(4)
「いやあ、これは益々勝負が楽しみになってきたねえ」
バルトフェルドはいそいそと貴賓席に戻っていく。
「おまえ達、ぼんやりするな! 行くぞ!」
思わぬものを見てしまい、吃驚仰天、真っ赤になっているトールとミリアリアと三人組を、ナタルは無理矢理引率した。
「ノイマン先生、おまえもだ!」
「は、はい」
フラガとマリューがどういう人間かは、充分理解した。これから先なにがあっても、意地にかけて動揺すまいと、ナタルは決意した。
プログラムは、最後から三つ目の2年男子リレーが始まったところだった。
このあと三年男子リレー、そして障害物競走で全競技が終了だ。待機場所では、クルーゼとアスランがウォーミングアップをしていた。
「あ、フラガ先生」
アスランがフラガのほうに走ってくる。
「キラのやつ、まだ来ないんですよ。あいつほんとに来るんでしょうか」
いつも冷静なアスランが、苛立ちを隠しきれていない。フラガはアスランの肩を軽く叩いた。
「来るって言ったんだから、嘘はつかないだろ。信じてやれよ、親友だろ」
「…はい」
アスランはフラガの語尾が軽く跳ねているのに気づいたが、上機嫌の理由までは想像できない。
「…先生。もうひとつ気になることが」
「あん?」
「あの人。AA学園高等部PTA会長。…うちの学校の教師に、とてもよく似ているんですが」
当たり前だ。本人なのだから。
アキレス腱を伸ばしているクルーゼを、フラガは横目で見た。サングラスは、ずれると思ったのか、プラントでしているという、妙ちくりんな仮面をつけている。
昔っから絶対顔を見せないんだよな、あいつ。
とても変わった目の色をしていて、それを隠しているのだとか、因縁絡みの傷があるのだとか、色々噂されていたが、ものすごくちっこい目だったりしたら、笑えるよなー、とフラガが人の悪いことを思っているあいだに、アスランはどんどん思考を進めていた。
「あの教師、俺の父に気に入られて、理事長室によく出入りしているんです。 …はっ! ひょっとして、あの人が父にAA学園の悪口を吹き込み、両校の仲を悪くさせているのでは…!」
さすがはザフトの赤のなかでも、一番の成績を誇るアスラン・ザラ。あてずっぽうでも結果は正しい。
「まあまあ、そう考え込まずに。とりあえず目の前の競技をちゃっちゃっとやってしまおうぜ」
小細工されてるかもしれないし~、と小声で付け加える。
「そんな…っ。そんな危ない競技にキラが…っ!」
アスランの顔色が変わる。
「キラ…っ。俺が間違っていた。おまえは来なくていい…っ!」
だからアスラン、おまえ別の意味でなにか間違ってるって、とフラガが密かに突っ込みをいれたとき、突然つむじ風が巻き起こった。
「うっ!」
佳境に入っていたリレーの、アンカー同士の最後の競り合いが中断するほど、砂が舞い上がる。
驚いたカズイが配線に足をひっかけ、スピーカーから流れていた音楽も止まった。
みなが手で顔を押え、そろりと腕を下げようとしたそのとき、グラウンドの真ん中にそれまでなかった人影が現れた。
たすき掛けをしたアンカーの隣をすり抜け、その人影はゆっくりと入場門のなか、アスランのいる場所に近づいてきた。
「遅くなって、ごめん。アスラン」
「キラ…っ」
見つめ合う目と目。
最早ふたりのあいだに言葉はいらない。
キラの額に巻かれた白いはちまきが風に揺れるのを、アスランは、眩しそうに眺めた。
「キラ、ベストを尽くそう」
「うん」
そしてキラは表情を引き締めると、屈伸をしているクルーゼに顔を向けた。
「クルーゼさん。ぼくは来ましたよ。ぼくの秘密というの、教えてくださるんですよね」
ふっ、と笑い、勢いよくポージングするクルーゼPTA会長。
「まだだよ、キラくん。私に勝てば、教えて差し上げよう」
「勝ちます。ぼくは」
「ふっ、ふははははっ! 面白い勝負になりそうだ!」
「てゆーか、おまえ。キラんとこへは匿名で電話したんじゃなかったのか?」
疲れるので花壇の端っこに腰掛けていたフラガは、横から突っ込みを入れた。クルーゼは、はっ! と顔色を変える。
「うっ、し、しまった…っ! 図ったな、ムウ!」
「あーのーなー。小細工はてめえの十八番だろ。理事長やらプラントやらに、こそこそ近づきやがって」
「なんのことかな? 私にはさっぱり」
「白々しいんだ、てめえはよお」
「なんとでも好きなだけ言いがかりをつけたまえ!
