天使は舞い降りた
そしてやってきた終業式。
しばし会えないということで、さんざん名残を惜しむ三人組にマリューは、じゃあ、一緒に初詣に行きましょうか、と相変わらず天使のようなことを言っている。
大晦日の深夜、除夜の鐘を聞いて、カウントダウンをして、お参り、という生徒会の伝統行事に、例年フラガが付き添ってやっているのに、今年はマリューも来るのだった。
「じゃ、先生、大晦日に~!」
手を振って、生徒たちは冬休みに突入していった。さらに二四日は職員室の大掃除。一日かけて掃除したあとは、一同揃って忘年会だ。
「いろいろあった一年だったが、なかなか有意義ではあった。来年もこの理事長ラウ・ル・クルーゼを皆で盛り立ててくれたまえ」
クルーゼの乾杯の音頭を聞きながら、ヤツが益々アル・ダ・フラガに似てきつつあるのを感じるフラガだった。
マリューはクルーゼとアズラエルのあいだに座らされ、セクハラ包囲網に捕らわれていたが、時折ばきっ、とか、ごきっ、とか、鈍い音がするのを、ナタル以下教職員は聞かないふりをした。
フラガと言えば、サザーランド教頭の隣という面白くもなんともない席だったが、教頭はほとんど席におらず、ひたすらハルバートン校長に酌をしている。
「いやあ、私は常々校長のご慧眼には感服しておりましてなー! これからは一生校長についていきます!」
などと、今では意味のなくなった、校長派であることをアピールしていた。
「フラガ先生、なんか暗い酒ですねー」
もう一方の隣に座るトノムラが、とっくりを振りながら話しかけてくる。
「そういうおまえは、酒が入って、いつも以上に間抜け面に見えるな」
とっくりを奪い、フラガは自分の猪口に手酌した。
「ひどいなあ。フラガ先生はいつも俺にひどいっすよ。先生はどうして俺にそんなに冷たいんですか。
そりゃあ、なにをしても派手で目立つ先生にはかないませんけど、俺だって一生懸命やってるんすよ。それなのに…」
ううう、と膝を抱えて泣き出すトノムラは、泣き上戸。
「トノムラっ! 貴様はいつも酔うとめそめそしおって、それでも男か! しっかりせんか!」
これは叱り上戸のナタル。ノイマンは酔いが顔に出ないタイプだが、弱いので実は酩酊しているし、
明るい酒のチャンドラ、パル、マードックは車座になって盛り上がっている。
あとは若い人たちでゆっくりしなさいと、ハルバートンとサザーランドが先に帰り、座もややだれてきた頃、フラガの背中にぺたりと温かい、というより中途半端に熱い塊が張り付いた。
誰だよ、酔っ払いが、と振り向くと、
「マリュー先生?」
「あ、フラガ先生~、私、先生にお酌しようと思ったんですけど~」
しなだれかかっていたマリューの呂律がまわっていない。見ると、クルーゼとアズラエルは机に突っ伏して潰れている。
机の上には、とっくりが数限りなく…
「先生、お酒がいいですか~ それともビール~」
「いや、どっちもいいから。おい、大丈夫か?」
「大丈夫です~」
だがフラガが両腕を掴むと、ぐにゃりと体が折れた。
数分後、居酒屋をあとにしたふたりは、マリューのマンションに向かって通りを歩いていた。
「マリュー先生は、酒に強いんだと思ってたんですけど?」
「強いですよ~ 今だって、頭はしゃんとしてるんです~」
どうだか、と思う。
「今日はちょっと油断してたから~ 酔いがまわったの~」
「なんで油断したの?」
クルーゼとアズラエルにプレゼントを貰って、嬉しかったから?
