恋する理事長
「突っ返されたとは、どういうことです?」
「言葉どおりの意味です」
理事長室で、ナタルはムルタ・アズラエル理事長の顔を見据えた。
昨年AA学園の理事長となったブルーコスモスコンツェルンの若き総裁、早い話が同族企業のお坊ちゃまは、一見したところホストのようだ。愛用のヴェルサーチのスーツがヤングエグゼクティブ(死語)というより、どうもお水っぽい。
アズラエルがふんぞり返って座っている机の上に置かれているのは、本日午後開演のオペラのチケット。ボックス席のプレミアものだ。
「理事長にこのように高価なコンサートにお誘いいただく理由がないので、どなたか別の方と行ってくださいと、マリュー先生はおっしゃっておられました」
あくまで事務的に淡々と話すナタル。対するアズラエルはやや顔をひきつらせている。
「そこをなんとかするのが、キミのお仕事じゃないんですかねえ?」
「私は数学教師です。あなたの恋路を手助けする義務はございません」
「そんなこと言っちゃっていいんですか? マリュー先生がボクと結婚して退職したら、あなた、念願の担任サンになれるんですよ?」
ナタルはぐっと詰まった。
「そ、それは…!」
「ハルバートン校長がボクのやり方に反抗して送り込んできたマリュー先生を、いつまでもそのままにしておくこともできませんしねえ」
AA学園は、幼稚園から大学までの一貫教育を行う名門校だ。生徒の自主性を重んじる校風で育まれた才能を生かし、卒業生には各界で活躍する者も少なくない。
だが派手に宣伝することをむしろ避けてきたので、学校経営という点では損もしていないが、利益も上げていないというのが現状だ。
アズラエルはこの学園を有名にして、資産家の子女を多く受け入れ、寄付金を集めようと考えていた。勿論そんなことをすれば、これまでの学園の雰囲気は壊れてしまうので、反対する勢力もある。
筆頭がハルバートン校長だ。校長は大学部の教授でもあり、高等部に常勤しているわけではない。そこで愛弟子であるマリュー・ラミアスを送り込んできたのだった。
アズラエルはAA学園二番校ドミニオンから札付きと言われた三人の生徒をマリューのクラスに転入させ、数々問題を起こさせたのだが、いつの間にやら三人はすっかりマリューになついてしまい、まったく役に立たない。
どういうことだと息巻いて学園に乗り込んできたアズラエルは、自身もマリューに撃沈された。
数回会って話をするうち、すっかりマリュー先生ファンクラブの一員である。しかしナタルを介してしかお誘いできないあたり、お坊ちゃまの限界か、この男も案外情けない。
「とにかくまだ時間はあります。もう一度チャンスをあげますから、チャレンジしてみてください」
自分はなんにもしないのに、口だけは回る理事長に対し、込み上げる不快感を、ナタルは拳を握り締めてこらえた。
ナタルは別にアズラエルの言うように担任になりたいわけではない。
いや、なりたいのはなりたいのだが、理事が思っているような、マリューに勝ちたいという理由ではない。ナタルにはナタルなりに目指す教育というものがあり、それを実行するために、自分のクラスを持ちたいのだ。
マリューも人間としては悪くないとは思う。だが教師としてはどうか。
昨日もキラ・ヤマトの家に行ったようだが、たったひとりの不登校天才少年にかまけて、その他の生徒をないがしろにしている、とナタルの目には映る。キラには学力の心配はないのだから、担任としてマリューにはもっとほかにすべきことがあるはずだ。
黙っていられない気質のナタルは、何度もそのように意見したが、そのたびにマリューは困ったように微笑み、「そうね」というのみだ。
私ならばもっと、効率よく生徒に接し、学力を向上させてあげられる…!
