(5)

アスランはなんとかアズラエルを振り払い、平均台に駆け上った。
途中で落ちれば、また平均台の最初からやり直しがルールだ。追いついたアズラエルはよろけたふりをして、アスランの足をなぎ払う。
「あっ!」
アスランは受身の態勢で、グラウンドに転がった。
「なにをしている、アスラン! 貴様それでも栄えあるザフトの赤か!」
貴賓席で、青筋を立てて歯軋りするのはイザークだ。パイプ椅子を後ろに蹴り倒し、中腰になって勝負の行方を見守っている彼は、既にかなり白熱している。
「ああ、くそっ! こんなことなら、この俺が代表として出場すべきだった!」
「お子様競技だって、馬鹿にしてたんじゃないのー?」
ディアッカに茶々を入れられて、ぎっ! と睨みつける。
「アスラン、がんばってー」
そんなぎらついたやりとりをよそに、ニコルはあくまで素直な応援を続けるが、なんとなく頼りない。
アスランは素早く起き上がると、今度は前になったアズラエルに体当たりした。
「なにをする!」
「お互い様です!」
ふたりはもつれ合って、平均台から転げ落ちた。
アスランの短パンから伸びた足は、両方とも擦りむいて真っ赤になっている。さらに後ろからはクルーゼが迫ってきている。
「くっ…! ここで俺がアズラエルとクルーゼを道連れにできれば、キラはゴールできるか…っ!」
アスランが一大決心を実行する前に、キラがクルーゼを抜いた。
「なに…っ?」
すぐさま追いつこうとするクルーゼの背に、激しい衝撃、というより、重量がかかる。ハードルを飛び終え、はしごをくぐり抜けたフラガが、そこから走り幅跳びの容量でジャンプし、さらにそのままクルーゼに飛び蹴りをくらわしのだ。
べちゃ。
クルーゼの前面がグラウンドにぺたりとついた。
「ああっ、パパっ!」
イザークを押しのけて、甲高い声でフレイが叫んだ。
「ちょっと、フラガ先生! あんた、私のパパになにすんのよ!」
それまでカワイコぶっていたフレイの豹変に、イザークの口の端が引きつる。
「だって、お嬢ちゃん。これって一応、真剣勝負だし~」
フラガはクルーゼの背中を、ぐにゅっ、と踏んで、頭を飛び越えた。
「キラーーーーっ! 行けーーーーっ!」
アズラエルを地面にねじ伏せたアスランの絶叫が、グラウンドに響く。
「アスラン…っ!」
「行けーーーーっ!」
キラは涙目で力強く頷くと、平均台を飛ぶようにして、三歩で渡った。その姿を確認し、アスランも涙目になったが、うるうるしている暇はなかった。
「うっ!」
押さえつけていたアズラエルの右手が動き、アスランの頬をかすった。
微かな冷たい感触。
「な、なにっ…!」
立ち上がったアズラエルの右手には、鋭利な刃物が光を放っていた。
「ボクのジャージは、伊達に特注じゃないのでね!」
頬に一筋の血を流したアスランは、アズラエルを睨む。
「卑怯だぞ、アズラエル!」
「勝てば官軍なのさ!」
もう一度右手を繰り出し、アスランが避けている隙に、アズラエルは平均台に駆け上り、一気に渡ってしまった。
「くそっ!」
アスランもあとに続こうとすると、アズラエルが後ろ足で平均台を蹴り倒した。
「ああっ!」
飛び乗ったばかりで、バランスを取れていなかったアスランは、平均台と一緒にひっくり返った。体をねじって倒れ、頭に平均台が落ちてくる。
「アスラン!」
前方のキラ、後方のフラガが同時に叫ぶ。グラウンドに伏したアスランは動かない。
「おいっ、審判! 今のは妨害行為だ!」
フラガはサイに向かって訴える。
それを言うなら、さっきのクルーゼに対するあなたの行為も妨害行為ですが、とはこの際言ってはいけない。
サイはなにか言いかけたが、サザーランドが年に似合わぬ速さで走ってきて、それを遮った。
「今のは事故である! 理事の足が平均台にあたっただけで、競技続行に問題はない!」
ちっ、と舌打ちして、フラガはアスランを抱え起こした。
「アスラーン!」
キラが戻ってこようとしている。
「キラ…」
意識を朦朧とさせたアスランは呟く。
「行け…行くんだ、キラ…」
「アスラン、そんなっ…!」
「行くんだーーーーっ!」
最後の力で絶叫したアスランは、そのまま気を失った。
「わかった、アスラン…! ぼくは行くよ!」
キラとアスランの美しい友情に、応援席のそこここで、鼻を啜る音が聞こえる。
キラは跳び箱十段を鮮やかに飛び越えたアズラエルのあとを、再び追いかけた。フラガはアスランをほっぽりだすこともできず、その場に足止めだ。
ひらりと跳び箱を飛び越えたキラは、最後の五十メートルを全力で駆けた。アズラエルとは十メートルは差がついていたが、ゴール直前でなんとか追いつく。
「キラー!」
「理事ー!」
声援は圧倒的にキラへのものが多い。アズラエルを一番一生懸命応援しているのはサザーランドで、
その姿はいじらしいほどだ。
四捨五入すると四十だという噂のアズラエルも頑張る。
ふたりはほぼ同時にゴールへ…と思われたとき、アズラエルの右手の方向から、強い光が反射した。例の特注ジャージに仕込んである刃物だ。
「あっ!」
眩しさにキラが思わず目を細めた、その一瞬が勝負を分けた。