ふたりになにか包みを渡されていたのを、フラガは目撃していた。
たぶんどっちも指輪だ。
マリューはけらけらと笑い出した。
「帰りはフラガ先生と一緒だから~ 酔っ払っても、平気でしょ~」
フラガの心臓を鷲掴みにしていることに気づかないまま、マリューは笑う。
「あ、先生、見て、雪!」
段々足取りの怪しくなってくるマリューの腕を掴み直すと、マリューは片手を大きく挙げた。
「え? ああ、本当だ」
「…きれい」
夜空からふわふわと落ちてくる白い雪に、マリューはうっとりと見惚れ、フラガはそんなマリューに見惚れる。
「ほら、ちゃんと足元見て、歩いて」
「ん~」
言いながら、いつの間にかフラガの腕に腕を絡ませ、体重が乗っていく。
「おんぶさせていただきましょうか?」
「スカートだから駄目です~」
スカートじゃなければいいのか。
「じゃ、抱っこ」
「え?」
とマリューが呟くあいだに、両膝を掬い上げ、お姫様抱っこする。
「え、やだっ、フラガ先生!」
「危ないから暴れない。大丈夫。落とさないから」
成人女性ひとり、正直結構重いのだが、ここで踏ん張れなくては、最初からこんなことするな、ということになる。
マリューは少し怖かったようだが、フラガの首に腕をまわして、なんとかバランスのいい位置を見つけた。
「フラガ先生といると、びっくりすることばっかり…」
驚いた拍子に、少し酔いが飛んだようだ。
「そりゃ、お互い様でしょ」
「私はそんなことないです。地味に生きてるんですから」
本気でそう思ってるところがなんとも。
「俺はびっくりしたけどな。きみが大学に戻ろうと考えてるって知って」
マリューの体が、腕のなかで跳ねた。飛び降りようとしたのだろうが、フラガはそれを許さない。
「どうしてそれを…!」
完全に素面に戻っている。
「さてね」
「ま、まだ考えているだけなんです。決めてませんから」
「でも、決めかけてるんだ」
観念したのか、マリューは小さく頷いた。ちょうどハイツの前まで来たので、フラガはマリューをおろす。
マリューは階段を登ろうとして、フラガが動かないのに気づく。
「フラガ先生?」
「俺、出て行こうか?」
「え?」
「迷惑なら出て行くよ」
マリューは困惑している。
「あの…」
「マリュー先生、親切なのとそのほかが、ごちゃ混ぜになってない?」
マリューが大きく瞬きした。
なにを言われたのか、意味をゆっくり理解するために。
そして理解した瞬間、涙がつーっ、と頬を伝った。
「ええっ?」
フラガはぎょっとする。
「…私、私」
それきり両手で顔を覆ってしまうマリュー。
「ちょ、ちょっと待って。なんで泣くの。俺、なんか酷いこと言った?」
マリューは顔を覆ったまま、首を横に振り、それから縦にも振った。
肯定か否定かわからない。
宥めても泣き止まないので、フラガはとにかくマリューの背を押し、階段を登り、部屋の前まで来て、鍵を開けた。
今や勝手知ったるマリューの部屋だ。ぐずぐずと泣き続けるマリューをこたつの前に座らせて、フラガは流しで日本茶を淹れる。
酒が入ってなければミルクにするところだが、日本酒のあとのミルクは、想像するだに気持ち悪い。
「すみません」
湯気を立てる湯飲みを前に、マリューはようやく口を開いた。指で涙を拭いているが、そんな程度で乾くものではなさそうなので、タオルも差し出してやった。
「すみません」
マリューは律儀に繰り返す。フラガはマリューの前に座った。
「トノムラと同じ、泣き上戸、とかじゃないよね?」
「違いますっ!」
タオルを握り締め、マリューは、きっ、と顔を上げた。
「先生が、おかしなこと言うから…」
また俯いてしまう。
「おかしなって、どこが? だって元々、俺がこうやってきみんとこにおいてもらってることのほうが、おかしいでしょう」
「だって、それは。先生、怪我してたし、前のお部屋に住めなくなっちゃったし」
だからそれを親切とその他が混同、だとフラガは言ったのだが、きつく聞こえるだろうと予想がついたので、言い方を変える。
「怪我は治ったし、部屋ならまた新しく借りられるから」
マリューの瞳が悲しみに染まる。
俯いて、足の上に置いた手をぎゅっと握り締め、動かない。
「…すみません、私。先生のご迷惑を考えないで」
