから知ってるようで、落ち着くんです」
「ふうん。落ち着くって、大事だよな」
「はい。 …キラと双子だからかな」
思わず哺乳瓶を落としそうになるフラガ。
落ち着くって、結局そういうことかい!
と、突っ込みつつも、
ここまで来たら我が道を行け、アスラン!
と、心の中でアスランを応援することにした。