理事長参戦

ちょろちょろちょろちょろ。かっこーん。
料亭といえばししおどし。
侘びさびの深遠、日本庭園を望む座敷で、胡坐を書いて猪口を口に運ぶホスト、ではなくAA学園理事長ムルタ・アズラエル。
向かい合うのは、同じくAA学園数学教師ナタル・バジルール。
こちらは箸さえ持たず、並べられた料理を睨みつけている。別に料理に恨みがあるわけではなく、理事に対する不快感を、料理に向けているだけだ。
「なにしてるんですか。いくら見てたって、食べなきゃ減りませんよ」
かくいうアズラエルも、料理にはまったく手をつけず、さっきから酒ばかりをあおっている。勿論ナタルは酌などしないので、手酌だ。
「なんだってあなたの仏頂面を見ながら、酒を呑まなきゃならないんでしょうねえ。あーあ、本当ならマリュー先生がそこに座っているはずだったのに」
ぶつぶつ言われても、ナタルもぶつぶつ言いたい気分なので、益々不快になる。
本日アズラエルは、いつものごとくナタルを通してマリューにデートを申し込み、いつものごとく断れた。
一昔前のマニュアルくんのような理事長は、暮れなずむ街を、運転手が運転するオープンカーでドライブしたあと、高級料亭に連れ込む、という本人のなかでは寸分の狂いもない計画を用意していたのだが、肝心のマリューが来なくてはなんにもならない。
「あなたも少しくらいは呑んだらいかがです。愛想のない」
「私は飲めませんので」
本当は少しくらいなら平気だが、この男の前で酔いたくない。
さっきアズラエルが席を外したときに奥の座敷を覗いてみたら、布団が二組敷かれていた。もちろんナタル用ではなく、マリュー用だ。
あまりの恥知らずさに頭に血が昇ったナタルは、「うおりゃあああっ」と気合一発、瞬時の早業で布団を日本庭園の奥深く、暗がりのなかに投げ捨てた。
もしもなにかの間違いでマリューがこの場に来ていたら、どういうことになったのか。考えるだけで恐ろしい。
何度も主張しているが、ナタルは決して個人的にマリューが嫌いなわけではない。アズラエルが普通にマリューに好意を抱き、普通に申し込むのならば、担任になりたいという目的のためにも、理事長に協力するのもやぶさかではなかったが、このような犯罪のような手口は許せない。
まったく、もう…と酒が進むにつれ愚痴っぽさが増すアズラエルに、ナタルは冷たい視線を向ける。
「諦められたらいかがですか。マリュー先生はあなたには気がありませんよ」
「なんですって?」
若き理事長の手のなかの猪口が、激しく揺れた。
「マリュー先生は、体育のフラガ先生に、毎日手弁当を作ってあげているそうです。ここまで言ってもまだわかりませんか」
猪口から酒がどばっと零れた。目をかっと見開き、アズラエルは激しく全身を震わせている。
「な、なんですって…?」
「ですから…っ!」
真面目なナタルは繰り返し説明しようとしたが、誰が考えても火に油。
「て、ててててて…」
「ててて?」
だからナタル先生、そんなに真面目に聞き返さなくとも。フラガがいればそうつっこんだに違いない。
「てて、手弁当ォ…? それはマリュー先生が自ら作られたという、そういう意味での手弁当ですかァ?」
動揺のあまり語尾が不自然に跳ね上がり、口の端がぴくぴくと痙攣しているが、そんなことはナタルには関係ない。
「手弁当にそれ以外の意味があるのですか? 私は数学教師なので国語には精通しておりませんが」
ナ、ナタル…。
理事長の端正な顔が極限まで引きつる。生まれてこのかた金で雇われた使用人に囲まれて、仕事だからと、彼らが適当におべんちゃらを言うのを真に受けて育ったお坊ちゃまは、地球は自分のために回っていると思っている。
こういう手合いはキレやすいし、キレたら怖い。なにせ金と権力だけは持っているのだ。
「マリュー先生…っ! このボクが優しくしてあげているというのに、つけあがったことを…っ!
こうなったら、力づくでマリュー先生をぼくの花嫁に…っ!」
「…理事っ! なんということを!!」
小鉢の二、三個を飛ばしながら、ナタルは勢いよく立ち上がった。そのとき、胸ポケットに入っていた携帯電話が鳴り、舌打ちしながら、電話に出たアズラエルの表情が変わる。
「…きみは誰です?」
「あなたに協力する者だと思っていただけたら、遠からず、というところかな」
携帯電話の通話の声は意外に響く。どこかで聞いた声だとナタルは思ったが、思い出せなかった。
「場所を変える。少し待て」
アズラエルはそそくさと席を立つと、襖を開けて廊下に出た。取り残されたナタルには、あとはアズラエルが短く相槌を打つ声しか聞こえなくなった。
「わかった。それでは」
ぴっと通話を切りながら、座敷に戻ってきたアズラエルは、ついさっきの取り乱しが嘘のように余裕が戻っていた。そのあまりの急変振りに、ナタルは途惑う。
「ナタル先生」
「は、はい」
「AA学園の体育祭。確か来週でしたね」
「そうですが」
「PTA、職員合同の障害物競走に、ボクは出ますよ」
「はあ?」
なにを言ってるのだ、この人は。
「出場に関しての手配はきみがしてください。いいですね」
「はあ」
妙にうきうきとした理事長を不気味に思いながら、ナタルは頷くしかなかった。