「は? いや、違うでしょ。俺はきみが迷惑ならって」
「いいんです。そんな優しくしてくださらなくても。先生は本当はひとりで大丈夫なのに、私がいらないおせっかいを焼いたんですよね」
なんでそうなるんだろう。
フラガはそのまま言ってみた。
「なんでそうなるのさ。俺は前からずっと、この部屋に来たかったの。ここで暮らせるなんて、言ってみれば夢のようなことなの」
「前のお部屋、広すぎたから、ワンルームがよろしかったのね?」
「違うっつーに!」
根気はあるほうだと思っていたが、遂にキレた。
ばばっ、とマリューの隣に移動すると、肩を掴んでがくがく揺さぶった。
「俺は、きみの部屋に入りたかったの! わかるか? きみの部屋! もしここにきみじゃない誰か別の人が住んでいたら、ここにはまったく興味がないわけ! あのさ、俺が体育祭のとき言ったこと、ひょっとしたら忘れてるんじゃないのか?」
揺さぶられて、ちょっと髪の乱れたマリューが、上目遣いで見上げる。
「体育祭のとき、先生が言ったこと?」
「俺がきみを好きだってことだよ!」
「ああ、覚えてます」
「……!」
このまま押し倒せばいいのか、抱きしめればいいのか、そんなことを迷う自分が恨めしい。
フラガはマリューの肩を掴んだまま、がっくしうなだれた。
「あのさ、マリュー先生。きみのことを好きだっていう男を、いくら同情しても、部屋に入れちゃ駄目でしょう」
ましてや一緒に暮らすなんて。
冬休みはセンチメンタルジャーニーで費やそうかと、本気で考える。
「でも私、同情なんてしてませんけど…?」
「じゃあ、なに。やっぱり親切? 怪我してる人を見過ごせなかった?」
「私、そんなに優しくないですわ」
「だったらなんだっつーの! 好きじゃない男を部屋に入れた理由は!」
「好きじゃないことないです」
「だから、なんで好きじゃないことない男を…っ、って、へ?」
まじまじ顔を見ると、マリューは恥ずかしそうに目を伏せた。
「好きじゃないことないって…それって、好きってこと?」
マリューがこくりと頷く。
「好きでもない人を、一人暮らしの家に泊めたりしたら、馬鹿じゃないですか、私」
そりゃそうだ。マリューはフラガを下から睨んだ。
「…ひょっとして、そう思ってたんですか?」
「え?」
マリューの顔が、怒りでみるみる赤くなる。
「そうなんですね、私のこと、馬鹿だと思ってたんですね!」
ばしっと手を叩かれて、フラガは飛び上がらんばかりに焦る。
「ひどいっ!」
「あ、いや、その。だって、マリュー先生、ちゃんと言ってくれないから」
「先生だって、ちゃんと言ってくれてないですっ!」
「えー、俺はちゃんと言ったでしょ」
「先生のちゃんとって、よくわからないです!」
すっかり怒ってしまったマリューは、じりじりと後ずさりして、すっかり拒絶の態度になってしまった。だがここで引いては元の木阿弥。
「…よしっ!」
エンデュミオンの鷹の面目躍如、ここにあり。
小さく呟くと、フラガはおもむろにマリューの腰に腕をまわし、唇で唇を覆った。
「んーーーっ!」
ばんばんばん、と拳で肩を叩かれて、これがかなり痛いのだが、そんなことにかまってられない。噛まれるのも覚悟して、舌を口腔に浸入させると、叩く力が弱まった。
「んふ…っ、ん」
いつの間にかマリューの手が背中にまわり、セーターをしっかり握り締めている。
時々苦しそうにマリューが眉をひそめるので、息継ぎできるよう角度を変えたりしながら、長いキスを続ける。
気づくとマリューは、絨毯の上に頭をつけていた。目はとろんとして、唇は濡れているが、先程の涙の跡も残っているその顔を、フラガは撫でた。
「俺、マリューに言う言葉は、全部本気だから」
いきなり「先生」呼びを止めてみたりする。
「フラガ先生。 …ムウ」
マリューも、ファーストネームに呼び方を変える。
そして抱き合うふたり。
この二ヶ月、どうしても這い出せずにいた不毛の境地から、フラガがようやく脱出できたのは、十二月二四日、クリスマスイブ。
天使はようやくこのマンションの一室に舞い降りた。
「このベッド、ふたりじゃ落っこちちゃいそうですね」
「なら、もっとくっつこうよ」
腕を伸ばして引き寄せると、マリューはくすくす笑った。
