まるごとカレー物語(上)
「具は鍋から引き上げて、出来るだけ小さく切って。一割くらいはそのまま残すのを忘れないように」
「はい」
「そのまま残したのは、別の鍋で茹でて火を通して」
「はい」
「切った野菜は俺に渡して」
「はい」
克哉はみじん切りにした野菜を、横に立つ松浦に渡す。
御堂のマンションの広いキッチンは普段から使い良いが、 成人男性の標準サイズよりはるかに大きい男ふたりが並んで立っても、まったく窮屈ではない。
松浦は野菜をフードプロセッサーにかけた。
「じゃがいもは粘り気が出るから入れない」
「はあ…」
克哉は力なく頷いた。
ことの起こりはMGNにかかってきた一本の電話だった。
「…松浦さん?」
「会って話がしたい」
松浦はプロトファイバーの営業をしていたときの取引先の担当者で、大学の同窓でもある。
しかし克哉がキクチを離れてからは会っていないし、そもそも学生時代も親しくなく、仕事以外の話をしたことがない。
克哉が途惑っているのが伝わったのか、松浦は付け加えた。
「本多のことだ」
克哉がすぐに辞めてしまったバレー部で、本多と松浦は主力選手だったが、なぜだか今は疎遠になっている。
なんだろう。なにがあったんだろう。仕事が終わってから指定された喫茶店に行くと、松浦が待っていた。
「カレーのことだが」
松浦はいきなり切り出した。
「は? 本多のことじゃなくて?」
意表を突かれて克哉は途惑ったが、松浦は神経質そうに頬を引きつらせた。
「本多の作る、カレーのことだ」
「ああ…まるごとカレー?」
途端に、松浦が先程とは比べ物にならないほど顔を歪めた。
「君はあれを、絶賛したそうだな」
「え? 絶賛? ええっ?」
「うまいうまいと言って、おかわりまでしたそうじゃないか」
「ええっ!? してないよっ!」
おかわり、とはひょっとして克哉が少し食べたら、本多が継ぎ足していったあれを言うのだろうか。
「あれは本多が勝手に…って、あれ。じゃあ、松浦さん、本多と話をしたんだ」
松浦は気まずそうに目を逸らしたが、その様子はどこか照れているようだ。
「今度の日曜、あいつの参加している草バレーを見に行くことになった」
「松浦さんもプレーするんですか?」
「そこまではあいつを許していない」
松浦とのあいだになにがあったのか、克哉は本多からは聞いていないが、おそらく深刻な問題なのだろう。
それでも本多の名前が出ただけで拒絶反応を示していた松浦が、休日を本多に付き合うだけで大進展だ。
「えーと、でも。それとカレー? どう関係が…」
克哉が疑問を口にすると、松浦は飲みかけのコーヒーカップをかちゃんと置いた。
「練習のあと、カレーパーティだ」
「え、それって」
そこでとうとう松浦は押さえていた感情を爆発させた。
「本多特製まるごとカレーパーティだ!
克哉も気にいったカレーを、チームのメンバーにふるまうんだと張り切っていたぞ、本多は!
どうしてくれるんだ、佐伯さん!」
「どうって言われても…」
困る。
「オレ、別に特に気に入ったわけでは…」
「そうなのか?」
「はい」
松浦はいいとは言えない目つきで克哉を見た。
「遂にあいつの思いが通じたのかと思ったんだが…」
「はあ?」
「いい。独り言だ。
それよりカレーだ。本多は自分のカレーが君にも受け入れられたと思って、自信を深めている。
だが俺はあんなデリカシーのないものを食べさせられるのは御免だ。
そこで佐伯さん」
片手を上げて克哉は遮った。
「あのさ。オレたちタメだし、今仕事絡みでもないし、さん付けはやめないか?」
呼び捨てで気安くするのも違和感があるが、さん付けも妙な感じがする。
いいだろう、と松浦は頷いた。
「では佐伯。
本多を調子に乗らせた責任を取れ」
「責任って言われても」
「本多が作ったカレーを手直しする。
チーム全員分なので半端な量じゃないから、俺ひとりでは重労働すぎる。だから手伝え。
嫌とは言わせないぞ。とにかく本多は、克哉も気に入ったカレー、を連発していたんだからな」
そして土曜日の午後、克哉は松浦とキッチンに立って、本多制作のまるごとカレーの改善作業に勤しんでいる。
聞けば松浦は学生時代からずっとこんなことをやってきたらしい。
必要な道具は揃っているということで、当初は松浦の部屋に行くはずだったのだが、御堂が
「ひとり暮らしの男の部屋へなど、絶対に行かせるわけにはいかない。それくらいならうちに呼べ」
と言うので、松浦には金曜の夜本多が作った寸胴鍋いっぱいのカレーと、諸々の調理器具を抱えて来てもらった。
松浦は克哉がMGNの上司と一緒に住んでいると知っても、まったく驚かなかった。
本多は知ってるのかと尋ねられたので、うん、まあ、と答えると、
「失恋か。いい気味だ」
とわけのわからないことを言った。
克哉は松浦の指示通り、「改善作業」をこなしくいく。
要するに松浦はまるごとカレーの生煮えの「まるごと」が気に入らないのだが、具を切ったりすると本多に気づかれる。
そこで細かくすり潰し、圧力を加えて煮溶かしてしまうわけだ。
カモフラージュのまるごと野菜は完全に火を通し、最後に鍋に戻す。
そうすると翌日食べる頃になると、おたまで押さえれば形が崩れ「不可抗力」としてまるごと皿に盛らなくてもすむ。