アズラエルの右足がキラより一歩早く、ゴールの白線を越える。

そのままの勢いで、長い棒の先についた一等のフラグを、待ち受けていたトールから奪い取り、アズラエルはガッツポーズを繰り出した。
「やったーーーーー!!!」

高らかに響き渡るアズラエルの勝利の雄叫びとは裏腹に、体育祭会場、すなわちAA学園高等部グラウンドは、水を打ったかのように静かになった。

クルーゼ、フラガ、アスランの三人が事実上の脱落。そしてキラが敗れ、アズラエル理事長の勝利。
皆、この成り行きに途惑っている。

「フラガ先生! アスランくん!」
いまだ倒れたアスランを抱えるフラガの元へ、マリューが駆け寄る。
「あー、一応担架出してやって。脳震盪起こしてる」
遅れて走ってきたノイマンに、フラガは指示する。マリューはフラガの膝の上のアスランの様子を確認してから、顔を上げた。
「フラガ先生も」
「俺は大丈夫。歩けるから」
なにか言いかけて思い直したマリューは、唇を噛み締めてフラガを睨みつけた。
「マリュー先生、怖い顔」
「心配してるんです! すぐ病院に行ってください!」
「えーと、マリュー先生も一緒に行ってくれるなら~」
「行きます。当たり前でしょ」
いつから当たり前になったのかは不明だが、茶化して誤魔化すというフラガの常套手段は、マリューの前に無力と化した。では、とばかりに、
「マリュー先生~v」
一気に甘えっ子路線に変更することにしたフラガは、マリューの腰に抱きつこうとする。
「…先生方」
弱々しいが、理性的な声が下のほうから。
「おお、アスラン。気がついたか」
「はい…いちゃいちゃは職員室で…というのも問題ありますが、とりあえずここじゃないところで、お願いします」
最初は大事に抱えられていたアスランは、いつのまにやら片手で適当にもたれていた。
「…それで、勝負は」
「理事長が一位だ」
ゆっくり体を起こしたアスランは、がっくり肩を落とした。
「アスラーン」
キラがゴールから逆走してきた。
「アスラン、一緒に保健室に行こう」
爽やかな笑顔と共に、アスランに差し伸べられる手。
「キラ、でも勝負は…」
アスラはくっ、と悔し涙を飲んだ。
「いやだなあ、アスラン。体育祭の一競技だよ。そりゃ卑怯な手を使われて負けたのは悔しいけど、
僕たちは正々堂々戦った。それでいいじゃない」
「キラ…」
 おまえらこそ、やや間違い気味の友情は別のところで繰り広げろよ。
フラガは突っ込みたくなったが、マリューが感動して目をうるませているので控えた。
「そんじゃ、保健室に行くか」
フラガが立ち上がろうとすると、マリューが腕に手を添えた。
「フラガ先生は病院です!」
「はーい」
一同はぞろぞろとグラウンドをあとにしようとした。
フラガとマリューの仲はようやく進展のきざしが見え、キラとアスランの友情も復活した。よかったよかった、とわいわい和んでいたら、

「ちょっと待てーーーっ!」

フラグを持って、仁王立ちしていたアズラエルが叫んだ。
一斉に振り返る一同。
「いや、おまえらはどうでもいい。マリュー先生、勝者はボクだ。いざ、天使長から祝福のキスを!」

あ、忘れてた。
 
それがこのときの一同の気持ち。
フラガでさえも忘れていた。

  さて、どう対処しようか。
これまた一同が同時にそう思ったとき、

「いやです」

マリューの決然とした声が響いた。
「私はそんなことは了承しておりません。よってお断りさせていただきます」
背筋を伸ばし、よく通る声できっぱりと言い放つ。マリューに見つめられたアズラエルは赤くなったが、お断りされていることに気づくと青くなった。
「な、な、なんだと…?」
アズラエルは人から拒絶されたことのない、正真正銘のお坊ちゃまだ。
いや、だめ、きらい。
そんな否定的な言葉を口にする者には、徹底的に制裁を加え、排除してきた。

それが、結婚してやってもいいと思っていた女に、今、なにを言われた?

