アイシャのいたずら

フラガがバルトフェルドの店に顔を出したのは、新年会以来だ。
世界はふたりのために、いいじゃないか幸せならば、とばかりに恋人と蜜月を過ごしていたのだから、昔馴染みのコーヒーマニアの存在を忘れていても、無理はない。
少なくとも両思いになるまでの、彼の努力を知っている者はそれで納得するだろう。

「随分久し振りですねえ、フラガさん」
「おう、ダコスタ。バルトフェルドに呼び出されてさ。人を呼び出しておいて、来てないのか?」
「アイシャさんを迎えに行ってるだけですから、すぐに来ますよ。フラガさんにお出しするようにって言われてるスペシャルブレンドがありますから、それ飲んで待っててください」
ダコスタの言葉どおり、フラガがカウンターでコーヒー一杯を飲み終わった頃、バルトフェルドがアイシャを伴って現れた。
「あら、フラガ~、マリューがオノゴロに行っちゃってさみしいわネ~」
みんなが微妙に気を使って言わないことを、舌っ足らずな口調で、アイシャはけろりと言い放った。
「こらこら、アイシャ。男はデリケートな生き物なのだ。本当のことをいきなりはっきり言ってはいかん。マリュー先生がオノゴロで新しい出会いをするかもしれない、などと余計な心配を、フラガがしてしまうかもしれないではないか」
「そうね~、マリューはどこに行っても、モテそうだから~」
「だからそういうことを言ってはいかんのだ。もしマリュー先生にフラれたら、フラガは首をくくってしまうかもしれないぞ」
いやだ~、アンディったら~、はっはっはっ、などと仲睦まじくやっているバルトフェルドとアイシャを前に、フラガは拳を握り締めた。
「…貴様ら。いい加減にせんと、大事な店で暴れるぞ」
「いやあねえ、フラガ。欲求不満だからって、暴力に走っちゃだめヨ~」
「…アイシャ」
フラガとアイシャの付き合いも長いが、いまだに調子を狂わせられる。
「まあまあ、フラガ。落ち着いてスペシャルブレンドその二を飲みたまえ。ひとり暮らしの侘しさが身に染みた頃だろうと思って、呼んでやったのだぞ」
「余計なお世話だっつーの」
とは言うものの、マリューがオノゴロに行ってからちょうど二週間経過で、フラガも寂しくないわけでもないのだ。
着任早々マリューは二週続けて土日に出張していて、フラガが週末訪問するという約束は果たせていない。
「持つべきものは友情厚き友達だなあ、フラガ」
にやにや笑うバルトフェルドを、フラガは横目で睨みつけた。
「ちょっと小耳に挟んだんだが、どっかの馬鹿が、俺がマリューといつ別れるか、賭けてるんだってなあ」
「ほう、そうなのか。だが心配するな。もしボクがその賭けに乗るなら、おまえとマリュー先生は今後二十年くらいは別れん、というのに賭けてやるから」
というか、おまえ賭けてるだろ、それにその微妙な年数はなんなのだ、と思いつつ、フラガはコーヒーを啜った。

「あら、フラガ。アナタ携帯を持ってるのネー」
フラガが椅子の背もたれにかけてあったジャケットのポケットを勝手にまさぐり、アイシャは折り畳み式の携帯電話を取り出した。
「いっぱいメール送ってるわネー。送信先は、やっぱりマリューねー」
フラガが止める間もなく、ぴぴぴっと送信履歴を見るアイシャ。
「ウーン、じゃあ着信はー、と。あら、ほとんどないじゃないー」
「マリューは忙しいんだよ」
ようやく携帯を取り返したフラガは、シャツの胸ポケットにそれを入れた。
「忙しいって、だったらフラガが送ったメールも、見てないかもしれないじゃないノ」
「それは見てる」
「どうしてわかるんだ?」
と、これはバルトフェルド。
「いつもの時間に送らないと、なにかあったのかってすぐに電話が入るからさ」
カウンターのなかのダコスタが、うっかりカップからコーヒーを溢れさせた。
ダコスタもフラガがエンデュミオンの鷹と呼ばれていた頃のことを知っているので、彼が派手に遊んでいたことも知っている。