次の日登校したフラガは、マリューの顔を見るより前に、サザーランド教頭に呼び止められた。
フラガをはっきりと校長派と認識してからは、嫌味な目つきで嫌味なことを言って、絡んでくるようになっていた教頭だが、今日はなんだか様子が違う。妙にいそいそとフラガに近づいてきて、気持ち悪い。
「あー、フラガ先生。先生が昨日おっしゃってた障害物競走の件だが…」
「はあ」
その件なら昨日けんもほろろに、フラガの頼みを断ったではないか。
フラガが出れば一番になるのがわかっているから、そんな興醒めはPTAに失礼。不登校のキラを、体育祭の生徒用でない種目に出すことも不許可。
確か決断に、三秒とかかっていなかったはずだ。
「あれから考えたのだが、いやあ、いいねえ。これは盛り上がるよ!」
肩をばんっ、と叩かれて、フラガは顔をしかめた。
おっさんに触られるとそうなる、条件反射だ。
「盛り上がる、でありますか?」
前世の記憶か、目上の者にはつい軍隊口調になるフラガ。
「PTA会長と我が校きってのスポーツマンの対峙。そしてそこに天才少年がどう絡むか。うーん、実にいい!」
こんな上機嫌の教頭は見たことがない。
 教頭、夕べなんか悪いもん、食ったんじゃ…そんなら保健のノイマンのところに連れてってやるのが親切かな、などとフラガは考えた。
「そこでだ、フラガ先生。さらにスーパースペシャルゲストの登場だ!」
今度は両肩をばしっと叩かれ、フラガはまた顔を歪めたが、嫌な予感のせいも幾分あった。教頭が誉めまくる相手といえば、ひとりしかいない。
「ひょっとして、理事長、ですか」
「おおっ、よくわかるな!」
わからいでか…
朝っぱらから急に疲労感が襲ってくるのに、フラガは懸命に堪えた。
「かまいませんが、自分は理事長が相手でも手加減しませんよ」
「勿論理事長は真剣勝負でとおっしゃってる。なにしろ公明正大なお方だからな」
どこがだよ。
「スペシャルイベントなので、障害物競走は体育祭の一番最後にもってこようと思う」
生徒競技を差し置いて、そんなもん最後にもってきてどうすんだよ。
「プログラムはもう出来上がってますが」
「当日アナウンスででも訂正すればよろしい。いいね。では頼んだよ。フラガ先生」
へーへー。
要所要所でつっこみながら、フラガは眉間を指で押えていた。そこに、
「フラガ先生。なんかプラントの生徒が、先生に会いたいって来てますけど」
職員室から英語のチャンドラが顔を出し、その横からザフトの赤を着た少年が現れた。
「アスラン!」
礼儀正しく、アスラン・ザラはお辞儀した。
「おはようございます、フラガ先生。今日はお願いがあって伺いました」
予感がして、フラガは思わず一歩引いた。
「AA学園体育祭でのPTA、職員合同障害物競走に参加させてください」
…やっぱり。
眉間を押えたまま、フラガは体勢を立て直した。
「あのな、アスラン。おまえは今プラントの生徒だろ?」
「はい。ですから、プラント学園からの友好使節として参加します」
そんな無茶な、と言いかけたフラガを押しのけて、教頭がアスランの手を取った。
「聞いているよ、アスランくん! 是非とも体育祭で、AAとプラントの平和を取り持ってくれたまえ!」
聞いているって、誰からなのか。ひょっとして、理事長か? 理事長がどうしてプラントの生徒が体育祭に参加することを許可するのか。これもクルーゼが裏で糸を引いていることなのか? そもそもクルーゼの意図は一体なんなのだ?

Posted by ありす南水