「これじゃ、あなたが眠れないわよ。腕、しびれちゃう」
「大丈夫。マリューはクッションいいから」
「…太ってるってこと?」
「なに言ってるの。ナイスバディってことでしょ」
このたびめでたく双方思いが通じ、晴れて恋人同士になったふたりは、明日から冬休みなのをいいことに、明け方までベッドでいちゃいちゃしていた。
「もっと大きなベッドに変えなくちゃ駄目かしら…
でもそれなら、もっと広いお部屋に引っ越したほうがいいんでしょうね」
ムウの前のお部屋みたいには、広くなくていいけど、とマリューが笑う。
「いいじゃん。しばらくここで」
憧れだった「マリュー先生のこじんまりとした部屋」、にまだ執着のあるフラガは、それに、と付け加える。
「春になってきみが大学のほうに行ったら、普段は俺ひとりになるんだし」
マリューは驚く。
「大学、戻ってもいいの?」
「だって、研究続けたいんでしょ」
「だって、さっき怒ってたでしょ?」
「黙ってるからだよ。戻ること自体を怒ったんじゃない」
マリューはしばらくフラガの腕のなかで考えていた。
「…ほんとに?」
「俺がマリューに言うことは、全部本気のほんとだって」
「そうだったわね」
またマリューが笑うので、フラガはとても気分がよかった。好きな女が自分といて楽しそうなのが、こんなに嬉しいことだと初めて知った。
「あのね、ジョージ・グレンの記念館をうちの大学が中心になって、建てることになったの」
「ジョージ・グレンって、あの「木星探索記」を書いた?」
「そう。私の専門は彼なの。それで彼の著作物や生前愛用の品を集めた記念館に、研究部門も併設されて、開館後はそこで密度の濃い研究ができるの」
「ふーん」
外が段々明るくなってきて、カーテンの隙間の光からマリューの表情が見えた。
「それ、すごくしたいことなんだ」
「ええ、そう。まだ決定じゃないのよ。研究員の枠は限られているから、選考対象になれただけでも大変なことなの。 …でも」
マリューはフラガの胸に顔を押し付けた。
「なに?」
「記念館の建設予定地は大学よりももっと遠いの」
「どこ」
「オノゴロ島」
飛行機に一日乗って行くところだ。
そんな辺鄙なところに建つ理由は、フラガにもわかった。「木星探索記」で主人公が宇宙に旅立つ、出発の地がオノゴロなのだ。
「金曜の夜にこっち出て、土曜の夜にオノゴロに着いて、日曜の朝にオノゴロ出て、月曜の朝、学校に直行か。ま、できないことはないけど」
「えっ?」
「だって、週に一回は会いたいし」
「毎週会いに来てくれるの?」
その超ハードスケジュールで?
「長い休みには、こっちに帰ってきてよね」
マリューの瞳が潤んでいく。
「うわ。なんで泣くの!」
「嬉しいんですもん」
「嬉しいときは笑ってよ。涙は勘弁」
マリューは無理に笑おうとして、結局失敗した。
「あのさあ、こんなときに聞くのもなんだかな、とも思うんだけどな」
「はい?」
まわされた手が、ゆっくりと拍子をつけて背中を優しく叩くのを、マリューは目をつむって受け止めていた。
「昨日、クルーゼとアズラエルに、なんか貰ってただろ。あれ、どうした」
そんなことがとっても気になっていた。ふたりともフラガがマリューの部屋にいることを知ってるくせに、しつこいことこの上ない。
「お返ししようとしても受け取ってもらえなかったので、おふたりが潰れてしまったあと、おふたりのコートのポケットに入れて…」
眠気に耐え切れなくなって、最後のほうは、むにゃむにゃむにゃ、になった。
「あ、そ。よかった。んじゃ、もうひとつ。なにか欲しいものある? ほら、今日もまだクリスマスだから」
すやーっ、と安らかな顔で、眠りに落ちつつあるマリューは答えない。今更クルーゼたちと同じ指輪を贈るのは二番煎じみたいで嫌だが、なにかあげたいという気持ちも強い。
前から用意しなかったのは出て行くつもりだったからで、マリューのことだから、そんな男からはなにも受け取らないだろうと思っていた。
「なあ、マリュー」
悪いとは思いつつ、フラガは指でマリューの頬をつつく。マリューは目をこすり、フラガを見上げた。
「一緒にいられたら、それで」
そしてまた、むにゃむにゃ。
今度こそ深い眠りに落ちてしまったマリューの顔を、フラガはずっと眺めていた。