所詮おまえは、私が天使長から祝福を受けているところを、歯噛みしながら見る哀れな運命なのだからな!」
フラガは口元に手をあて、少しだけ視線を浮かせたあと、にやっ、と笑ってこう言った。
「そんなことにはならねえよ」
ばちばちばちっ、とフラガとクルーゼのあいだで火花が散った。
「理事長っ、それでは…」
「ええい、うるさい! その話はあとだ!」
アズラエルが教頭を従えてやってきた。
いつものスーツを着替えて、胸にブランドロゴの入った淡いピンクのジャージになっている。
ジャージを着たホストに見えるのはなぜだろう。という疑問はさておき、これで障害物競走出場者が全員揃った。
「えーと、では、みなさんお集まりのようですので、コースの説明をしたいと思いまーす」
居並ぶ大人を前に、サイが声を張り上げる。
「スタートして五十メートルを普通に走り、次に袋状になったゴザのなかをくぐり抜けていただきます。そこを抜けると、ハードルを飛び、横に倒したはしごを通り、平均台の上を走り、跳び箱十段を飛んで、
さらに五十メートル走ってゴールです」
大の大人がする真剣にする競技ではないと、どうして誰も言わないのか不思議だ。
「先生」
キラがフラガの隣に来た。
「顔色、悪いですよ」
「虎と同じことを言うなよ」
「先生のお友達の、バルトフェルドさんですか?」
「おまえはなんでも知ってるなあ」
フラガはがばっとキラの肩に腕をまわした。
「ものは相談なんだが、おまえ、棄権しろ」
「なんでですか」
「危ないから。クルーゼとアズラエルがフェアな勝負なんかすると思うか」
「思いませんね」
「だろ? あとは俺に任せて、おまえ、アスランと一緒に棄権しろ」
「嫌です」
キラはきっぱりと言い放つ。
「あ、やっぱり」
「せっかく来たんだから、ぼくは戦います。先生こそ、棄権したほうがいいんじゃないですか。怪我してますよね」
「俺のほうにも引けない理由がね。じゃあ、おまえら、スタートしたら先に出ろ。そんで1、2フィニッシュでゴールしろ」
「勝ったらマリュー先生とキスできるんですよね」
ぽややんとした雰囲気のまま、不穏当なことを言い出すキラ。
「権利は放棄だ。当たり前だろ。先行かせてやるって言ってんだから」
「えー、せっかくマリュー先生とキスできるのに?」
フラガはキラの肩にまわしていた腕をずらし、ぐぐっと首を締め上げた。本気だ。
「わわっ、先生っ! 冗談ですよ、冗談!」
「そういう冗談は命にかかわると覚えとけ」
げほげほとむせながら、キラはフラガを睨んだ。
「大人なのに、恋愛ごとで真剣にならないでくださいよー」
「ばっかやろ。大人だから、真剣になるんだよ」
キラは、解せない、という表情だ。
天才少年でも子どもは子ども。長めの髪をくしゃくしゃにしてやると、やめてください、せんせー、などと可愛らしいので、余計にわしゃわしゃしてやる。
と、背中に突き刺さるような冷たい視線を感じた。
「うっ!」
恐る恐る振り返ったフラガの目に、アスランが無表情で立っているのが飛び込んできた。
アスランの半径一メートルの空間に、荒れ狂うブリザードが見えて、フラガはキラを抱えていた腕を思わず離した。
「…キラ」
「はい?」
キラはずれたはちまきを直している。
「…有意義な青春の日々を過ごせよ」
アスランもなー
ワカモノの青春模様に首を突っ込むのは止めとこうと思う、ドライなフラガ先生だった。
いよいよ障害物競走の出場者が、スタートラインに立つ。
