日常風景
卵に絡まるバターの匂いが鼻をくすぐった。
重い目蓋を開けて寝返りを打つと、御堂の隣には誰もいない。
キッチンで朝食を作っているのは克哉なのだから、当然だ。
からだを起こすと、少しだるかった。
昨夜接待した取引先の重役がヘビースモーカーで、隣の席で延々煙を吸わされた。
そのときから喉がいがらっぽかったが、夜中になって出始めた咳が明け方まで止まらくなってしまった。
子どもの頃喘息を患った御堂は、今でも気管支が丈夫ではない。
克哉の知るところでそんなふうになったのは初めてで、御堂が咳いていることに気づいた克哉は、おろおろしていた。
たいしたことはないから気にするな、と言われても、うるさくて眠れなかっただろう。
御堂のほうは克哉の胸に頭を抱かれて、いつのまにか眠りに落ちたようだ。
パジャマの上に羽織ろうとカーディガンを探したが、いつもの場所にない。
「あ、御堂さん、具合どうですか?」
テーブルにオムレツを運んでいた克哉は、朝の挨拶より先に問いかけた。
「ああ、もういい」
答えながら、御堂は克哉がTシャツの上に着ているカーディガンに目をやった。
御堂が探していたカーディガンだ。
克哉が休日着る服は大部分が御堂と兼用なので、時々こういうことが起こる。
付き合い始めた頃、御堂の服を着ると一日中抱かれているようで落ち着かないと克哉が泣いたことに気を良くした御堂が、 調子に乗って自分の服を強制的に着させているうちに、いつしかそれが当たり前になった。
「スープ作ったんです。喉、湿らせたらいいかなと思って」
コンロの前に戻った克哉を、御堂は後ろから抱きしめた。
「…御堂さん、危ないです」
克哉は動揺を隠そうとしているが、声が震えている。
「肌寒いんだが。君にとられたからな」
「えっ、あ、これ。じゃあ、脱ぎますっ」
「もういい。こうしていれば温かい」
なにか言いかけて、途中で無駄だと思ったのか克哉は口を閉じた。
「寝足りてないんじゃないのか」
柔らかい髪と耳の感触を頬に感じながら、御堂は言う。
克哉はくすぐったさを耐えて、触れている側の肩を少し上げた。
「平気です。昨日はその、…してないから」
「なんだ。不満だったのか?」
両脚のあいだに足を割り込ませると、克哉は反射的に暴れた。
本当に危ないので、後ろに引っ張ってコンロから離れさせる。
「御堂さんっ。これから会社行くんですよっ」
「私は君にカーディガンの代わりをしてもらっているだけだが」
「だから返しますって。御堂さん、体調あまりよくないんですから、ぎりぎりまでゆっくりしていてください」
そういう気遣いは、どんなときでも勝っていたい御堂にはありがたくない。
弱味は見せたくない。見透かされているとわかっていても。
思わずむきになりかけると、克哉がからだを預けてきた。
「克哉?」
「今は、その、ダメですけど。 …今日は早く帰れますよね?」
目を伏せ、頬を染めて俯く顔に、御堂は思わず直前の感情を忘れた。
「朝っぱらからなにを考えてるんだ、君は」
耳元で囁いてから、御堂は克哉を解放した。
いかに無意識で挑発されようと、克哉の言うとおりこれから会社に行かねばならないので、ここで押し倒したりは出来ない。
人の理性を試しておきながら、克哉は裏切られたような表情をした。
「シャワーを浴びてくる」
「はい…」
いい加減慣れてもよさそうなものなのに、克哉は毎回御堂に形ばかり突き放されると、この世の終わりのような顔をする。
かわいそうに思うのと同時に可愛いすぎるので、御堂は態度を改めることが出来ない。
バスルームの入り口で、また咳が出た。
自分の軟弱さが腹立たしく、顔を歪めていると克哉が飛んできた。
「御堂さん、病院行ってくださいっ」
「大丈夫だ」
おたまを握り締めてなにを涙目になっているのか、と思うが、ちょっと迫力に気圧された。
「悪い病気だったらどうするんですか。また喘息だとか」
「ここのところ忙しくて疲れてたところに煙を吸わされて、喉に来ただけだ。珍しいことじゃない」
「あなたになにかあったら、オレはどうしたらいいんですかっ!」
大袈裟な…と思うものの、こと御堂に関することでの克哉の暴走は、容易なことでは止まらない。
「御堂さんになにかあったら、オレ、死…」
御堂は克哉の口を掌で塞いだ。
「どうして君はそう、縁起でもないことをすぐ口にするんだ」
「…だって」
「口ごたえするな」
「…はい」
「いい子だ」
唇にキスを落とされて、克哉は笑顔になった。
そういう顔は好きなのだが、あまりに容易く快楽でごまかされるのは、どうかと思う。
試させるつもりは毛頭ないが、克哉はおそらく御堂以外の誰かとセックスしても悦ぶだろう。
口でなんと言っても、からだで感じたことが克哉にとってすべてに優先する、と御堂は踏んでいる。
だから余計に独占欲に火がつく。
「やっぱり病院、行かないんですか?」
朝食を食べながら、克哉は上目遣いにシャワー浴びて身支度をすませた御堂を見た。
「午前中の予定、調整しますけど」
一度引いても諦めない。
この粘り腰は仕事をする上で克哉の優れたところだが、プライベートでも御堂に対してよく用いられる。
たいていのことは「御堂さんのいいように」だが、こうと思ったことだけは思ったように運ぼうとする。
病院に行かずに今夜一回でも咳をしたら、救急車を呼びそうだ。
「…わかった。そうしてくれ」
御堂が負けると、克哉は嬉しそうに笑った。
その顔がキスのときとは違う種類で幸せそうで、ついうっかり御堂も同じように笑ってしまった。