幸せの秘密
陽射しが俄かに春めいてきた。それでもひとりで暮らしていたときには、防犯のためにどんなに天気のいい日も窓を全開にしたままにはしなかったのだが、今はフラガがいるから安心して、緑の混じった匂いを吸い込むことができる。
「一休みして、お茶にしないかー?」
紅茶の入ったポッドを持ったフラガに呼びかけられて、マリューは慌ててガムテープでダンボールの封をして、箱を抱えて玄関まで運ぼうとした。
「そのまま置いとけよ。俺があとで運ぶから」
止められたので、素直にそうする。フラガと暮らし始めてから、マリューは重いものを持ったことがない。
布団を片付けたこたつ机にカップを置いて、紅茶が注がれる。大雑把なフラガだが、何事もコツを掴むのは得意で、ポイントを押さえてお茶入れしてくれる。なので、彼の入れてくれるお茶はとてもおいしい。
「これで荷造りは完了?」
「そうですねえ。とりあえず送らなくちゃならないものは大体」
三学期の終業式を終えたら、マリューはジョージ・グレンの記念館開館準備に向けて、オノゴロ島に行く。
出発までまだ日にちはあるのだが、ウィークデーは仕事で忙しいので、週末に少しずつ荷物をまとめていたのだ。向こうでの部屋はもう決まっているので、先に送ってしまうつもりだ。
「なんかがらんとした感じがするよなあ」
フラガの言葉に、マリューはさして広くない部屋を見渡した。
家具などは持っていかないので、見た目にはなにも変わっていないのだが、なんとなく隙間が多くなったような気がする。そう思うと、ふいにマリューの胸に感傷が湧き上がった。
「…行くの止めようかしら」
紅茶を一口飲んでマリューが呟くと、フラガは笑った。
「なに言ってんの。難関くぐり抜けて、希望の仕事に選ばれたのに」
「…そうなんだけど」
なんとなく寂しくなってしまったのだ。
行く前からこうで、行ったらどんなホームシックに襲われるかと思うと心細い。
ううん、とマリューは思う。
ううん、ホームシックというよりも…
マリューはちら、と向かいに座るフラガを見上げた。
絶対したいと思っていた仕事の候補になっていると知って、本当に嬉しかったのはたった数ヶ月前だが、今ではちょっと複雑だ。
マリューの視線に気づいて、フラガは今度は苦笑した。
「おいおい。なんて顔してるのさ。そりゃまあ、生徒のことは気にかかるだろうけど」
「それはナタルにしっかり頼んでおきますから大丈夫です」
「あ、そ。じゃ、なんも心配ないでしょ」
…それはそうなんだけど。
「……の?」
「へ?」
「ムウは、私がいなくても平気なの?」
フラガは少し驚いた顔をしてから、まじまじとマリューの顔を見た。非常に意外なことを言われた、という表情なので、マリューは傷ついて、がっくりと肩を落とし、冷めかけている紅茶のカップを握り締めた。
「…平気なのね」
「じゃないけどさ。朝昼夜とメールするつもりだし、朝と寝る前には電話するし、週末には会いに行くし」
「え」
週末に会いに来てくれる、というのは前から聞いていたが、あまりに遠いのでいくらなんでも毎週は無理だろうと思っていたし、メールと電話のことは初めて聞いた。
「それ全部、毎日毎週してくれるの?」
「そのつもりだけど? それともいっそ、俺、学校辞めて、マリューについていこうか?」
冗談に聞こえるが、フラガは真面目な顔をしている。
俺がマリューに言う言葉は全部本当のこと。
前にフラガに言われた言葉を、マリューは思い出した。すると途端に、そんなに想われているのに、自分の気持ちがぐらついたことが、恥ずかしくなってきた。
フラガがマリューに寂しい思いをさせるはずは、絶対ないのに。それはこの数ヶ月で充分わかったことなのに。
「…そこまではしてくださらなくていいです」
恥じ入ったマリューは俯いたまま言った。
「そか? まあ、行くときには一緒に行くから」
「え、来てくれるの?」
思わず顔を上げる。
「行くよ。当たり前だろ。春休みなんだから」
フラガは本当に、当然のことを言っていると思っているようだ。
「ありがとうございます」
マリューはぺこりと頭を下げた。
「なにが?」
「全部です。毎日毎週、メールして電話して、会いに来てくださいね。約束ですからね」
「勿論。マリュー先生は俺の幸せの全部だからね」
私もそう。
とマリューは思ったが、口にするのは控えた。
ひとつくらい秘密があったほうが、幸せは長続きするかもしれないから。