3 嵐の予感

AA学園中等部は高等部に隣接している。フラガは昼休みを利用して、中等部職員室に顔を出し、フレイ・アルスターを呼び出してもらった。
本当はどこか空いている教室を借りて話をしたいのだが、相手がクルーゼの継子であるので、なにがどう出るかわからず、人の目の多い職員室のすみっこが最適だと判断した。
「私ぃ、パパからぁ、フラガ先生とは口きいちゃいけませんって言われてるのぉ」
まっかっかの髪の毛を触りながら、フレイは口を尖らせた。中等部のアイドルと言われるだけあって、ルックスは満点だ。
フラガはいきなり核心から突くことにした。
「そのパパなんだけどさ、仕事はなにをしてんの?」
「しらなーい」
「ふうん」
露骨にならないように注意しながら、フレイの様子をチェックする。この娘は決して馬鹿ではない。そう見せたほうが可愛いと思っているから、間延びした話し方をするだけで、頭の回転は速い。
「学校に出ている書類には、不動産管理とか書いてあるけど、出かけたりはしないのかな?」
「だって私も学校に来てるもん。そのあいだにパパがなにしてるかなんて、しらないもん」
尤もだ。
「じゃあさ。きみのパパ。いつもサングラスをかけてるだろ」
「うん。私も素顔を見たことがないのぉ」
そうなのか。
「サングラスじゃなくてさ、みょーな仮面とかつけてることはない?」
「うん、あるぅ」
フレイはあっさり答えた。
「あるんだ」
「先生も見たぁ? かっこいいでしょー?」
同意できないときには黙る。コレ、大人の鉄則。
フレイー、と友人が呼びに来たので、フレイは座っていた椅子から立ち上がった。
「あ、もうひとつだけ。きみ、キラとつきあってたの?」
「やだー、先生ったらぁ。ほんのちょっと、仲良かっただけなのにぃ」
しかし一瞬フレイの目が光ったことを、フラガは見逃さなかった。
「そうなんだ」
「だってあのコ、可愛いでしょー? 天才とかって、かっこよかったしぃ」
「好きなんだ?」
「んー、そんなんじゃないの。それに私、サイと婚約してるしぃ。お星さまになっちゃった前のパパの遺言だからぁ」
あー、つまりはちょっとしたつまみ食い。遊びだったというワケね。
子供同士の泥沼に首を突っ込むほどフラガも暇ではない。
もー行っていいですかぁ? と訊ねるフレイに、行ってよし、と許可を与えた。

予鈴が鳴り響く中、ぶらぶらと高等部に戻ってきたフラガは、校門の前でハルバートン校長に出くわした。
「おや、校長」
大学部の教授も勤める校長が、高等部に来るのは珍しい。今日はいないが、最近では理事長の方が学校に来ているくらいだ。理事長の目的がなんであるかは最早言うまでもないが、一応言っておくとマリュー先生だ。
「お久しぶりですね。学会がお忙しいと聞いておりましたが?」
「そちらはなんとか一段落ついてね。こちらの様子はどうかね」
「相変わらず、です」
「そうか。相変わらず、か」
校長は大きく息を吐き、フラガと並んで歩き出した。
「来年の入学試験について、本格的に準備を始めなければならない時期なのでね。理事会との戦いが待っているよ」
「戦い、ですか」
「理事長は強制的に保護者から寄付金を集めようともしていてね。まず入学生から、と目論んでいるのだ」
「なるほど」
出来るだけニュートラルな立場でいたいフラガなのだが、すっかり校長派だと思われている。まあ、あれだけマリューにくっついていて、理事長の恋路を邪魔していれば、そう思われても仕方がないだろう。
先日のオペラの件では、コンサートが始まってからボックス席に入ってきたシャニをマリューだと思い込んだアズラエルは、いきなり抱きついて、自慢のお顔をばりばりにひっかかれていた。
それがフラガの差し金であることは、別に隠しもしなかったので、とっくにばれている。
「教職員の意見をひとつにまとめておきたいので、今日五時から職員会議を行う。先生も出てください」
「はあ」
校長派と理事長派は、半々くらいか、マリューの努力のおかげで、やや校長派が多いといったところだ。
「どうせならもっと、校長の息のかかった教師を、送り込まれてはいかがですか」
マリューひとりに、重責をのしかからせるのはいかがなものか。
「そうしたいのは山々だが、理事長も教頭を押えて妨害してくるのだ」
あー、そりゃそうだろうね。
「きみがマリューくんを、色々助けてくれていることは聞いている。これからもよろしく頼む」
頼まれなくても、マリュー先生のお世話はいたしますが、と思いつつ、
「わかりました。ところで校長、ちょっとお願いがあるんですが…」
と、ちゃっかりフラガは、クルーゼのことを調べてくれるよう、校長に頼んだ。
こんなまどろっこしいことをするのも、頼りにならない旧友のせいだ。
プラント学園高等部校長であるバルトフェルドに電話して、おまえんとこでクルーゼが先生してるー? と訊いて見たらば、いやあ、ボク、真剣に仕事してないからそういうコト、わかんないんだよねー、と実に気の抜ける返事をもらった。
んじゃ、調べろよ、すぐわかるだろ、と言っておいたが、その後奴の趣味であるコーヒーの薀蓄をひとしきり語られたので、多分もう忘れられている。今晩会う約束をしたが、再度言ってみても無駄だと思う。そういう奴だ。
校長が職員室に入っていくと、マリュー先生の顔が綻んだ。
「ハルバートン校長!」
子犬が尻尾を振って飼い主に駆け寄るような、という表現がぴったり。マリューの性格を知らなければ、不倫カップルかと思うほどの慕いようだ。
マリュー先生、ファザコンかなー、と、校長によしよしされて嬉しそうな様子を見て、フラガは思った。

