(2)
どこに行っても人がいるので、校舎の裏に辿り着いたときには、マリューはほっとした。走っている最中に涙が零れてきて、誰にも見られたくなかった。
自分はどうかしている、と思った。
フラガに女友達がいるからといって、自分がこんな気持ちになることはないし、フラガにあたっていい理由にはならない。
そうだ。あんなふうに言ってしまって、フラガはどう思っただろう。
怒っているに違いない。
ぽろぽろ涙を零しながら、どうしよう、と怖くなる。
どうしよう、今から戻って、謝ってこようか。
でもこんな顔で、どうしよう、涙が止まらない。
だってフラガ先生がお昼に約束があるなんて言うから、だから私はなんだか気持ちが動転してしまって。
だって今日は体育祭で、いつもとは違うし、なのに綺麗な女の人と親しそうにお喋りなんてしていて、だから私はなんだかかーっとなってしまって。
考えているうちに、どんどん混乱してきて、益々涙が止まらなくなる。
「マリュー先生!」
ナタルの張りのある声をかけられなければ、そのまま家に帰ってしまったかもしれない。
「ナ、ナタル」
慌てて手でごしごし頬を拭うが、そんなもので隠せるものではない。ナタルは顔色を変えた。
「どうなさったのですか、マリュー先生。まさかアズラエル理事長になにかされたのですかっ!」
「理事長?」
思いがけない人の名が出て、マリューは首を傾げた。
「どうして理事が私になにかするの?」
「違うのですか? それではクルーゼPTA会長になにかっ…!」
またもやマリューは首を傾げた。
「クルーゼさんが、なぜ?」
「違うのですか?」
それでは、と考えて、ナタルにはそれ以上、マリューを泣かせるような相手を思いつかなかった。
一方マリューは気にかかる。
「ナタル、どうして私が理事長やクルーゼさんになにかされたと思ったの? 私が理事長の改革案に反対しているから?」
「…は?」
意図せず、マリューの天然ぶりに真正面からぶつかったナタルは、思わぬ問いに呆けてしまった。
「あの、マリュー先生。理事はあなたを何度もお誘いしましたよね」
気を取り直して、確認するナタル。
「ええ。あなたを通じて。私を懐柔しようとしたのでしょう?」
真剣に答えるマリュー。微妙にずれた認識に、もしかして、とナタルは考えた。
もしかして、この人は非常にニブいのでは…
それも、色事に関してだけ。
ではもしかして、自分が障害物競走の賞品になっていることにも気づいていないのでは…
ナタルは眉をきっと上げた。
「マリュー先生」
「はい」
「わかってらっしゃいますよね。障害物競走の勝利者にキスしなければならないこと」
「は?」
今度の、は? はマリューのものだ。
「なに言ってるの? ナタル」
ああ、やはり、とナタルは頭を抱えたくなった。
「勝利者にキスって、確か天使長がって理事長が仰ってたこと?」
「そうです。天使長とはあなたのことです。マリュー先生」
「え?」
ナタルは目を丸くしたまま固まってしまったマリューの肩を掴んで、がくがく動かしてやりたいと思った。
なんて無防備な人なんだっ!
ムウ・ラ・フラガっ! 貴様、あれだけこの人にくっついてまわっているなら、もっとガードして差し上げんかっ!