「そんな、そんなことが許されると思っているのか…! ボクは理事長だぞ!」
「嫌がらせには屈しません!」
言い切ったマリューは立派だが、うしろにいるフラガはふと疑問を持った。

  マリュー先生、ひょっとして…

しばしフラガは悩んだ。
アズラエルはフラガにとっては敵だ。いわゆる恋敵。だから彼がフラれてしまうなら、それはそれでいいのだが…
だがしかし。

フラガはちょんちょん、とマリューの肘のあたりをつついた。
「なんですか、フラガ先生」
すっかり戦闘モードのマリューは、フラガを睨む。
「いや、あのさ。理事長に嫌がらせのつもりはないと思うんだけど」
マリューはさらに眉を吊り上げた。
「勝者にキス、なんて、嫌がらせでなくてなんなんですか!」
 あ、やっぱり、気づいてないのね~
軽くめまいがしたのは、怪我のせいばかりではあるまい。フラガはなんとか気を取り直した。
「あのね、マリュー先生。アズラエルはきみが好きなんだよ」
「は?」
は? ってマリュー先生。
「だから、アズラエルはきみとキスしたいから、あんなことを言い出したの。お断りするんなら、その点しっかり理解して、きちんとしような」
後々のためにも。
マリューはぱちくりと瞬きした。
それからアズラエルを振り返る。
真意を確かめるようにアズラエルを見るマリューを、フラガは再び自分のほうに向かせた。
「でね、俺もきみのこと好きだから」
「は?」
だから、は? ってなんなの、マリュー先生。
「だって、さっきキスしたでしょ」
思い出したのか、マリューの頬に朱が走る。
「だって、あれは…勢いでしょ」
「うわ、やっぱりそうくるの」
そんな気がしないでもなかったが…と、体から力が抜けるフラガ。
もう疲れたからここでフテ寝してやろーか、と考えていると、
「あの、フラガ先生…?」
今度はマリューがフラガの腕をつんつんした。
「…本当?」
「なにが?」
「先生が、私のこと…」
「好きだって、きみ以外、ここにいる人はみんな知ってる」
「え!」
マリューは慌ててキラを見た。
「そうですよ、マリュー先生」
にっこり笑って保証してくれるキラの頭を、フラガはぐりぐり撫でてやりたくなった。
「え? え? え?」
再びフラガに視線を移し、マリューはプチパニックだ。 そんなマリューを見下ろしながら、フラガは考える。