「いらっしゃいませー」
カランカランとベルが鳴り、笑顔のダコスタくんが出迎えてくれる。カフェ「レセップス」はバルトフェルドがオーナーの、ダコスタくんがマスターを勤めるお店だ。
なんでいい大人が夜会うのに、場所が喫茶店なんだ、と酒豪のフラガは嘆くが、渋くていい男、と若い頃から評判だったバルトフェルドは、一摘もアルコールを受け付けない体質だ。
「よう、フラガ」
奥の席から手招きするのは、日焼けした件の友人。
「わりぃ、遅れた」
これまで比較的おとなしくしていた理事長派が、新入生への寄付金について、はっきりと理事に味方したため、職員会議は紛糾した。
会議の行く末などより、マリューが段々険しい顔になっていくのが、フラガには気になった。終わってから声をかけたかったのだけれど、校長となにか話し込んでいたので出来なかったのが心残りだ。
「さて、なんにするかね」
バルトフェルドが問うのは、食事のメニューではなく、コーヒーのメニューだ。
「どうせなに選んでも、砂漠の虎スペシャルブレンドを飲ませる気だろ」
「わかるかね。では、ダコスタくん。それを。あと、適当に食べるものをな」
はいっ、と昔っからバルトフェルドの一の手下であるダコスタくんが、元気よく返事する。
フラガとバルトフェルドには共通点もあるが、フラガは基本的に群れない体質で、対してバルトフェルドは昔からいつでも配下を引き連れていた。引き連れる、ということは世話をする、ということだ。そういうきめ細かさはフラガにはない。
「さて、では聞かせてもらおうではないか」
「なにを」
「隠すな。アイシャから聞いたぞ。うちの学園祭で女性連れだったそうではないか」
「あー」
あさっての方向を見ながら、フラガが呟く。
「勿体つけるのか? おまえの連れらしからぬ、控え目そうな女性だったそうだが」

控え目ねえ…

おそらくアイシャは地味とでも表現したのだろうが。
確かにマリューはフラガがこれまで付き合った女たちに比べれば地味だ。これまで付き合った女たちがけばかったと言うべきか。
「マリュー先生はそんなんじゃないんだよねえ」
いや、アイシャの評には、いくらか女の意地悪が入っていると見た。派手さはないがマリューは美人だし、ナイスバディだ。なにより中身が美しい。
「お、なんだ。同僚か」
「まあな」
「連れてこい。週末はボクはいつもこの店にいるぞ」
てめえの本職は一体なんなんだよ、と内心だけで突っ込むのは、やたらと弁の立つこの男と、どうでもいいことで一晩議論したくないからだ。
フラガ自身もガキの頃から一人暮らしで、ほかから見ればどういう素性なのかわからない、怪しげな奴だろうが、バルトフェルドも負けてはいない。
実はフラガは、バルトフェルドがいくつかも知らない。
多分少し年上だ。フラガが街をふらふらしていた頃、彼は既にOB扱いだった。再会したのは数年前に、バルトフェルドがプラント学園の校長に就任したときだ。
得体の知れない奴だぜ、とフラガは自分のことを棚に上げて思った。
「おまたせしましたー」
笑顔のダコスタくんが、砂漠の虎スペシャルを運んできたので、一旦話が途切れる。
正直、ありがたい。今の段階では、べらべらとマリューのことを友人に喋りたくはなかった。
フラガのこれまでの人生で、これほどまでに長期間片思いでいたことはないし、それが楽しいなどということも経験したことがない。
手に入るものは素早く頂くし、手に入らないものは即座に諦める。自分にキツくないように世間を渡っていくための鉄則は、フラガにとっては大切なものだったが、ことマリューに関しては一度も適用したことがなかった。
そんなフラガの様子をじっと眺めていたバルトフェルドは、コーヒーカップを口に運んだままにやりと笑った。
「遂に本命登場、か?」
「さあて、ね」
「ほう、そうかそうか。うーん、それは益々その女性を見たいものだ。AA学園を訪れる用事でもでっち上げるかな」
AA、プラント双方理事長が最悪の関係だということを、すっかり忘れているか、あるいは本当に知らない。
こいつ、俺がマリュー先生と手も握ってないと知ったら、大笑いするだろうな。
さすがにうまいコーヒーを啜りながら、フラガは思った。