フラガは充分過ぎるほどマリューをフォローしている。単にそれを上回るほど、マリューが天然なだけだ。
天然ベースの無鉄砲がマリューの強みでもあるだけに、実に難しいところであるというか。
そしてナタルは歯痒さが高じて、なぜだか思考がマリュー寄りになっていることに気づかなかった。
「えええ?」
たっぷり一分経過後、マリューはようやく反応した。
「どうして私が障害物競走の勝利者にキスしなくちゃいけないのっ!?」
両の拳を握り締め、マリューは叫ぶ。
「だから、アズラエル理事長があなたのことを好きだからですっ! 理事長だけではなく、クルーゼ会長も、ですよっ!」
あなたが信頼しているフラガ先生も、と言おうとして、ナタルは武士の情けをかけた。
先日ナタルを脅したことは許しがたいが、フラガはマリューに対しては誠実だ。少なくともアズラエル理事長や、なにを考えているのかわからないクルーゼ会長よりは。彼らと一緒にされては、フラガも立つ瀬がないだろう。
マリューは天地がひっくり返ったかのようなショックを受けている。
「そんな…っ! アズラエル理事長に抗議してきますっ!」
「無駄です。開会式で宣言されたのですよ。今更無効にはできません。こうなったら、なにがなんでもフラガ先生に勝ってもらうのですね。もしくはキラ・ヤマトかアスラン・ザラに」
「ど、どうして?」
「フラガ先生なら、マリュー先生が嫌だということを強要しませんし、キラ・ヤマトとアスラン・ザラは、別に先生とキスしたくないでしょう」
人よりかなり大きなマリューの胸が、荒い呼吸と共に上下した。
「そ、そうね、ナタル。あなたの言うとおりだわ」
「あー、もう嫌になっちゃう!」
体育倉庫の前まで来て、ミリアリアは呟いた。
リレーのバトンの予備を取りに来たのだが、ぼやいたのはそんなことが理由ではない。
ザフトのディアッカとかいうヤツがまとわりついてきて、それだけでも鬱陶しいのに、ヤキモチを焼いたトールまでもがあれやこれやと言うので、ミリアリアはキレてしまったのだ。
「もーう! うるさいっ!」
そう言った相手は、長い付き合いのトールだった。トールは傷ついた顔をしていた。
「あー、もうヤダ。どうしてトールと喧嘩しなきゃなんないのよ!」
ちょっとカッコいいディアッカとかいうヤツにべたべたされて、ほーんのちょっといい気分になってしまったのも確かだ。
でもトールとは中等部の頃から付き合っているのだし、そんな簡単に心変わりするはずないのに、
まるで信用していないみたいに目を吊り上げて、そんなのヒドい。
でも、謝るなら早いうちがいい。
そう思って急いで戻ろうとしたところを、行く手をシャニに遮られた。
「なに。暇なら生徒会を手伝って。忙しいだから、私たち」
手で押し退けて前に進もうとすると、クロトが現れた。
「な、なによ」
また手で押し退けて行こうとすると、今度はオルガが現れた。
「な、なに」
三人はいつもと様子が違った。
「いやーっ! 離してよ、ばかっ!」
マリューを捜していたフラガの耳に、女子生徒の悲鳴が届いた。
「この声…お嬢ちゃんか!」
フラガは体育倉庫の方向に走った。
「離しなさいよ、ばかっ! こんなことして、マリュー先生に言い付けるからね!」
フラガが駆けつけると、ミリアリアが三人組に囲まれていた。
「止めろ、おまえたち、なにしてるっ!」
「フラガ先生!」
「ちぃっ!」
舌打ちする三人組のあいだから、半泣きのミリアリアの顔が見えた。
「いや、呼び出す手間が省けたぜ! ちょうどいい、フラガ! この女はおまえを誘き寄せるエサだ!」
シャニが叫んだ。
「おまえら、更正したんじゃなかったのか! マリュー先生が悲しむぞ!」
クロトがミリアリアの腕を引っ張った。
「きゃーっ!」
「お嬢ちゃん!」
ぶんっと振り回されて、ミリアリアは体育倉庫のなかに突き飛ばされた。
「きゃあっ!」