理事長室を出たナタルは、再び手元に戻ってきたコンサートチケットを胸ポケットに収めながら、
これも理想の実現のための試練だと、頭を切り替えた。
国語教官室の前で、ナタルがうろうろしているのをフラガが見かけたのは、放課後のことだ。
一本気でなにをするときにも迷いのないナタルの、そんな姿は珍しい。
「なにやってんの?」
声をかけると、ナタルはまずいところを見られたという顔になった。わけあってフラガは普段からナタルに避けられているが、それとは違うようだ。
「入れば? マリュー先生ならいるよ」
フラガ自身も、放課後のマリュー先生との語らいに訪れたのだ。
「いえ、結構です。失礼します」
顔をそらせて立ち去ろうとしたナタルは、フラガと擦れ違いざま封筒を落した。反射神経のいいフラガが中身の飛び出したそれを拾う。
「なんだあ? チケット?」
「あっ…!」
フラガは勝手にチケットを見ている。
「眠そうなコンサートだな。あ、今日じゃんか。行くんなら、もう出なきゃなんねえだろ」
「それは私のではありません!」
ナタルはフラガの手から封筒をひったくった。
「じゃ、誰のさ?」
「誰のって…」
歯切れの悪いナタルの様子に、フラガはひっかかる。ずいっと腕を伸ばして、再び封筒を取り上げる。
「なにをなさるのですか!」
「これが誰のか言ったら、返してあげるよ」
生徒以下のレベルであるが、真面目なナタルはまともに受け取った。
「…それはアズラエル理事長から、マリュー先生へのプレゼントです」
「なんだとっ!」
フラガの手の中で、ぐしゃっと封筒が潰れる。
「約束です。返してください」
「なんでそんなものをきみが持ってるんだ!」
「私は…頼まれて」
「理事長にか。よっしゃ、わかった。これは俺が預かる」
ナタルは眉をひそめる。
「なんだよ、その顔。マリュー先生に渡せばいいんだろ?」
「…本当に渡していただけるんですね」
半信半疑だが、ナタルもこの気の乗らない役目から解放されたい。
「おう、任せとけ!」
フラガは勢いよく言い切った。
「ほら、ここ点が抜けているわ。やっぱりきちんと十回ずつ書き取りしなくちゃ」
フラガが国語教官室に入ると、マリューの柔らかい声が聞こえた。
「うざーい」
「うざくないの。ちゃんとやればできるんだから。さ、がんばって」
「激馬鹿!」
「そんなこと言っちゃいけません。誰にだって苦手なものはあるのよ」
「あはは、叱られてやんの」
「なにをっ!」
仲がいいんだか悪いんだかわからないドミニオン学園からの転入生三人は、お互いの襟首を掴んで臨戦態勢だ。
彼らは三人とも孤児だ。
それぞれの父親はアズラエルコンツェルンの社員だったが、不祥事の責任をとって自殺している。ちなみにすべて別の不祥事の詰め腹、トカゲの尻尾切りで、真に責任を取るべき人物はほかにいる。
家庭が崩壊し、行き場を失った彼らを、アズラエルがもったいぶって養育したが、親切心からなどではなく、言いなりになる手下が欲しかっただけだ。
ばんっ!とマリューが国語辞典で机を叩く。
「オルガくんもクロトくんもシャニくんの邪魔をするなら、出て行ってもらいますよ!」
「えー、なんでシャニだけ特別扱いー」
「シャニくんは補習を受けてるんです。あなたたちも自習のために残っているんでしょ?」
いや、違う。こいつらマリュー先生にまとわりつきたいから残っているだけだ。
フラガはそう思うが、マリューにはわからない。
「ああ、でももうこんな時間。シャニくん、あとは宿題にするから、明日私に見せてちょうだい、ね?」
そこでフラガはようやく、マリューに気づいてもらえた。
「あら、フラガ先生」
「や、ちょっといいかな。手、出してくれる?」
「はい?」
と言いながらも、マリューは素直に右手を出してくれた。その上にぽん、と封筒を置き、それからすぐに引っ込める。
ナタル、これで約束は果たしたぜ。
確かにチケットをマリューに「渡した」そのあとすぐに回収してはいけないとは言われていない。ほとんど幼稚園児レベルだが、フラガは気にしない。
「なんですの?」
「いや、気にしないで」
と言いつつ、ノートを片付けていたシャニの首に腕を回し、ぐぐっと引き寄せる。
「おっさん、やめろー」
「おっさんじゃねえっての。おい、おまえ、音楽好きだよな」
「あ? 好きー」
「んじゃ、いいもんやるわ。あと三十分で開演だからさ、急いで行けよ」
シャニの返事を待たず、シャツのポケットにチケットをねじ込み、マリューに聞こえないように耳打ちする。
「いいか。絶対行けよ。詳しい説明は端折るが、これはマリュー先生のためだ」
シャニの目がきらりと光る。
「マリュー先生の…!」
「おうとも!」
シャニはフラガを見つめると、大きく頷いた。
こいつらに理屈はいらないなー
マリュー先生を守るためなら生徒さえも利用する。よく考えれば、教育者としてどうなの?というそれがフラガという男。
シャニはオルガとクロトを置いて、猛ダッシュで国語教官室を出て行った。