バルトフェルドが「彼女に」と特別にブレンドしてくれたコーヒー豆を持って、フラガは翌朝職員室に向かっていた。
昨年度までは運動部の朝練を終えたあとは、朝礼までの時間を体育教官室で過ごしていたが、マリューがいるので、今では真っ直ぐ職員室だ。
なんだかんだとどちらも多忙なので、うかうかしていると、一日顔を合わせないこともある。少しでも時間ができれば、朝礼前なら職員室、そのあとならば国語教官室に足を向けるフラガの健気な努力に、マリューはまったく気づいていない。
足取りも軽やかに職員室の手前まで来て、踊り場で誰かが話をしているのに出くわした。様子を伺うまでもなく、マリューとナタルだとわかった。
「ですから、どうして先生はそんなに生徒に甘いのですか! 生徒の自主性などに任せていては、効率が悪すぎます!」
決して怒鳴っているわけではないが、切り口上なので、ナタルの声は大きく聞こえる。
「でもナタル、体育祭は生徒が主役なのだし、彼らの希望を取り入れて、実行させてみるのも勉強のうちよ」
対するマリューの声も硬い。
「そうして生徒を増長させ、出来もしないことを出来ると錯覚させるのです! なにかあった折には、どうなさるおつもりか!」
「私が責任を取ります」
即座に言い切られ、ナタルが怯んだ。
「私が担任として責任を取ります。それでいいかしら、ナタル」
きりりと眦を上げ、一歩も引かない構えのマリュー。
「…わかりました。そのお言葉、お忘れなきよう」
ナタルはマリューにくるりと背を向け、三センチヒールの踵を廊下に響かせ、職員室に入っていった。残されたマリューは職員室の扉がぱしん、と閉まる音を聞いてから、大きく息を吐いた。
「マリュー先生」
フラガが声をかけると、きゃっ、と飛び上がる。
「あ、ごめん。びっくりさせた?」
「フラガ先生。…おはようございます」
マリューの顔から力みが抜ける。フラガは畳み掛けるように笑った。
「おはよ。大丈夫? 朝から熱いバトルだったね」
マリューはほんの少し頬を歪める。
「見てらしたんですか?」
それから苦笑を浮かべる。
「原因は?」
「生徒たちが体育祭のお昼休憩のあいだ、自分たちの好きな音楽をかけたいと言ってきて、私は許可したんですけど」
「副担任サンは反対だったわけね」
まあそのくらいはよさそうなものだが、何事も決めたとおりに進まなければ気のすまないナタルからすると、生徒にしゃしゃり出られて体育祭の進行が滞るのを恐れているのだろう。
「あんまり気張りなさんな。音楽かけるくらいで、そうそう問題が起きるとも思えないし」
「…ですね」
少し冷静になったのか、マリューは上目遣いにフラガを見た。
普段のマリューに比べるとちょっと媚を含んだ視線で、これをされるとフラガは頼られていると感じて嬉しくなる。
「そうそ。そだ、これ渡しに来たんだった」
はい、あげる、と、フラガはマリューの手にコーヒー豆を押し付けた。
「友人にコーヒー狂いの奴がいてさ。うまいよ、結構」
「まあ、でも、悪いですわ」
「いいって。俺も貰いモンだし、コーヒーは夕べそいつの店で、嫌ってほど飲んだからさ」
実際何杯飲まされただろう。バルトフェルドに会ったあとは、フラガはしばらく紅茶党になる。
「お友達はお店をなさってられるんですか?」
「そう。あいつ下戸だからさ、メシ食うっていったら、専ら奴の店でコーヒーと喫茶店メニューなんだ」
マリューはじっとコーヒー豆の小さな袋を見つめてから、顔を上げた。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく頂きます」
「うん」
フラガは職員室に行こうとしたが、マリューが動かないので振り返る。
「マリュー先生?」
「フラガ先生。ちゃんと栄養を考えて、お食事されてます?」
「え?」
自分でも唐突だと思ったのか、マリューの頬がさっと赤くなる。
「いえ、あの。さっき、喫茶店メニューでご夕飯って、おっしゃってたから」
ああ、とフラガは片手をひらひら振った。
「馬鹿は風邪引かないって言うでしょ。俺、それみたいだから、ほっといてもすこぶる健康。食べるものに気を配らなくても、大丈夫だから」
「ダメですよ、そんなの。今はよくてもこれからの健康には影響あるんですから」
「んなこと言っても、俺一人暮らしだし、自炊とか面倒だし」
まあ、と呟いたきり、マリューは黙った。心なしか眉をひそめて、怒ったように見える。
「えと、マリュー先生?」
「わかりました」
「え?」
「これから私がお弁当を持ってくるときは、先生の分も持参いたします」
「えっ!」
どうしてそういうことになるのだろう。いや、筋道などはどうでもいい。マリューが手弁当を食わせてくれようというのだ。それもどうやら毎日。だってマリューはほとんど毎日お弁当派だ。
「えーと、嬉しいけど、…ほんとにいいの?」
ああ、好意は素直に受け取っととけ! なにを念押ししてるんだ、俺の馬鹿っ!
己を罵倒するフラガの心の叫び。
今ひとつ強引になりきれないのが、情けなくも、ありのままのフラガなのだから仕方ない。
しかしマリューはそんなフラガのいかなる思いも意に介さず、力強く頷いた。
「先生になにかあったら、私、困りますから」
「そっかー、じゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」
そして微妙な間。
えーと、

