(2)
風呂から出てきたら、部屋に蟹尽くしの夕食の支度が整っていた。
「あら、奥さん。湯あたりされましたか?」
フラガに抱えられるようにして帰ってきたマリューを見て、仲居さんが気遣う。
「いい眺めだったから、ちょっと長湯しすぎたかなあ」
「皆様そうおっしゃられるんですよ」
軽薄ぎりぎりの爽やかな笑顔で、仲居さんと話をするフラガを横目で眺めながら、マリューは籐椅子に座って深呼吸した。浴衣の帯も少し緩める。
白々しい…
マリューが湯あたりしたのは、景色のせいではない。そもそも…
「景色なんかろくすっぽ見せてくれなかったくせにっ。露天風呂にお銚子の乗ったお盆を浮かべて、お酒も呑みたかったのにっ」
冷えたビールを取りに、仲居さんが出て行ったのを確認してから、マリューは頬を膨らませる。
お銚子は用意はしてあったのだが、気づいたときにはすっかり冷たくなっていたし、マリューも呑める状態ではなかった。
「んじゃ、夕食食ったら、また入ろうぜ」
「遠慮します。 …体が持ちません」
「んじゃ、朝」
「同じことを二度言わせないでください」
「んじゃ、食おう。おっ、蟹すき、いい感じ」
どうやら底なしらしいフラガの体力に呆れながら、マリューはよろよろと座敷まで這っていった。タイミングよく、仲居さんがビールを持ってきてくれる。
「よろしいですねえ、奥さん。優しい旦那さまで」
フラガが自分より先にマリューにビールを注ぐと、仲居さんがお愛想笑いをする。
「では奥さん。ご用がありましたら呼んでくださいね」
襖が閉まり、マリューはビールを口にしながらやや上目遣いにフラガを見る。
「どうして奥さんなのかしら…」
年格好からして、夫婦と間違われるのも無理はないが、未婚のカップルもたくさん宿泊しているだろうに。
マリューの疑問に、フラガはあっさりと答えた。
「あ、俺、宿泊台帳にムウ・ラミアスって書いたから」
ぶっと、マリューはビールを吹き出す。
「あーあ、マリュー。大丈夫?」
フラガはおしぼりを差し出す。
「ありがとう…って、ど、どうしてそんなこと、書くんですかっ!」
零したビールをおしぼりで拭きながら、マリューは真っ赤になっている。
「温泉で宿帳とくれば、それが定番かなあと思って。ほら、よくあるじゃん。不倫のカップルがこのときだけは同じ苗字って」
「不倫じゃないじゃないですかっ!」
「そうだけどさ。ほら、マリュー。これ、できてるよ」
フラガが皿に蟹を入れてくれるので、マリューはまた礼を言って受け取った。
「蟹食ってるとさ、無口になるんだよな」
などと言いながら、蟹を突付くフラガを、マリューは再度上目遣いに眺めた。
「ねえ…」
「ん?」
「結婚、早くしたいの?」
「マリューの仕事が一段落したらって、こないだ話し合ったでしょ」
「そうだけど」
じゃあ、なんでこんなイタズラをするのだ。
よくわからないわ。この人って。
付き合う前よりも、むしろ今のほうがそう思う。
「そんなに睨まれたら、食べづらいんだけど」
気づかないままじっとフラガを見つめていたらしく、マリューははっとして、両頬に手をあてた。
「いや、いいけどね。マリューが食べるより俺を見てたいって言うんなら、そこに布団をだーっと敷いて…」
みなまで言わせず、マリューはグラスをぐいっとフラガに突き出した。
「食べます! それから飲みます!」
迫力に押され、フラガは慌ててビールを注ぎ足す。マリューはそれを一気に飲み干す。
「食べるほうはいいけど、飲むほうはほどほどにね」
再び突き出されたグラスにまたもやビールを注ぎながら、フラガが警告するが、目元をうっすら赤く染めたマリューは聞いていない。
「そんならこっちにおいでよ。隣のほうが注ぎやすいから」
「じゃあ、自分で注ぐ」
「駄目だ。そしたら際限なしだろ」
きっぱり言われて、マリューはのそのそとフラガの隣に移動した。そうすると習性で、丹前を着た肩にもたれかかるが、グラスはしっかり握って離さない。
「おかわり」
「蟹も食べろって。ほら、ほぐしてあげるから」
「ありがと」
片寄せあうのはいいが、どう見ても食事するには不向きな体勢でいることをまったく気にせず、
ふたりの初旅行の夜は更けていった。