よかった、俺、今、自分の気持ちも言っといて。

でなければ、アズラエルの気持ちだけ教えてやるただのお人好しだ。
「マリュー先生は?」
「えっ?」
フラガはマリューの腰をぐいっ、と引き寄せた。
「マリュー先生は誰が好きなの?」
腰から下を密着させて、聞くようなことではない。マリューは真っ赤になった。
「わ、私は…!」
「うん?」
フラガは満面の笑みで答えを待ったが、当然の成り行きで邪魔が入った。
「こら待て、ムウっ! 貴様、どさくさ紛れになにをしているっ!」
フレイに介抱されていたクルーゼが、復活していた。
「ちっ、いいとこだったのに」
フラガは舌打ちするが、抱き寄せたマリューが逃げないので、まあほぼ思い通り。
アズラエルも自分を取り戻した。
「おまえ達ーーーーっ! 勝者はボクですっ! 文句あるのかーーーーっ!!!」
「あー、それなんですが、ここで体育祭執行委員長のわたくし、サイ・アーガイルから、皆様にお知らせです」
勇敢なる生徒会長が、冷静に告げた。
「只今の障害物競走は、ノーゲームです」
「なにっ!?」
そこでサイはマイクのスイッチを入れた。
「えー、体育祭最終種目でありました、PTA、職員合同障害物競走の結果をご報告させていただきます。先程終了いたしましたこの競技は、審判も勤めさせていただいております、執行委員の厳正なる判断により、ノーゲームとさせていただきます」
ええーーーーっ! と騒ぎ出す見物の方々。アズラエルも血相を変えた。
「一体どういうことだっ! ボクは確かに一番でゴールしたぞ!」
「確かにアズラエル理事長は、一番でゴールされました」
何事かと、ナタルもグラウンドに出てきた。
アズラエルが勝ったのは非常に不本意だが、生徒会が競技の結果そのものを、不正にひっくりかえそうとしているのなら、それはそれで見過ごせない。
「きちんと説明しろ。サイ・アーガイル」
「はい。この競技はそもそも無効です。スタート時点でフライングがありましたので」
「なにいっ!?」
叫んだのはアズラエルだが、フラガとクルーゼ、そしてキラとアスランも驚きを隠せない。
「なにを言ってるんだ! 今更そんなことを…!」
「すみません。フライングを確認していた委員が、自信がないとすぐに報告しなかったもので」
スタート地点付近で、カズイがぺこりと頭を下げた。
「しかしビデオで確認しました結果、フライングがあったことは間違いなく、よって規定によりこの競技はノーゲームとなります」
「うむ。そういうことか。ならば仕方ない」
ナタルは腕を組んで納得するが、勿論アズラエルは納得しない。
「なにが仕方ないだっ! 誰だっ! 誰がフライングをしたんだっ!」
「理事長です」
サイはアズラエルに手のひらを向け、なんでしたらビデオをお見せいたします、と付け加えた。
「そ、そんな…」
哀れ、アズラエル。
ずっと手にしたままだった一等のフラグをぐさりとグラウンドに突き立て、辛うじて立っている。
「それじゃあ、もう一回やり直すの?」
キラがサイに問う。
「いや、もう無理だろう」
サイはぼろぼろの障害物競走出場者を見渡す。
「それに閉会式の時間だし」
「そうだね…でも、賭けはどうなるの?」
学校に来てないわりには、キラはいろいろ詳しい。
「そっちにノーゲームはないから。アズラエル理事長一位、キラが二位で、配当するよ」
指ですっと眼鏡を上げるサイに、やはりおまえが胴元だったか、と思うフラガだった。
「パパぁ、もう帰ろう。私、疲れちゃったあ」
フレイがクルーゼのジャージの上着を引っ張った。多々思惑の外れたクルーゼも、戦意を喪失したのか、そうだな、などと呟いている。
さあ、じゃあ閉会式かー、フラガ先生は病院ですっ、というのんびりした会話と共に、おひらきムードになりかけたとき、アズラエルが突然叫んだ。
「あーーーーーっ、もうっっっっ!」
目が吊り上っている。
「なんなんですかっ、なんなんですかっ、もうっ! ボクは理事長ですよ! 理事長のボクをコケにしたら、どうなるかわかってるんですか、きみたちっ!」
アズラエルはフラグをぶんぶん振り回したが、ついていないときには、とことんついていないものだ。テントの傍にいたシャニが、アズラエルを指差して言った。
「あいつ、悪いんだぜー 俺達にフラガを襲えって言ったー」
そうだそうだと、オルガとクロトも同意する。うぐぐっ、と血が出るくらい唇を噛み締めるアズラエル。
「ああーーっ、もうーーーーーーーっっっ!!!」
次に顔を上げたとき、アズラエルはフラグを握り締め、無茶苦茶に振り下ろした。
「理事長、危ないですっ! 止めてください!」
サイが頭を庇って避難する。
アズラエル自身もなにかを意図していたわけではなく、ましてや誰かを傷つけようなどと思っていたわけではない。それでも現実に、マリューの顔に向かって、フラグが落ちてこようとしていた。
「マリュー先生!」
フラガが自分の名を呼ぶのを聞きながら、マリューはぎゅっと目を瞑った。
相応の痛みを覚悟したのに、衝撃は予想と少し違った。
そっと目を開けると、受け止めたのはフラガの背中だ。よろけたマリューが背中に手を添えると、フラガは振り返った。

「マリュー先生、大丈夫?」
「はい」
「そう、よかった」
そんな優しい目で見られたことはなかった気がして、マリューは少し不思議な気がした。

だっていつもそばにいて、いつも優しくしてくれているのに…?

フラガは片頬を歪めて笑い、そのままゆっくりとグラウンドに膝を着いた。
「…今のは、こたえた」
呟いて、両腕で胸の下を押さえて倒れる。
フラグの先が、肋骨のあたりを直撃していた。

フラガは体を丸めたまま、ぴくりとも動かない。
常人ならば安静の必要な怪我を負いながら、さっきまで走り回っていたのだ。まあ、この辺りが限界か。
などと遠巻きに見物人を決め込んでいたバルトフェルドなどは思ったが、マリューはそうはいかない。
「いやあああああっ!」
マリューの悲鳴がグラウンドに響いた。そして半泣きのまま、右の拳をぎゅっと握り締める。さらにその拳は、思いがけずフラガを倒してしまったアズラエルの左頬めがけて繰り出された。
ぶあきっ。
「うおっ!?」
その場にいた全員が、アズラエルの体が、ゆうに一メートルは吹っ飛ぶのを目撃した。
「理事長ーーーーーっ!」
サザーランド教頭が叫ぶ。
「おおっ、マリューくんの右ストレート。久し振りに見たが、相変わらずの切れ味だな」
感心しているハルバートン校長。
「なかなか見事なパンチですな。マリュー先生は武道の嗜みが?」
「わかりますかな、バルトフェルド校長。マリューくんは、全部合わせて十八段という武芸の達人でしてな」
「ほう、それはそれは」
はっはっはっ、と笑い合う校長ふたり。

