さくら
「すみません。職員室はどちらでしょうか」
呼び止められて振り向いたフラガの前に、スーツ姿の若い女性。そのあまりのきちんと感に、彼女の正体はすぐに知れる。
「職員室はあっちだけど、新任の先生?」
持っていた竹刀で本校舎を示し、実にアバウトに教えるフラガに、はい、と女は微笑む。
「新学期からこちらでお世話になります。国語を担当するマリュー・ラミアスです」
ふーん、とフラガは不躾な視線でマリューを見た。
アズラエル理事長とハルバートン校長の対立は、教職員を理事長派と校長派に別れさせている。
実質的に職員室の実権を握っているサザーランド教頭が、理事長に味方しているため、対抗させるために校長が自分の肝いりの教師をひとり、送り込んでくると噂されていた。
どんないかついおっさんが来るのかと思えば。
目の前の女はほっそりしていて、とても派閥争いの只中に、切り込んでいくようなタイプには見えない。
フラガ自身は理事長からも校長からも、距離を取っているので、心配しているというよりまったくの興味本位。
「フラガ先生ー、剣道部の稽古が終わったんなら、サッカー部のほうに来てくださいよー!」
グラウンドから走ってきた生徒が叫ぶ。
運動部のかけもち顧問をしているフラガは、春休みもほとんど毎日登校していて、却って忙しいくらいだ。
「すぐ行くから、ちょっと自主トレしてろ」
「えー、きれいな人と、さぼってるなんてずるいですよー!」
フラガはおいでおいでで手招きして、たったったっと、近寄ってきた生徒の頭を竹刀でこつんと叩いた。
「いてー!」
「くだらんこと言うんじゃねえよ。ついでにこれ、片付けとけ」
竹刀を押し付けられた生徒がぶつぶつ言うのを無視して、フラガはマリューに向き直った。
「校舎に入って、右手の階段を上がったら職員室。進路指導室の一個奥だから」
「ありがとうございます。…体育の先生でいらっしゃいます?」
こんなにジャージが似合っていて、数学教師だったりしたら詐欺だろう。
「そう。ムウ・ラ・フラガだ。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
笑うときも眉をきりっと上げたまま、なかなか凛々しくてよろしい、とフラガは思った。
じゃ、と行こうとすると、
「あ、待って。フラガ先生」
「?」
「あ、そのまま」
マリューの腕が伸びて、フラガの肩甲骨のあたりにそっと触れた。
「はい」
指で摘まれた花びらが、フラガの掌の上に落とされた。
「今年は咲くのが早いですね」
校庭の桜が入学式を待たずに満開で、風に吹かれて揺れている。
薄く色づいた桜の花びらは、柔らかな風に乗って、ふわりと舞い上がった。
些細な出来事なのに、なぜだかその後フラガが忘れることはなかった。