今、マリュー先生、なにかすごい重大発言をしなかったか…?

マリューも鈍いが、そんなマリューにつられるのか、フラガもかなり鈍くなっている。マリューの方も、自分がなにを言ったか、じんわりとわかってきたようだ。
フラガとマリューは互いに顔を見合わせ、一歩近寄ろうとした…

その時っ、

「おはよーございまーっす」

化学教師のトノムラが、フラガとマリューのあいだを通り抜けた。
一気に消え去るふたりの世界。
「あれ? どうしたんですか? 朝礼始まりますよ」
あっ、いけない、と叫んで、マリューは職員室に走っていく。

ああ、マリュー先生…せっかくいい雰囲気だったのに…

フラガの嘆きは、勿論マリューには届かない。
「フラガ先生も、遅れると教頭、うるさいっすよー」
「トノムラ…」
フラガはトノムラの肩を、がしっと掴んだ。
「あとで体育教官室に来い」
「へっ?」
フラガはぐぐぐっとトノムラの肩に指を食い込ませる。
「…おまえに先輩教師に対する、敬い方ってもんをじっくり教えてやるよ」
地の底を這うようなフラガの低い声。トノムラの背中を、朝っぱらから冷たい汗が流れた。
造作は悪くないのに、ぼけーとした表情のために、かなり損をしているトノムラ。
そのトノムラの表情が恐怖に引き締まり、いつもより男前になったが、そんなことは多分本人には少しも嬉しくなかったであろう。

急に具合が悪くなったトノムラ先生の欠席が告げられたほかは、特に変わったこともない、いつもの朝礼だった。
一時間目に授業がないので、体育教官室に戻ろうとしたフラガを、電話を取っていた書道のパルが引き止める。
「フラガ先生ー! 校長先生からお電話ですう」
ぱぱっとフラガに集まる、教頭以下理事長派の方々の視線。
いつの間にやら、フラガも立派な校長派だ。内心は果てなく中立なのだが、致し方あるまい。
マリューが何事か問いたげにフラガを見たが、予鈴が鳴ったので、教科書を持って教室に向かう。
なんでもないよ、というつもりで、フラガはマリューに微笑みかけた。
律儀な校長は、クルーゼについて早速調べてくれていた。どっかの虎とは大違いだ。
「え、いるんですか?」
受話器を押えて、思わず聞き返してしまうフラガ。教頭が聞き耳を立てているので、つい内緒話の姿勢になってしまう。
校長によると、ラウ・ル・クルーゼという教師は、プラント学園に存在する。英語の非常勤講師で、毎日というわけではないが、週二三回教壇に立っているらしい。
「念のため経歴も確認したが、間違いなくクルーゼPTA会長のようだ」
ハルバートンも驚いていた。
どうやらクルーゼは、隣の学校、しかもバルトフェルドのお膝元で、なんの偽装工作もしないで働いているらしい。
まあバルトフェルドはあんなだからともかくとして、週に一回喧嘩を売りに会いに来るフラガに、本当にばれないと思っているのだろうか、クルーゼは。