恋ってコワい…

いまだ彼女のいないダコスタは、こっそりそう思った。
一方、フウン、と呟いたアイシャは、すっと腕を伸ばし、フラガの胸ポケットから携帯を抜き取った。
「あ、おい」
「いいじゃナイ。カメラ付なのに、待ち受け画面をマリューにしてないの?」
「マリューが嫌がるから」
またフウン、と呟いたアイシャは、いきなりがしっとフラガの肩を引き寄せると、自分の顔を寄せて
カシャリと写真を撮った。
バルトフェルドは楽しげにその様子を見ている。
「おいっ!」
「いいカラ、いいカラ」
アイシャはぴぴぴっと携帯を操作し、ぴっとボタンを押してから、携帯をフラガに返した。
「? なにをしたんだ?」
「べつにー。マリューに今の写真、送っただけネー」
「なっ!」
思わず立ち上がってしまったフラガは、送信履歴を確認してからアイシャに抗議しようと携帯を握り締めたが、ちょうどその瞬間に呼び出し音が鳴った。
慌てたので誰からか見るのを忘れたが、この携帯はマリュー専用なので、ほかの誰も番号を知らない。
ぴっ。オンフックにした途端。
「もしもし、ムウ! なんなの、今の写真は!」
あまり聞いたことのないマリューの甲高い声。
思わずフラガが言葉に詰まると、アイシャがまたすっと携帯を奪った。
「モシモシ、アイシャよ~」
「アイシャさん!? あなた、どうしてムウと!」
「ダイジョブね。私はアンディ一筋だから~。でもたまにはマリューから連絡しないと、ほかの女とフラガがこうなっちゃうわヨ~」
ぴっ。ラインストーンで飾られたアイシャの爪が、オフフックのボタンを押して通話を切った。
「こ、こらっ! アイシャ!」
アイシャは携帯をフラガの胸ポケットに戻し、人差し指をちっちっちっとフラガの目の前で動かした。
「大事にするのはいいけど、甘やかしすぎたらふたりの関係がダメになっちゃうヨ、フラガ」
バルトフェルドも頷いている。
「まあ、おまえはまったく苦になってないのだろうが。一日一回のメールくらいは、マリュー先生からも送ってもらったらどうかね」
「人のことはほっといてくれ! これで破局になったらどうしてくれるんだ!」
叫びつつマリューに電話しようと携帯を開くと、同時に再びマリューからの呼び出し音。
ぴっ。
「マリュー!」
勢いこんで出たものの、返事はない。
「…マリュー?」
「……」
アイシャとバルトフェルドが聞き耳を立てているので、フラガは舌打ちして店の外に出た。
外灯に照らされて、春の闇が薄く広がっている。
「マリュー、さっきのはアイシャの悪戯なんだ。俺、今バルトフェルドの店に来ててさ」
「…バルトフェルドさんも一緒?」
聞き取るのがやっとの小さな声。
「一緒だ。なんなら代わろうか」
「…ううん。いい。信じてるから」
「マリュー…」
胸を熱くするフラガ。
「来週、こっちに来てね。私、仕事入れませんから」
「ああ、勿論!」
「これからは私からも電話したり、メールしたりしますから」
「いや、別に、そんなん、俺からするし」
「ううん。アイシャさんの言うとおりだから…」
ごめんなさい、とマリューが消え入りそうな声で言った。

「四月とはいえ、まだまだ夜は寒いのに、上着も着ないで風邪引きませんかね」
善良なるダコスタが心配するのを、バルトフェルドは笑った。
「心が熱いから大丈夫だろうさ。うん。これはなかなかいい味だ。腕を上げたな、ダコスタくん」
「そうなの? 私にも一口ちょうだい、アンディ」
「ほら。ダコスタくんがいなければ、口移しで味あわせてやりたいが」
「アンディったら~」

眩暈がするほどの虚しさに耐えながら、今年こそは彼女を作ろう、とダコスタは決心した。

Posted by ありす南水