8 クリスマスの奇跡 受難は続く
いい匂い、と思いながらフラガが目を開けると、流しの前に立つマリューの後姿があった。1Kなので、ほぼ一目で室内のすべてが見渡せる。
フラガの密かな憧れだった「こじんまりとして温かそうなマリュー先生の部屋」は、本当にこじんまりとして温かかった。
柔らかいピンクとベージュを基調とした室内は、フラガの知るほかの女性の部屋に比べると、無駄なものが少ないのだが、それでいて全然素っ気無くない。要するにマリューの人柄そのもののお部屋だった。
時計を見ると、六時少し前だ。部屋に転がり込んでから知ったことだが、マリューは毎日五時に起きて、弁当を作っていた。
無論マリューの分だけならばそんなに早起きする必要はなく、重箱一杯におかずを揃えるのは、フラガがそれだけ食べるからだ。その上、これまた最近わかったが、材料費だけでも結構かかっている。
そんなことを、まったくなんでもないことのように、ひとっことも言わず、毎日弁当を作ってくれていたのだ。マリューは。
「あ、フラガ先生。おはようございます」
マリューは菜箸を持ったまま振り返り、にこっと笑う。
「おはよ」
ああ、朝から天国。
…であるはずのフラガの顔は、だがしかし微妙に微妙だ。
フラガのいるのは、マリューのベッドの上。
それはいい。それは。
しかしその平行線上に、なぜかあるもう一組の布団。
綺麗に畳まれているが、八畳のフロアに動かしがたい存在感を示しているその布団こそ、目下のフラガの一番の敵。マリューが寝起きしている布団だ。
ちなみに現在十二月。まもなく二学期が終わろうとしている頃である。
入院は嫌だと駄々をこねたフラガは、学校を三日休んだだけで仕事に復帰し、「リハビリー」などと言いながら模範演技をしてみせたり、誰もが思ったとおり、殺しても死なない男を証明した。
マリューも「しょうがない人ですわね、もう」と言いながら、優しく見守ってくれた。それが擦れ違いの始まりだと、フラガは気づくべきだった。
「フラガ先生は怪我人ですから」
とマリューがベッドを譲ってくれたのは、まあ、彼女の性格を考えれば当然と言えば当然だった。
「私は客用布団に寝ますから」
と言うのも、一週間くらいは派手に動くと痛かったので、なんとも思わなかった。しかし、それから既に二ヶ月以上が経過した。
フラガの怪我は既に完治している。飛んでも跳ねても心配ない。
とくれば、いくらやりたい盛りの年頃は過ぎたとはいえ、健康な男子が好意を寄せている婦女子と同じ部屋で寝起きして、なんにもなしで過ごすのはいささかどころか、かなりきつい。マリューも子どもじゃないのだし、そんなことがわからなくはないはずだ。
いくら天然でも、目の逸らしようのないほど近くにいるのだ。マリューに対して熱い視線を送っている男が。
なのにどうしてなにもないのか? フラガにもよくわからない。
何度か試みてもみたのだが、どうにもタイミングがずれるというか、そういうムードに持っていくことができない。
無駄な経験はいっぱいあるが、本気で女にアプローチをしたことのないのが、今頃になって災いする。軽いノリで流してしまっていいのかどうか、判断出来ないずに悩んでしまう。
末永くお付き合いするのが目的なのだから、一回や二回やれたところで、それで終わっては意味がないし、あんまり馬鹿な悩みすぎて、誰かに相談することもできない。
バルトフェルドに知られたら、大笑いされるだろう。クルーゼ、には死んでも知られたくない。ヤツは念願叶って、父の正式に跡継ぎとなり、いくつか仕事を任せられている。AA学園の理事長もやっているので、時折顔を合わせる。
アズラエルとどちらがマシか難しいところだが、マリューの意向、即ち校長派に沿って学園経営をするつもりらしいので、とりあえず許容範囲だ。
そして理事長の座を追われたアズラエルは、どういうわけかオブザーバーとかいうわけのわからない立場で、今でも学園に出入りしている。
動産、不動産のすべてを処分して、なんとかブルーコスモスコンツェルンを買い戻したので、小遣い稼ぎの意味合いもあるようだが、まだマリューに未練もあるようだ。
なんか、体育祭の前より、どうにもならん状況じゃないの…?
今ひとつ手を出しづらい理由のひとつに、マリューのしているペンダントがある。
どうやら本当に前の男のいわくアリの品らしく、入浴以外ずっと肌身離さないし、不安になったりすると、胸元をぎゅっと掴む癖も、その下のペンダントを握っているからだと、今は知ってしまった。どうやらその男は死んだらしい、ということも。