「フラガ先生ーーーーっ!」
マリューは半狂乱になって、フラガをがくがく揺さぶった。
「マリュー先生、フラガ先生は大丈夫ですから」
ノイマンがフラガとマリューのあいだに割って入り、ナタルがマリューを押さえた。
「マリュー先生。この男は殺したくても死にませんから、落ち着いてください」
「ナタルっ、そんな…!」
「…そりゃちょっと酷いんじゃないの。ナタル先生」
辛そうだがしっかりした声に、慌ててマリューが振り返ると、ノイマンに支えられたフラガが体を起こした。
「フラガ先生っ!」
マリューがナタルの腕をふりほどいて、フラガの肩に手を置いた。
「先生、大丈夫ですかっ」
「あー、うん、なんとか」
確かに刃物で刺しても死ななさそうなフラガは、マリューの肩越しに倒れ伏したアズラエルを見た。思い切り掴まれている肩から伝わってくる力からして、マリューの握力が想像できる。
「やるねえ、マリュー先生」
「そんなことっ…! あんまり心配させないでください!」
「うん、…ごめんな」
ぽんぽんと背中を叩いて、フラガはマリューに謝った。

 さあ、これでほんとに病院に行くかー
フラガがそう考えたのと、アズラエルがむくりと起き上がるのとは同時だった。
「ゆ、許さない…許さないぞ。よくもこのボクを…このボクを…」
髪を振り乱し、ぶつぶつ繰り返すアズラエルからフラガを庇うように、マリューが腕を伸ばす。
「クビだーーーーーーっ! ダメダメなおまえら全員、クビにしてやるーーーーーっ!」
おまえも、おまえも、おまえも、と次々と指差されたのは、マリュー、フラガを始めとする、ほとんどすべての教職員。
「そんな横暴、認められませんわ!」
アズラエルのヒステリーに、マリューが応戦する。
「アズラエルさまは理事長であらせられるぞ! 理事長に逆らうなど貴様ら百年早いわ!」
サザーランドがアズラエルに加勢する。
「いいかげんにしろ! なにを無茶苦茶を言っているんだ!」
ナタルがアズラエルの前に立つ。
「なんですかね、きみも! 担任になりたければ、ボクに従っていればいいんですよ!」
「もう結構だ! 私はあなたにはついていけない!」
手下だと思っていたナタルにまで逆らわれ、アズラエルはますます逆上。
「貴様らーーーーーっ!」
両手を髪に突っ込み、絶叫した。

フラガの背中から、サイがこそっと訊ねる。
「あのー、閉会式をしてもいいでしょうか」
「今は無理じゃない?」
「時間、押してるんですけどねー」
「しゃーねーじゃん。理事長がご乱心なんだから」
「先生、収拾つけてくださいよ」
「うーん」
フラガが唸っていると、グラウンドにつむじ風が舞い上がった。
キラの登場のときのように。

そう、これは大物登場の前触れ。

人々の目は、自然と入場門に集まり、そこには黒い人影が…

「なんだね、私を出迎えるための式典にしては、随分と地味だな」
言葉の端々から傲慢な感じの滲み出した、イヤミーな喋り方。
そう、たとえばクルーゼの喋り方のような…

「親父!?」
フラガは思わず素っ頓狂な声を上げた。

高そうなスーツに高そうなネクタイ、高そうなワイシャツに高そうな靴。
それでいて成金ぽく見えない、押し出しのいいこの人物こそ、フラガ財団総帥。
知ってる人は知っている、世界のお金持ちトップ10のなかに、毎年名を連ねる大富豪だ。
そして勿論、天才少年キラ・ヤマトは知っていた。
「あ、アル・ダ・フラガさんだ」
「え、あのお金持ちの?」
アスランの認識はかなり大雑把だが、間違ってはいない。
「うん。フラガ先生のお父さん」
「えっ!」
アスランばかりでなく、サイまで驚いた。
キラよ。おまえ、なんでそんなことまで知ってるんだ。
とほほほ、と声に出して言いたいのを我慢しながら、フラガがよっこらしょ、と立ち上がると、すかさずマリューが支えてくれた。