肩から跳び箱にぶつかったのが見え、フラガは慌ててそちらに走る。
「大丈夫か」
「は、はい、先生」
フラガがミリアリアを助け起こしたとき、がらがらがらっ、と体育倉庫の扉が閉まった。続いてがちゃがちゃがちゃ、と南京錠をかける音。
「やったぜ!」
「体育祭が終わるまで、そこにいな!」
「これでマリュー先生はぼくらだけの先生だー!」
そして三人が走り去るばたばたという足音。急に周囲が暗くなったので、フラガはミリアリアが動揺する前に、天窓の光が届くところに移動した。
「姑息だねえ」
天窓を見上げ、フラガはため息をついた。子どもを使って裏工作とは理事長もヤな手を使う、と思ってから、そもそも理事長は彼らを使って、マリューを学園から追い出そうとしていたのだと思い出す。
「先生ー、どうしよう」
ミリアリアは泣きそうだ。
「ああ、心配すんなって。どのみち体育祭が終われば、片付けのために人が来るから」
「でもそれまで誰も来ないですー。私が取りに来たバトン以外、足りないものはなかったですもん」
「やれやれ、だな」
「先生、緊迫感ない」
ミリアリアは口を尖らせた。
「もし体育祭が終わるまで出られなければ、先生、障害物競走に出られないんですよ。マリュー先生、フラガ先生以外の人とキスしちゃいますよ」
フラガは少しだけ顔をしかめた。
「大丈夫。まだ時間はある」
具体的な解決策はなにも思い浮かばない。唯一希望だと思えるのは、まだ昼休みに入る直前の時刻だということだ。障害物競走はプログラムの一番最後。三時頃の予定だ。
ちょっとばかし、仕掛けるのが早過ぎないか? ぼうずたち。
それがこちらに吉と出ることを願うしかない。
生徒会メンバーとザフトの面々に振る舞われた、マリューの手弁当は大好評だった。
一の重に稲荷寿司と巻き寿司、二の重に煮しめと蒲鉾、三の重に玉子焼きと焼き魚、四の重に手羽先と野菜のフライ、五の重にフルーツ。晴れの日なのでマリュー先生は頑張りました。
だって、フラガ先生がいっぱい食べると思ったんだもの…
食べ盛りの生徒たちが、遠慮の欠片もなく弁当を平らげていくのを、微笑んで眺めながら、マリューはまったく箸が進まなかった。
あれからやっぱり謝ろうと捜したのに、どこに行ったのかフラガは見つからなかった。
あの綺麗な女の人と、外に食べに行っちゃったのかしら…
考えるまいと思っても、つい考えてしまう。
付き合ってる人はいないと思ってた。
本人もそんなことを言っていた、ような気がする。
結局やっぱり、マリューはちょっと自惚れていたのだ。フラガがとても親切にしてくれるので、いつの間にかそれが当たり前だと思い込んでいた。
私にだけ親切なのが当たり前…
かーっ、とマリューは赤くなる。
「マリュー先生、どうされました?」
稲荷寿司を口いっぱいにほうばったイザークが、顔を覗きこんでくる。
「な、なんでもないの」
箸を握ったままの手で、マリューは頬を押えた。それから体操服の胸元に触れる。ペンダントの硬い感触が布越しに伝わり、こうすれば揺れる気持ちは必ず静まる。
…これまではそうだった。
早打ちする鼓動が掌に響いて、マリューは益々動揺した。
昼休みが終わりに近づき、すっかり空になったお重を片付けて、一同がござから立ち上がったとき、
青い顔をしたトールがやって来た。
トールはずっと姿が見えなかったのだが、ミリアリアと水入らずで弁当を食べているのだろうと、みんな思っていた。ディアッカを見て眉をひそめたトールだったが、思いを振り切るように頭を振ってから、マリューを見た。
「先生、ミリィを見なかったですか」
「いいえ。あなたと一緒ではなかったの?」
「昼休みの前から姿が見えないんです。あちこち捜したんですが…」
「ふられたんじゃないのお?」
ディアッカが横から口を挟む。
「なにを、こいつ!」
「トール、待て!」
ディアッカに掴みかかろうとするトールを、サイとカズイが羽交い絞めにして止めた。
