(3)
「いやあ、おまえの近くにいると退屈せんなあ、フラガ」
上機嫌のバルトフェルドが愛車ラゴゥで現れたときには、二時を少しまわっていた。
ラゴゥは元はジープなのだが、あっちこっち改造されて装甲車のようになっている。助手席はアイシャの指定席、ボディカラーはイエローだ。
「なんでもいいから、さっさと開けやがれ、バルトフェルド!」
「いかんなあ。人にお願いするのに、そういう言い方では。なあ、マリュー先生もそう思いませんか」
「こらっ! 気安くマリュー先生に触るな!」
見えてないのに、やたら勘のいいフラガ。この際だからもっとからかってやろうと、バルトフェルドがフラガに聞かせるために、わざと大きな声でマリューに話しかけようとしたとき、つと、マリューのほうから近づいてきた。
「バルトフェルド校長。私からお願いします。どうか早く、フラガ先生を体育倉庫から出してあげてください」
真剣な顔で見上げられ、バルトフェルドは言葉に詰まった。
真っ直ぐ。
マリューのまなざしはそう形容するのが一番正しい。
…いやはや、まいったね。これはフラガがやられるわけだ。
思わず苦笑したバルトフェルドの頭に、アイシャの顔がちらりと浮かぶ。
ああ、勿論ボクにはきみが最高だよ、アイシャ。
律儀に心のなかで断りを入れてから、バルトフェルドはラゴゥに乗り込んだ。そして思い切りエンジンをふかす。はしっこに非難するマリュー、ナタル、ノイマン、トール、三人組。ノイマンが呟く。
「いいんですか、ナタル先生。扉、壊れますよ」
「請求書は理事長に送りつけてやれ」
開き直ったナタルはきっぱり言い切った。フラガも体育倉庫のなかですみっこに移動し、念のためミリアリアを自分の後ろに庇う。
「行くぞっ、フラガ!」
「いよっしゃあ!」
サイドブレーキを解除したバルトフェルドは、体育倉庫扉に向けてアクセルを踏み込んだ。
ぶろろろろ。(ラゴゥが急発進する音)
ぐわっしゃあああああん。(扉にぶつかる音)
きききーーーーーっ。(ラゴゥの急ブレーキの音)
扉は南京錠をつけたまま、ラゴゥに踏みつけられ、枠からはずれた。
体育倉庫は心持ち傾いているような気がしたが、その場にいた全員が気づかない振りをした。
立ち上る埃。
ごほっ、ごほっ、と咳き込む声。
「おまえなあ、もうちょっと丁寧に」
「贅沢言うな。芸術的な突入だったと、誉めてもらいたいくらいだ」
バルトフェルドがバックでラゴゥを体育倉庫から出す。さすがラゴゥにまったく傷はない。
「フラガ先生っ!」「ミリィ!」
フラガがミリアリアの肩を支えて出てくると、マリューとトールが駆け寄った。
「トールーーーっ、怖かったーーーーっ!」
「よしよし、もう大丈夫だよ、ミリィ。なんにも心配いらないからね」
抱き合うトールとミリアリア。
「フラガ先生、大丈夫ですかっ?」
フラガは、だいじょうぶー、とへらっと笑おうとしたが、目の前が暗くなって、地面に片膝をついた。
「フラガ先生っ!」
「あー、大丈夫」
心の中では、いたたたたた、と呟きながら、顔を覗き込んでくるマリューに、片目をつむってみせる。
「どうかなさったんですか? まさかどこか怪我でも?」
すかさずとぼけようとしたとき、マリューのうしろで、あ、とクロトが声を出した。
「昨日の襲撃のとき…」
黙ってろ、とフラガはクロトを睨むが、間に合わなかった。
「クロトくん、それはどういうことっ?」
マリューが立ち上がり、クロトのほうを向いた。
「まだ言ってくれなかったことがあるのっ?」
またもやのマリュー先生の涙目攻撃に、こちらも涙目になるオルガ、クロト、シャニ。