「ムルタ・アズラエルがここにいると聞いて来たのだ。誰か案内せんか!」
グラウンドの真ん中で、えらそうに胸を張るアル・ダ・フラガ。
 相変わらず嫌なヤツ…と思いつつ、フラガは先程のクルーゼの与太話を思い出す。こっそり見ると、クルーゼもなんとはなしに動揺している。
  …ひょっとして、マジなのか?
いつものクルーゼの、口からでまかせだと思いたかったのに、どうやらこれはマジなのか?
フラガにしては珍しく、この世に生を受けたことを恨みそうになるが、腕に手を添えていてくれるマリューに、真剣な顔で見つめられているのに気づくと、生きててよかった~、に思いが180度変化する。
「ムルタ・アズラエルはボクだ。だがなんだ、おまえは。呼び捨てにするとは失敬な」
復活のアズラエル。
自分で掻き毟った髪はぐしゃぐしゃ、ピンクのジャージ姿だが、ブルーコスモスコンツェルンの若き総裁の顔に戻っている。
アル・ダ・フラガは、アズラエルにせせら笑いを浴びせた。
「ふん。青二才が。まあいい。先程我がフラガ財団は、ブルーコスモスコンツェルンを買収した」
「な、なにぃ!?」
今日何度目かだが、アズラエルは顔色をなくす。
「よってブルーコスモスコンツェルンが持つすべての権利は、私のものだ。さらにほかの権利に先駆けて、AA学園の理事長の座を明け渡してもらおう」
「な、なにぃ!?」
繰り返すアズラエル。うしろではサザーランドが携帯電話でどこか、おそらくブルーコスモスコンツェルン本社と話をしている。
「アズラエルさま、本当のようです! ブルーコスモスコンツェルンは、フラガ財団に吸収されました!」
「な、なにぃ!?」
それしか言えなくなったアズラエル。サザーランドは携帯電話を持ったまま、妙に中腰になって叫ぶ。
「だから私が障害物競走の前に、株価が異常な動き方をしていると、申し上げたではないですかー!」
アズラエルは今にも卒倒しそうだ。