「落ち着け、こいつを殴ってもどうにもならないだろう」
「そうだよ、殴り返されたらどうするんだよ」
説得力のある発言はサイ。後ろ向きな発言はカズイだ。トールは拳を握り締めたまま、それでも歯を食い縛って怒りをこらえた。
「マリュー先生、ミリィの弁当がロッカーにそのまま残ってるんです。クラスメイトもミリィと一緒じゃなかったし」
マリューはトールの肩に手を置いた。
「わかりました。捜しましょう」
午後の競技が始まったので、仕事のあるサイとカズイはトールに付き合えなかった。招待客であるザフトのメンバーも貴賓席に戻る。
「すみません。マリュー先生もお忙しいのに」
「いいのよ。そんなに長くミリィがいないなんて変ですもの。でもどうしたの? 喧嘩でもしたの?」
トールは気まずそうに俯いた。マリューは笑う。
「珍しいわね。いつも仲のいいあなたたちが」
「いろいろあるんです、ぼくたちも」
マリューはトールの背中をばーん、と叩いた。
「元気出して! あなたが悪いなら謝って、悪くないならミリィと話し合って!」
意外に強い力にむせながら、トールは頷いた。
「教室にはもう行ったのよね? 念のため、もう一回確認しましょう」
「はい」
ふたりが校舎に入ろうとしたとき、ちょうど校舎から出てきたノイマンと鉢合わせした。
擦りむいたとか捻挫したとか、大騒ぎの生徒達のお世話で今日のノイマンは忙しいはずだが、午後の競技が始まっているのに、こんなところでなにをしているのだろう、とマリューは思う。
「あ、マリュー先生。フラガ先生はどこにいますか?」
「フラガ先生?」
少しどきりとする。
「さあ、知らないわ。お昼になる前に保護者席にいらしたけど」
「そうですか」
ノイマンは、おかしいな、と呟く。
「見かけたら、保健席に来てくれるように言ってもらえますか」
「ええ。 …どうかしたの?」
余計なことと知りつつ、つい聞いてしまう。
「いえ、別に」
普段から口数の少ないノイマンだが、その短い言い方に、却ってなにかあるという感じがありありだった。マリューはきっ、と眉を上げた。
「なにか隠していますね。ノイマン先生」
おっとりぽややーんがマリューのすべてではない。こうと信じたら引かない強さにノイマンはたじろぐが、友人から分けてもらった痛み止めを渡すために、フラガを捜していたとは、言うわけにはいかなかった。
ノイマンとしては、そこまでして、たかが体育祭の一競技に出る必要があるのかと思うが、フラガが出るつもりである以上、マリューに怪我のことは話せない。
「えー、とですね」
真っ直ぐな視線で睨みつけられて、どう言い逃れたものかと考えていたノイマンは、がやがやと現れた三人組に助けられた格好となった。
「マリュー先生!」
「先生!」
「せんせいー」
子犬のように寄ってくる三人に、マリューの表情が緩む。
「まあ、あなたたち、今までどこにいたの? あなたたちの分もお弁当を作ってきてあったのに」
「あー、残念だったなあ」
理事長室で料亭取り寄せ会席料理の昼食を取るアズラエルに、フラガ排除の首尾を報告していたなどとおくびにも出さず、オルガが残念がる。
「これからはマリュー先生とずっと一緒にいるよ」
「あっちで座ろー」
クロトとシャニが両腕を取ろうとするのを、マリューはやんわり制した。
「待って。今はミリアリアを捜しているの。ミリィが見つかってから、ね」
「えー!」
三人が不満の声を上げるのを、トールが苛々した様子で見ている。
「マリュー先生、そんなことするより、俺らと一緒にいようよ」
「でもね、なにかあったら大変でしょう」
「マリュー先生、もう行きましょう。そいつらに言ってもわかりませんよ」
トールが校舎に体を向ける。マリューもあとを追いかけようとしたとき、
「なんだよ! どうせ捜したって見つかりっこないんだからさ!」