クルーゼ、アズラエル、フラガ、キラ、アスラン。
イケメン選手権の如きだけあり、派手な声援が飛び交い、会場は大賑わいだ。そしてこの競技のもうひとりの主役であるマリューは、貴賓席のハルバートン校長の隣にいる。
「皆様、準備はよろしいですか?」
女生徒の黄色い声援と、賭けの参加者であろう野郎連中の野太い声援に、サイの声はかき消されそうだ。
「それでは位置についてください」
フラガはキラとアスランの背をつつき、インコースになるようにして、自分の横に並ばせる。
「一気に飛び出して、ぶっちぎれ」
「はい。フラガ先生もお気をつけて」
キラはにこりと微笑んだ。フラガの反対隣はクルーゼ、アウトコースはアズラエルだ。
「ようい」
サイがピストルを振り上げる。
「スタート!」
ぱあん!
全員が一斉にスタートを切った。
…切るはずだった。
やはりというか当然というか、フラガが飛び出そうするのと同時に、クルーゼの左足が不自然に前方を塞ぐ。それをよけると、今度は左肘だけが、大きくわざとらしく振り下ろされる。そんなことをしていたら自分も出遅れるのに、クルーゼはおかまいなしだ。
「クルーゼ、てめえなあ!」
キラとアスランは素晴らしい瞬発力を発揮して、早くもござに到達しそうだし、アズラエルもなかなかいいスタートを切っている。
「ほんっとにねちっこいヤツだなっ!」
「目障りなのだよ、貴様は!」
「だったら、俺の前から消えりゃいいだろっ!」
「それができない理由があるのだよ!」
「なにい?」
全力疾走、さらにフラガは負傷中で、これだけ怒鳴りあえるのはさすがだ。
「聞きたいかね、ふふふふふ」
走りながらでも笑えるクルーゼ。
「どんな理由があるってんだ、言ってみやがれっ!」
「よかろう、教えてやろう! それは私が貴様を愛しているからだ!」
ござを目前にして、フラガは足を滑らせた。
「ああっ、フラガ先生!」
主にフラガに賭けている先生生徒から、悲痛な叫びが上がる。
「ふっ、などということはないがなっ!」
クルーゼはござに潜り込み、そのまま崩れ落ちてしまうかと思われたフラガは、辛うじて体勢を立て直した。
「クルーゼ、てめえーーーっ! 嘘でも気色悪いことぬかすんじゃねえっーーーー!! 鳥肌立ったじゃねーかよおおおおっ!」
痛み止めが効いてきたのか、動揺のあまり痛みを感じないのか、ともかくフラガは一気に元気になり、がばっ、とござに潜り込むと、クルーゼの足を引っ張った。
「は、離さんかっ!」
「うるせーっ、あったまきた! 今日こそてめえを叩きのめしてやる!」
後ろでばたばたするので、ござを抜けようとしていたキラ、アスラン、アズラエルももたつく。
「やめろっ、ズボンを引っ張るな!」
「うっとーしーんだよっ、俺のこと、目の敵にしやがって! さあ、言いやがれっ! 俺の前から消えることのできない理由ってなんだっ!」
「それからぼくの秘密ってなんですか! クルーゼさん!」
この機会にとばかりに、キラも戻ってくる。
「あ、キラ!」
「先に行って、アスラン。ぼくもすぐに行くから」
「キラ…!」
「おまえら、この狭いとこで、手なんか握り合うんじゃないーーーっ!」
ほかの連中がもたもたしているあいだに、出し抜こうとしたアズラエルだが、混戦に巻き込まれて身動きできない。
「よし、キラ! おまえ、そっちから押さえろ! そうだ、仮面、仮面を剥いでやれ!」
「はいっ、フラガ先生!」
結構卑怯なフラガとキラ。
「うあああああっ、やめろーーーーっ! 貴様、父になにをするのだーーーっ!」