 あいつ絶対、俺のこと馬鹿だと思ってるよな…

どう思われようと痛くも痒くもない相手だが、心底頭が悪いと思われているらしい事実に、ちょっと傷ついたような気分になる。
「どうするかね、なんならPTAにこのことを説明するかね」
「いえ、この件は私に預からせていただけませんか」
少し気になることもあるので、と付け加え、フラガはハルバートンから許可をもらった。
クルーゼがプラントで働き出したのと、両校の理事長の関係がさらに険悪になった時期が重なり、無関係ということはないだろう。
フラガ自身いろいろワケありなので、詮索されるのもするのも好まない。クルーゼも昔から知っているし、いろんな噂、主に悪い噂を聞きもしたが、気にしたことはなかった。
「決着着けるときかも知れないなあ」
受話器を置いて、フラガは呟いた。
クルーゼだけでなく、その他のことも。

「ナタル先生、ちょっといいか?」
一時間目と二時間目のあいだ、十分の休憩時間にフラガは数学教官室に行った。次の授業の教科書を用意していたナタルは、眉を寄せた。
「…なんでしょうか。私は急ぐのですが」
「俺も授業だよ。だから手短に言うけどさ、あんまりマリュー先生を苛めないで?」
元々不愉快そうだったナタルの顔が、益々不愉快そうになる。
「苛めてなどおりません。教育理念の違いから、意見しているだけです」
「わかりますけどね。そこをちょこっと曲げてもいいんじゃないの。マリュー先生も一生懸命なんだからさ」
ナタルが手にしていた教科書を、叩きつけるように自分の机に置いた。
「フラガ先生は、生徒の一生がかかった学校教育というものをどうお考えかっ!」
「どーもこーも。学校教育は万全じゃないしさ。人生寄り道するときもあるでしょうに。たとえばきみにだって?」
「私は、…ありません」
ナタルが少し詰まる。
「そーだよなあ」
フラガはにやりと笑う。
「真面目一筋、教師一家の出のナタル先生に、そんな後ろ暗い過去なんか、あるはずないよなあ」
ナタルの顔が青くなり、フラガは扉の前に腕を伸ばして逃げられないようにする。元々この切り札を使うつもりだったので、数学教官室に誰もいないタイミングを狙った。
ナタルはなんとか気力を取り戻し、拳を握り締めて叫ぶ。
「あ、当たり前ですっ!」
「だよなあ。厳しい両親に反発して不良グループに入るなんて、そんなこと、ナタル先生がするわけないよなあ」
「フ、フラガ先生っ!!」
今やナタルは蒼白だ。
「な、なんということをおっしゃるのですっ…! あなたがそのつもりなら、私にだって考えがありますよっ!」
「待った待った。相打ちする気はないよ」
フラガは両手を挙げた。
「ただ、俺はほーんのちょっとだけ、お願いしてるだけ。きみだって心底理事長派というわけでもないんでしょ」
再びナタルは詰まる。
理事長とナタルの教育理念が合うとは思えない。というか、あの理事長に教育理念などあるのだろうか。
ナタルは悔しそうに俯いた。
「姑息な…」
血を吐くようなナタルの呟き。
「よもやかつてのエンデュミオンの鷹が、こんな姑息な男に成り果てていようとはっ…!」
いや、俺、元々こんな感じ。とは火に油を注ぎそうなので、フラガは言わなかった。
この学園にナタルが新卒で入ってきたときには、フラガも驚いた。
昔フラガがそれはそれは楽しく、表と裏の生活を使い分けて遊んでいた頃、彼の裏の方の後輩だったのがナタルだ。
ティーンの三つ下は大きく、ナタルから見たフラガは非常に大人だったらしく、大層可愛らしく慕っていただいたが、その後すっかり表の顔一筋に厚生したナタルは、再会してもまったく知らん振りを押し通してきた。
人の嫌がることをわざわざする趣味はないので、これまではフラガも気づかない振りをしてきたのだが、そろそろマリューとの確執を見過ごせなくなってきた。
方向性は違うが、ふたりとも教育に命を賭けて理想に燃えているという点において、同じに思えるので、余計に無駄な争いをしていると感じる。
「んじゃ、俺、授業に行くわ」
フラガはあえてナタルから言質をとらずに、その場を引き下がった。

Posted by ありす南水