一方フラガは父の真意が読めず、首をひねった。
ブルーコスモスコンツェルンは確かに大企業だが、無理矢理買収するほどの魅力はないはずだ。しかもわざわざ出向いてきて、理事長の座を譲れだと?
フラガはマリューの肩に手を置いたまま、クルーゼのほうを向いた。
「おい、これもおまえの差し金か?」
「ふっ、知るものか」
そんなやりとりをしていると、アル・ダ・フラガがふたりに気づいた。
「おお。おまえたち、いたのか。出迎えご苦労」
「だからこれは体育祭で出迎えじゃないっつーの」
フラガの突っ込みも、アル・ダ・フラガの次の一言で吹き飛んだ。
「久し振りだな」
クルーゼの顔を見て、
「ムウに」
フラガの顔を見て、
「ラウ」
マリューがすかさず腕を掴んでくれなかったら、フラガは無理して立っているのが馬鹿馬鹿しくなっていただろう。クルーゼは硬直している。
「…逆だ、親父」
「なに?」
「俺がムウで、あっちがラウだ」
「そうだったか?」
アル・ダ・フラガはまったく悪びれず、ふんぞりかえる。
「で、どっちが息子で、どっちがコピーだ?」
そのくらい覚えとけよ! という突っ込みよりも、やっぱりクルーゼは父のクローンなのか、という情けなさが、フラガのなかに広がった。
「あのな、俺がムウで、あんたの息子。あっちがラウで、あんたの…クローン?」
「そういえばそうだった。一字違いでややこしい名前だな」
「て、め、え、が、つけたんだろうがっ!」
親に向かってあんただのてめえだの、最低の言葉遣いだが、さすがにマリューもなにも言わない。
アル・ダ・フラガはじろりとフラガを見た。
「ふん。おまえが息子か。ならば、おまえは明日から、AA学園の理事長だ」
「はあ?」
「私はムウ・ラ・フラガを、正式に跡継ぎとすることに決めた」
ええーーーーーーーっ、と外野が驚き、フラガは絶句する。マリューがさらにしっかり腕を掴んでくれて、本当にありがたい。少し痛いが。
「理事長として学校経営を学び、そこからほかの分野にも手を伸ばせ。私の跡取りとして、恥ずかしくない結果を出すのだぞ」
「嫌だ」
思い切り力を込めて、フラガが言うと、アル・ダ・フラガは眉を動かした。
「なんだと?」
「い、や、だ。俺はあんたの跡だけは継がない。ぜーったい、嫌だ」
子どものときから父のようにはなるまいと、それだけが揺るぎない目標だったのだ。
経済とか経営には、実を言うと興味はある。だが父の跡だけは継ぎたくない。
決意を新たにしているフラガが、ふと異様な気配を感じてそちらを見ると、クルーゼが顔に半分影をつけて立っていた。
いじけている…?
「ひょっとして、おまえ、跡、継ぎたいの?」
「ふっ」
なんだかわからない返事をして、クルーゼは背を丸めた。
「あー、親父、親父」
渡りに船、とフラガは父に呼びかける。
「なんだ」
「こいつ、跡、継ぎたいって」
クルーゼを示すが、アル・ダ・フラガは首を横に振った。
「そいつは駄目だ」
「なんで」
「失敗作だからだ」
「へ…?」
クルーゼがさらに背を丸め、丸虫状態になった。
いつもならいい気味だと思うフラガだが、父の前では、こいつまでもが善人に見えるのはなぜだろう。
「そいつは失敗作だ。だから破棄したのだ」
 …極悪人。
普通あまり父親に対して抱かない感想を抱くフラガ。
「えーと、参考ばかりに。こいつのどこが失敗作なんだ?」
「傲慢で疑り深いところだ」
「そりゃ、親父のクローンだったらそうだろ」
父と息子は数秒見つめ合ったが、父は都合の悪いことは、聞こえないふりを決め込んだ。
「ともかくおまえが理事長だ! そのためにブルーコスモスコンツェルンを買ったのだからな!」
「だから嫌だって言ってるだろ!」
「私に逆らうなら、援助を打ち切るぞ!」
「中学出てから、援助なんぞしてもらってねーよ!」
ええっ、そうだったんですか、フラガ先生! と驚く外野。
親子は益々白熱する。
「マンションを取り上げるぞ!」
「てめえの秘書が、無理矢理俺を引っ越させたんだろーが!」
「そうだ! 税金対策だ! だがもう出て行け!」
「ああ、出て行ってやるよ! 大体住みにくいんだよ、だだっ広いだけのあの部屋!」
突如始まった激しい親子喧嘩は、フラガ先生、フラガ先生、とマリューが腕を引っ張らなければ、日が暮れるまで続いただろう。
「フラガ先生、怪我に響きますわよ」
「…マリュー先生」
見下ろすマリューの顔は、今となってはフラガの心のオアシス。
「マリュー先生~」
がばっと抱きつくと、フラガの腕にすっぽり包まれたマリューは、慌てず騒がず、フラガの背中をぽんぽんと叩いた。
「さ、病院に行きましょうね。新しいお部屋が見つかるまで、うちで養生なさればよろしいですから」
「え?」
思わず力を緩めると、目の前に、にこっと笑ったマリューの顔。フラガは本気で泣きそうになった。
「…よいな。おまえは幸せそうで」
丸虫状態のクルーゼが横で呟いた。
「どうせ人生などこんなものだ。私の隣を素通りしていく、愛はかげろう。儚い夢は霧のように消え去り、残るのはただ虚しさのみ。私はこの虚ろな気持ちを抱え、冷たい世間をただひとり、小舟のように漂うのみ」
グラウンドにのの字を書きながら、ぶつぶつ唱える。
「なに言ってんだ、おまえ」
本気でアブナイ。
「…私の不幸せはすべておまえのせいだ…」
後頭部を踏んづけてやりたいのを、フラガはぐっとこらえた。
「おまえ、そんなに親父の跡を継ぎたいのか」
のの字が増えていく。
「どうなんだよ」
ほんのわずか、こくんと動くクルーゼの頭。
あー、うっとおしい。
と思いつつ、フラガはマリューの両肩をぐっと掴む。
「ちょっと待ってて、マリュー先生」
「はい」
それから再度アル・ダ・フラガに向かう。
「なあ、親父。あいつを作るのにいくらかかった?」
「そんなことは考えんでも覚えている。軽く億は出したが、無駄な出費だった」
ほんとにな、とは言わず、フラガは交渉を続ける。
「んじゃ、俺を作るのにいくらかかった?」
「なに…?」
意外な質問に、アル・ダ・フラガは彼にしては非常に珍しく途惑った。
「俺はおふくろが産んだんだよな?」
ここで違うとか言われた日には、親父を殺して俺も死ぬ、と覚悟するフラガだったが、幸い父は、そうだ、と答えた。
「あの女が産んだ子どもを跡継ぎにするくらいならばと、私は自らのクローンを造ったのだ」
そんなことを「あの女が産んだ子ども」の前で、胸を張って言うな。