クロトが叫んだ。
マリューの足がぴたりと止まる。
「…クロトくん、それ、どういうこと?」
まさか、と思いながらも声が震える。
「ひょっとして、あなたたち、なにか…」
知っているの、と言い終わらないうちに、目が潤んでくる。
オルガ、クロト、シャニの三人は、それは大変手のかかる生徒だ。
遅刻早退は当たり前、何度も授業妨害をされたし、目の前で窓ガラスを割られたこともあった。それでもゆっくり話をしてみれば、三人とも根はいいコだし、ちょっとくらい、と言える範囲かどうかはともかく、グレても仕方のないような境遇で、一生懸命頑張っているのだとわかってきた。
だからマリューは誠意を持って接してきたし、最近ではかなり心を開いてくれるようになってきた、と思っていた。
「おい、おまえら、ミリィがどこにいるのか、知っているのか!」
トールがクロトの襟首を掴んだ。
「知らねえよっ!」
「じゃあ、なぜ今、見つからないって言った!」
「そんなこと言ってねえよ!」
トールを取り囲もうとするオルガとシャニのあいだに、マリューは入った。
「止めなさい。クロトくん。あなた、確かにミリアリアを捜しても見つからないと言ったわ。どうしてそんなことが言えるの?」
うるうるのマリューの瞳に見つめられ、クロトは言葉に詰まった。
「オルガくん。シャニくん。あなたたちは先生に言うことはないの?」
項垂れるふたり。マリューも目を伏せる。それは辛く、悲しそうに。
「そう…私には言えないのね…」
消え入りそうなマリューの呟き。校舎前のけやきの木から、ばさばさとハトが飛び立った。
「マリュー先生っ、ごめんなさいーーーっ!!!」
オルガ、クロト、シャニの三重奏が秋空に響き渡った。
ナタルは血相変えて走るマリューを見て、慌ててあとを追った。またもやアズラエル理事長がなにかしたのではないかと思ったのだ。まあ、今回の場合は当たっていなくもない。
「マリュー先生!」
「ナタル!」
「どうなさったんですか、どちらへ?」
「体育倉庫!」
叫んで、マリューは走り去る。真剣な顔をしたトールと三人組もついていく。ナタルは同じく走り去ろうとしたノイマンの白衣の裾を掴んだ。
「待て、ノイマン先生! これは一体どういうことだ?」
「え? あ、いえ」
ナタルに真正面から睨みつけられ、ノイマンはしどろもどろになった。
たいていの人はノイマンが口数が少ないとわかると、無口な人に対する態度で接してくれるのだが、一本気なナタルだけは誰に対しても同じ、従って答えを要求しているときは、答えるまで勘弁してくれない。
「実は、女子生徒とフラガ先生が、理事長の陰謀により、体育倉庫に閉じ込められているそうでして…」
「なにっ!」
ナタルが目を吊り上げた。理事長派のナタルにまずいことを言ったか、とノイマンが後悔した途端、
「なにをしている、我々も行くぞっ!」
ナタルは体育倉庫に向かって走り出した。
一方、只今密室状態の体育倉庫。
「お嬢ちゃんは、あいつらに呼び出されたわけ?」
呼べど叫べど誰も来ないので、諦めて跳び箱の上に座ったミリアリアは首を横に振った。
「バトンの予備を取りに来たんです」
「そんじゃ、バトンを探しにそのうち誰か来るか」
フラガはマットの上に胡坐をかいている。
「予備ですから、なくても困らないですもん」
「そっか。でも心配して彼氏が来てくれるんじゃないの」
ミリアリアはしょんぼり俯く。
「トール…。私のこと、怒ってるかも」
「なんだあ、喧嘩でもしたのかあ」
「違いますー」
「まあ、喧嘩するほど仲がいいって言うけどなあ」
「だから違いますってば。 …私が悪いんです」
ミリアリアは運動靴の踵で、跳び箱をとんとんと蹴る。
「じゃあ、さっさと謝っちゃえ」
「簡単に言いますよねー。先生は好きな人と喧嘩したらすぐに謝ります?」
「さてねー」
フラガは掴み所のない笑みを浮かべる。