「ちち?」
「そうだ、父だ! 私は貴様の父親、アル・ダ・フラガのクローンなのだっ!」
「キラ、こいつの頭、殴ってやれ!」
「はいっ、フラガ先生!」
「わーっ、やめろーーーーっ! 本当だ! 私とおまえは遺伝上の親子なのだーーーっ!」
「馬鹿なことを言ってんじゃねえよ! もうちょっとましな嘘をつけっ!」
「だから真実だと言っている! 人とはエゴの塊、私利私欲のためなら、悪魔にさえも魂を売る…」
「じゃあ、ぼくの秘密はなんなんです?」
キラがクルーゼの頭側から、肩を押さえつけた。「お、おまえの秘密は…」
キラの手が仮面に伸びる。
「おまえには双子のきょうだいがいるーーーーっ!」
「え?」
「おまえを生んだ女は、代理母なのだ。選ばれた最高の精子と卵子を使っておまえは生まれた。だが受精卵はふたつあったのだ。ひとつはおまえを生んだ母の胎内に。もうひとつは別の女の胎内に」
「キラ、そんな与太話を信じるな!」
キラは顔を上げて、フラガを見た。
ござのなかだが、天才少年には暗闇なんてなんのそのだ。徐に、にこーっ、と笑うキラ。
「そうですよねー そーんな馬鹿な話、あるわけないですよねー」
「キラ、アズラエルが行ってしまった!」
アスランが叫ぶ。
「アスラン、だから行ってってば」
「だがっ…」
「大丈夫、ぼくを信じて、アスラン」
「わかった、キラ、きっとだぞ!」
アスランはござを飛び出し、キラがクルーゼに向き直ろうとしたとき、クルーゼの足がフラガの腹に入った。
「ぐっ!」
傷の場所には当たらなかったが、衝撃が響いてフラガはうずくまり、その隙にクルーゼはキラの腕を振り払った。クルーゼもござを飛び出していく。
「フラガ先生!」
珍しく、キラの焦った声。
「…いいから、おまえも行け」
フラガはなんとか声をふりしぼる。
「無理しないでくださいね、先生。マリュー先生が泣きますから」
「ナマ言ってんじゃねーよ」
無理に笑って見せ、キラが出て行ってから、なんとか呼吸を整える。
ずたぼろじゃねーか、俺。
苦笑しながら立ち上がり、走り出す。
どんなにキツくても、せいぜいあと十分で終わり。一瞬の苦しさに負けて、十分後に後悔するのは御免だが…
アズラエルとアスランは既にハードルを飛び終わり、はしごを抜けようとしていたが、互いに妨害しあっていて、ひかかったまま揉めている。そこにクルーゼが追いつきかけていて、キラもすぐあとについている。
フラガの現在位置と、たいした差ではないような、取り返しのつかない差のような。とにかくトップはもう無理だ。
嘘か本当か、クルーゼは話すべきことは話したのだろうし、これ以上勝負の意味はない。
潮時かあ?
そう考えたとき、
「フラガ先生ー!」
フラガはいくつも重なる声援のなかから、聞き漏らすはずのない人の声を聞き取った。
「フラガ先生ー がんばってー!」
マリューが貴賓席を飛び出して、コースぎりぎりのところで、口元に両手をあてている。
「フラガ先生ー!」
顔を真っ赤にして叫んでいるマリューに、フラガはぽかんとしてしまった。
むきになったマリューは何度も見ているが、ひたむきな感情が真っ直ぐ自分に向けられているのは、ひょっとして初めてかもしれない。
「フラガ先生―!」
そんなに声を張り上げたら、あとで喉が痛くなるよ。マリュー先生。
フラガの顔は自然に綻んだ。
「いよっしゃ!」
一等賞は無理だと思うけど、最後までやりますか。
フラガは前を向き、ハードルへ走り出した。