俺、もしこいつが川で溺れているのを見かけても、そしてそのとき俺の手に浮き輪があったとしても、
投げてやんないだろーなあ、とフラガは冷静に思った。

だが今はそんなことはさておいて。
「んじゃさ、考えてみろよ。俺を十五まで養育するのにいくらかかった? クルーゼを作った経費より高かったか?」
「くだらん。おまえはほっといたら、大きくなっていたのだ。あれにかけた経費などとは、比べ物にならん」
「だったら、あいつを跡継ぎにしろよ。そんでかかった経費以上に稼いでもらえ。損したままにしておくのか!」
少しずつ声のトーンを上げていき、最後にびしっと指を突きつけた。
損、は父が何より嫌う言葉だ。
むむっ、と唸って、アル・ダ・フラガは黙り込み、父と息子は睨み合う。これでもまだ父の考えが変わらないようなら、出奔することに、フラガは心を決める。
「うむ…確かに損をそのままにしておくのは、私の流儀ではない」
顎に手をあてて、考え込んでいたアル・ダ・フラガは言った。
「よし。私の跡継ぎは、金のかかっているクローンのほうにする」
いよっしゃあ、と叫びたいところだが、もうひとつ。
「ブルーコスモスコンツェルンは、あいつに返してやれよな。とりあえずいるのは、AA学園の理事長の座だけなんだろ」
「あれはもう私のものだ」
予想通りの父の返事に、フラガは立ったまま放心しているアズラエルのところに行き、ぐいっと腕を引っ張り、無理矢理内緒話の姿勢にする。
「おい、ムルタ。どうせ隠し口座とかあんだろ。有り金はたいて、会社を買い戻せ」
「丸裸になれというんですかぁ?」
語尾が裏返っているのに気づかないアズラエル。
「親父のことだから、三日と経たないうちに、解体して売り払っちまうぞ」
「ボクの会社ですよ!」
「だから今、金を積めって。AA学園の分を差し引いて、金額交渉の余地はある」
…かどうかはほんとは知らないが、そのくらいはアズラエルも経営をする人なら、自分でやってほしい。
アズラエルの目に段々力が戻ってきて、サザーランドに携帯電話を持ってこさせせると、ぴぴぴ、とどこかに電話する。
「…よしっ! あれはボクの会社だーーーっ!」
と気合一発、アル・ダ・フラガと交渉すべく、ジャージのジッパーを締め直す。
がんばれよー、と無責任にその背に手を振り、フラガがマリューの元に戻ろうとすると、よかったですわね、などとマリューから声をかけられているクルーゼが、仮面の下から涙を流しながらマリューの手を握っているので、うしろから飛び蹴りをくらわした。

「まったく、油断も隙もないぜ」
マリューの腰を掴み、フラガはようやく一息入れた。
「先生ー、閉会式なんですけどー」
大人の事情に困り果てたサイが訴えてくる。
「しゃーないから、流れ解散つーことで」
「えー、そんなあ。片付けもあるんですよ」
そこにキラが進み出る。
「サイ、ぼくたちも手伝うから」
ぼくたち、といえば、キラとアスラン。アスランは力強く頷いた。
「ザフトのメンバーにも協力してもらおう。いいか、イザーク、ディアッカ、ニコル」
ニコルは素直に、はい、と言い、憎まれ口を叩こうとしたイザークは、マリューと目が合い、喜んで、と言葉を変え、ディアッカもミリアリアと目が合い、手伝ってやるよ、と言った。
「ああ、じゃあ、お願いします!」
ちょっと自棄気味にサイが叫んだ。どのみちグラウンドの真ん中で、アル・ダ・フラガとアズラエルの商談中で、とても邪魔できる雰囲気ではない。

「いやあ、楽しませてもらったよ」
バルトフェルドが貴賓席から出てきて、マリューにラゴゥの鍵を差し出した。
「よかったら使ってくれたまえ」
「まあ、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀して、マリューは鍵を受け取った。
「さ、フラガ先生、行きますわよ」
マリューは喉元過ぎれば痛みを忘れて、生徒たちとはしゃいでいるフラガの腕を引っ張った。
「あなたって人はもう! 怪我してるんですから、おとなしくしていてください!」
フラガはマリューに腕をぐいぐいひっぱっれ、前屈みになりながらひっぱっていかれた。
「尻に敷かれて、あんなに嬉しそうな人は、そうそういないだろうなあ…」
サイの感想に、一同は激しく頷いた。

かくしてAA学園体育祭は幕を閉じた。
フラガの肋骨は2本折れ、1本ひびが入っていて、全治一ヶ月。
アル・ダ・フラガは体育祭のその日のうちに、マンションにフラガが住めないよう手配してしまったので、本当にフラガはマリューの部屋に転がり込んだ。

Posted by ありす南水