「じゃあ、たとえばですよ。マリュー先生と喧嘩したら、先生どうするんですか?」
「しないからねえ。喧嘩」
「しないんですか?」
「ああ」
涙目のマリューの顔が頭に浮かんだことなど、まったく表情に出さない。
「そっか。やっぱ、大人は違うんだー」
「そうそう」
かなり嘘だが、先生の面子というものもあるし、そういうことにしておこう。
さって、どうしようかなあ、とフラガは天窓を見上げた。腕時計を確かめると、二時を少しまわっていた。そろそろなんとかしないとヤバい。
「お嬢ちゃん。自力脱出を試みるかい」
「え?」
ミリアリアが目を丸くした。
マットを積み上げて、その上に跳び箱を乗せれば、天窓に手が届く。高飛びのバーを振り上げて、窓を割って、屋根の上に出て飛び降りる。
「ええっ、そんなことして大丈夫ですか?」
「んー、割った窓は給料からの天引きで、弁償ということで」
ミリアリアには暢気に笑って見せるが、内心では、またどっか怪我するかもしれねえなあ、と思っている。
さっきから、腹のあたりがずきんずきん痛い。気休め程度には効いていた痛み止めの効果が、完全に切れたようだ。できれば競技の前にノイマンに会って、薬をもらいたい。
「じゃあ、私もお手伝いします」
ミリアリアはきびきび動いて、マットを積み上げ始める。フラガも跳び箱を動かそうとしたとき、外が騒がしくなった。
「フラガ先生、そこにいらっしゃるんですかっ!」
マリューの声だった。フラガとミリアリアは扉に駆け寄った。
「フラガ先生、返事してくださいっ!」
どんどんどん、とマリューは扉を叩く。
「マリュー先生! フラガ先生と私はここにいます!」
ミリアリアが叫んだ。
「ミリィ!」
トールの声だ。
「トール、トール、来てくれたのね!」
「ミリィ、怖かっただろ! 待ってろ。今、出してやるから!」
南京錠をこじ開ける音がするが、鍵がなくてはどうにもならない。
「オルガくん、鍵は?」
マリューの問いかけに、理事長に渡した、と小さな声で答えるオルガ。
「取り返してきます!」
「しらを切られるだけですよ、先生」
ノイマンがマリューを止める。
「でも、じゃあ、どうしたらっ」
フラガがなかから、どんどん、と扉を叩いた。
「マリュー先生!」
「はいっ、フラガ先生!」
「バルトフェルドが戦車みたいな車に乗ってきてるはずだ! それでここに突っ込んでくれ!」
さすがフラガ先生。短絡的にして過激な作戦だ。
「わかりました。では、私がバルトフェルド校長を呼びに…」
「だから駄目ですって、マリュー先生。先生が貴賓席に行ったら、こっちでなにかあったとばれて、邪魔されるに決まってますよ」
低い温度で尤もなことをおっしゃるノイマンだが、だから俺が行きます、とは言わない。
「だからなんだというのっ! こんなことは許されません!」
マリュー先生、クールダウン~
体育倉庫の中でフラガは呟くが、外のマリューには届かない。マリュー先生~、と心細げな三人組。
闇討ちしてきたり、女子生徒を巻き込んでこんなところに閉じ込めたり、いいかげんにしろよ、と言ってやりたい三人だが、理事長に首根っこを押えられている、結局はただの子どもであるし、突っ走ろうとしているマリューを心配している点では、フラガと気持ちは同じだ。
マリューがノイマンを振り切ろうとしたとき、
「私がバルトフェルド校長を呼びに行ってまいります!」
ナタルが声を上げた。
「マリュー先生は行くべきではありません。却って事体がややこしくなります。あなたという人は、そんなこともおわかりにならないのですか!」
マリューは目をぱちぱちとさせた。
「ナタル…」
言葉はきついが、マリューの代わりに行ってくれるということは、理事長を裏切るということだ。ノイマンも驚いた顔をしている。
「ナタル、いいの?」
ナタルは怒ったように眉を吊り上げ、それから困ったような顔で笑った。
「あなたには、負けます」