「こんなことを、学生時代、ずっとしてたのか、松浦」
「おまえは合宿に来なかったから知らなかっただろう。
前日に作ったほうがうまいから、と本多を言いくるめ、夜中にこっそり味を調えていた俺の苦労を」
なにもそこまでしなくても…と克哉が思ったそのとき、
「すいません、佐伯さん。作業工程を記録させてもらってもいいですか?」
川出がキッチンに入ってきた。
「オリジナルの一皿分、サンプルとしてラボに持ち帰らせてもらいます」
「本気ですか、川出さん」
「勿論です。
少し冷めると煮こごり状になるコラーゲンが素晴らしい。
しかも豚足から摂取しようなんて、目からうろこです」
痛いような松浦の視線を感じ、克哉は俯いた。
豚足は松浦にとって忌々しい、煮溶かしてしまえない唯一の食材だ。
克哉は川出にうっかりまるごとカレーの話をしてしまった、自分の迂闊さを呪う。
新商品の「きれいになれるレトルト食品」の開発に行き詰っていた川出は、是非ともそのカレーを見てみたい、と言い出した。
一室の関わっているプロジェクトゆえに、御堂は駄目だとは言わなかったのだが、意外にも川出は松浦同様、 克哉が御堂の部屋に住んでいることになんの反応も示さなかった。
それどころか「妻が持たせてくれまして」と美味しそうな箱詰めの桃までくれた。
デジカメとハンディカメラを駆使して、川出は克哉と松浦の作業を記録していく。
松浦は別鍋でカレーを新たに作り、減った分を足して元の量に戻し、完璧にしかも確実にまるごとカレーを「改善」していく。
ここまでやっているなら、本多が四年間、自分のカレーに松浦が手を加えていることに気づかなくても無理はない。
「いっそのこと、本多と協力して作ったほうが楽なんじゃ…」
「あいつが人の言うことに耳を貸すと思うか。
どうでもいいことはチームワーク重視で、大事なことは独断専行だ」
確かに本多にそういうところもなくはないが、松浦はかなり手厳しい。
「それにいるんだ。
十人にひとりくらい、本多が作ったカレーが大好きだ、という人間が」
「ええっ!?」
「ああ、じゃあ私がそのひとりでしょうか」
「か、川出さん…」
ちなみに寸胴鍋の中身を一目見ただけで、御堂は黙り込んでしまった。
見た目ほど味はすごくないから、と一口進めても、眉間に皺を寄せるばかりで、川出が
「でも部長、これはインスピレーションの宝庫です!」
とやや興奮した様子で言うに到り、仕事の一環として渋々味見した。
「味はともかく、見た目が許せない」
それが御堂の寸評だった。
確かに、これを外せば本多にバレてしまうのでどうすることも出来ない、最後に鍋に戻した豚の足。
見慣れるうちに哀愁漂っている気がしてきたそれが、どうにもこうにも異様だ。
「てっきり佐伯も十人にひとりなのかと思ったが」
克哉はぶんぶんと首を横に振った。
「バレー部の歴代キャプテンが、なぜだか全員本多のカレーのファンだった。
俺も毎回手を加えられたわけじゃない。
奴らは俺が手を入れていないカレーのときは大絶賛し、手を加えたときにはいつもと違うと首を捻っていた…」
「そ、そうなんだ」
部活を途中で辞めたことは、中途半端な自分の生き方の象徴のようで、些か後ろめたく思っていた克哉だったが、このとき初めて、
早くに辞めてよかったかも…
と思った。
部屋いっぱいに広がったカレーの匂いを抜くために窓を開け、遅めの昼食には寿司を取った。
デザートは川出の手土産の桃。
克哉に御堂、川出に松浦、というなんとも不思議なメンバーは、意外に和やかに食事を進めた。
「佐伯さんはバレー部だったんですね」
「ええ、まあ、オレはすぐ辞めたんですけど。
本多と彼は主力選手だったんですよ」
克哉が川出の視線を松浦のほうに誘導すると、松浦は表情を変えずに言った。
「続けていれば佐伯もレギュラーになっていた」
へ? と克哉は箸を止めてしまった。
「佐伯になかったのはやる気だけ」
それはともかくやる気がなかったのは本当なので、克哉は曖昧に笑い、御堂に見られているのにも気づかないふりをした。
通りに出てタクシーをつかまえる、という松浦について、克哉は風呂敷に包んだ鍋を抱えて、マンションの下までついていった。
その他圧力鍋、フードプロセッサーなど、松浦はよくこんなに持ってここまでひとりで来たものだ。
「明日、楽しいといいね」
流しのタクシーが通るのを待ちながら克哉が言う。
松浦は顔は前を向いたまま、目だけを克哉のほうに向けた。
「おまえも本多のカレーと同じだな」
「え?」
松浦の言うことはいちいち不思議だ。
「ある種の人間に物凄く好かれる」
なんとなくここは返事をするべきところではないと思い、克哉は黙った。
「おまえ、あの時期にバレー部辞めてよかったんだよ」
「なんで」
「一年のときも合宿来なかっただろ」
「やる気なかったから…」
「別にいい。来てたら事件になってた。おまえのこと狙ってるヤツがいたから」
「……」
今度はなんと言っていいかわからず、黙った。
事件とはなんだろう。
話の流れからして「接待」を思い出してしまい、
御堂さん、ごめんなさい! そんなつもりじゃないんです!
と心のなかで謝った。