「だって~、マリュー先生が俺たちだけの先生になるって、あいつが言ったんだもん~」
膝をついたままのフラガのちょうど目線で、マリューの拳がふるふると震えている。
「マリュー先生、クールダウン~」
今度こそ聞こえる距離にいるのだが、聞いちゃいないマリュー先生。
「ゆ、許せないわ…アズラエル理事…!」
「いけませんよ、マリュー先生。今抗議に行ったりしたら、勝負から逃げるために、フラガ先生が言わせているのだと、言いがかりをつけられるだけですから」
ナタルが理論でマリューを止めてくれる。
味方になれば力強いなあ、ナタル先生、とフラガがありがたがっていると、ノイマンが白い錠剤とペットボトルを差し出した。
「どうぞ」
「おう。助かるわ。体育祭にドーピング検査がなくてよかったぜ」
水で薬を流し込む。
「朝より辛そうですよ」
「んじゃ、勝負が着いたら、マリュー先生に看病でもしてもらおうかなー」
ペットボトルをノイマンに返して立ち上がると、マリューが睨んでいた。
「なに馬鹿なことをおっしゃってるんですか。障害物競走なんて、とんでもありません」
「あー、でも、ほら。ここまで来て止めたら、逃げたとか言われるし」
「言われたから、どうだと言うんですか! 駄目です。先生はこれから私と一緒に病院です!」
マリューに右手首をぐいっと引っ張られて、ちょっと嬉しいが、やはり棄権する気にはなれない。
「だってさ、ほら、俺が出ないと、俺以外のヤツに天使長サマの唇が奪われてしまうわけだし」
「そんなことはどうでもいいでしょう!」
「いやあ、俺にとっちゃ大問題」
天使長が誰なのかマリューがもうわかっていると、フラガはまだ知らなかった。
知っていたら、たぶんそういうふうには言わなかった。マリューは手首を掴んだまま、真剣な顔でフラガを見つめた。
「障害物競走に出場のみなさま、入場門にお集まりください」
ミリアリアがいないので、カズイがアナウンスをしている。校内放送を聞きながら、フラガが左手の時計をちらりと見ると、二時三十分だ。
マリューの手をそっと払おうとすると、逆に左腕も押えられた。
「駄目です!」
「だーっ! だからあっ!」
女に勝負を止められるのは好きじゃない。たとえそれがマリューであっても。
だが、マリューはぐっとフラガに近づいた。
え?
マリューの顔がこれまでなかったほど近くにある。
と思ったときには、唇が重なっていた。
触れていたのはほんの一瞬だ。
気づくと、マリューはまた元の位置にいた。
「マ、マリュー先生…?」
あんまり驚いて、舌がもつれた。
マリューは眉を吊り上げている。
「これで先生が障害物競走に出る理由がなくなりましたわよね!」
まさに降って湧いた出来事に、夕べから一時も消えることのなかった痛さが吹っ飛んだ。マリューはまだフラガの両腕を押えていて、本人がどう思っているのかともかく、その一途な様子があまりに
可愛らしすぎて、フラガは笑い出しそうになった。
「マリュー先生」
「はいっ?」
力んで返事するマリューの腕を、今度はフラガが引き寄せ、唇を重ねた。
「んんーーーーっ!」
さっきのマリューからのとは、比べ物にならない濃厚さ。フラガとしては、角度を変えてもっと長く味わっていたいところだが、生憎時間がなかった。
ぱっと離れると、マリューの思考がはっきりする前に、とびきりの笑顔を見せる。
「今のは、前祝いってことで!」
「ちょっ…フラガ先生っ!」
マリューの腕のなかを抜けると、フラガは入場門へ向かって走った。
なんだかんだと、男の人というのは、競争が好きなのだ。
マリューは諦め半分、そう思った。
「…もうっ!」