甘い生活
ドアが開く気配がして、克哉は耳からイヤホンを引き抜き、テキストを放り出してキッチンから玄関に走った。
「おかえりなさい、御堂さん。雨、濡れませんでした?」
返事が返ってくる前に抱きついた。
おかしいな、と思わないではなかった。
普段ならそうしたら腰を引き寄せてキスしてくれるのに、そうではなかったからだ。
でも仕事に御堂を取られて、土曜の大半をひとりで過ごした克哉はちょっとがっついていた。
首の後ろに腕をまわして、克哉からキスをする。
ごとん。と、なにかがドアにぶつかる大きな音に、え。と思って唇を離すと、御堂は少し目元を赤らめていた。
今度は口に出して「え」と言った。
なにが御堂にそんな顔をさせたのか。不自然に背けられた顔とは違う方向を見て、克哉は驚愕した。
「ほ、本多…っ!」
親友本多が、玄関ドアにへばりついて、顔を真っ赤にして目を見開いている。
御堂がぼそりと呟いた。
「…傘を貸してやろうと思ったんだが」
「えっ! 御堂さんが、本多に!?」
今日の打ち合わせに本多もMGNまで来ることは、克哉も知っていた。
御堂によると、仕事事体は昼過ぎに終わり、そのあとふたりはいつもの如く口論していたらしい。
今、四時だよな。
とちらりと時計を見た克哉は、
そんなことしてないで早く帰ってきてくれたらいいのに。
と思ったが、とりあえず説明を聞く。
口論に疲れ果てたふたりが帰ろうとしたところ、土砂降りの雨が降っていることに気づいた。
御堂は車だからいいが、本多は電車だ。
駅まで歩かねばならないし、最寄り駅からアパートまでも歩かねばならない。
舌戦を繰り広げたあとに、なにか芽生えたものでもあったのか、そう錯覚したのか、 マンションまでついてくるなら傘を貸してやる、と御堂が申し出た。
アパートまで送ってやるほどの錯覚ではなかったようだ。
そして現在本多が玄関にいる。
御堂は棚から傘を取り出すと、本多に差し出した。
「ほら。さっさと帰れ」
「御堂さん。そんな。本多もせっかくここまで来たんだからお茶でも」
以前は知らないが、克哉と暮らすようになってから御堂は他人をこの部屋に入れないので、初めての来客だ。 せっかくだからもてなしたい。
それにこのまま帰してしまっては、今後本多と顔を合わせづらい。
「雨もまだ勢い落ちてないし。それに電車がストップしてるみたいですよ」
さっきニュースで言ってました、と克哉が言うのを聞いて、置物のようになっていた本多がようやく反応した。
「ええっ、まじかよ!」
「タクシーを拾えばいいだろう」
「無茶苦茶待ちますよ。昼過ぎに事故が起きたみたいですから、ここでちょっと時間潰してるうちに復旧すると思います」
というより、口論なんかしていなければ、電車が止まる前に帰れたのに。
とは口にしなかったが、どうやらふたりには聞こえたらしい。
気まずそうに目を逸らした。
結局ここまでつれてきたのは御堂なので、玄関先で帰れ、というのも憚られたのか、本多はリビングに通された。
ベッドルームへ着替えに行った御堂とは別に、克哉は本多を案内する。
「まさか御堂んちに来る日が来ようとは…」
ぶつぶつ言う友人にソファを勧めると、本多はつい、と克哉に目を合わせた。
「克哉。さっきから言おうと思ってたんだが、おまえ、その格好」
示されて、克哉ははっと気づいた。
Tシャツにジーンズの上に白いフリルのエプロンを着けていたことを、すっかり失念していた。
「ち、違うっ、これはっ、大隈専務に貰って、便利だからっ!」
しどろもどろで言い訳しながら、エプロンをはずす。
「大隈専務って、おまえ…しかも色違いまであるのか?」
ソファの背にかけてあったピンク色の「それ」を本多が持ち上げたとき、克哉は危うく叫んでしまいそうになった。
「いやこれはそのっ! ごめんっ! 片付いてなくてっ!」
本多の腕からピンクのエプロンを引ったくり、克哉は慌てて後ろに隠した。
よかった! 洗濯してあって、本当によかった!
洗濯して乾いたのでアイロンをかけようとここに置いたのだが、とにもかくにも洗濯済みであることを、克哉は天に感謝した。
大隈からもらった白いほうはキッチン用だが、御堂からもらったピンクのほうはベッドルーム用だ。
「なにを大騒ぎしているんだ」
着替えた御堂がリビングに入ってきて、さり気なく克哉の手からエプロンを二枚とも取り上げて、別室に放り込んでまた戻ってきた。
「突っ立ってないで、座ったらどうだ」
さすが年長者、というべきなのか。 本多は御堂の声に押されたように、ソファに腰を落とし、克哉はコーヒー入れてきます、とそそくさとキッチンに向かった。
やがてリビングは、窓を打ち付ける雨の音と、コーヒーの香ばしい香りに包まれた。
テレビのニュースでは、電車はいまだ復旧の目処立たず、と言っている。
「ちょっと早いけど、本多、ご飯食べてく?」
ひとりで暇だったので、朝から仕込んでおいたビーフシチューが今日の夕食だ。
御堂が帰って来る直前まで、とろ火にしたコンロの前に椅子を置いて、火の番をしながら語学学校の復習をしていた。
隣に座る御堂がそっぽを向いているので、いいですよね、と問いかけるつもりでソファに置かれた手の先にそっと触れる。
仕事や周囲との関係がうまくいくようになっても、克哉には親友と呼べる相手は本多しかいないが、 とかく御堂がいい顔をしないのが悩みだった。 どういう経緯にしろ、今日本多を部屋まで連れてきたのが御堂だということが嬉しい。
指を置いても反応がないので、軽くリズムをつけて叩いてみた。
た・か・の・り・さ・ん
勿論音にはしないが、呼びかけるつもりでじっと見つめた。
「…好きにしろ」
「ありがとうございます」
思わず腕に抱きついて、本多の前だと思い出して慌てて離れる。
第三者の目があって初めて気づいたが、克哉は家では御堂に密着しているようだ。
仕事中は周りに変に思われないように物凄く注意しているので、その反動かもしれない。
御堂と本多は時々口論になりかけたが、一応火がつく寸前で終わり、彼らにしては和やかに食事をした。
御堂もワインを出してきてくれたので、態度や口ぶりほどには不快に思ってはいないようで、克哉はほっとした。
このあと克哉に本多を車で送っていけ、と言われるのを避けるために飲酒したという可能性には目をつむった。
八時を過ぎて、電車もようやく復旧した。雨も止んだようだ。
立ち上がった本多は、リビングのチェストに飾ってある人形に目を留めた。
タキシードを着た男性がウェディングドレスを着た女性を抱き上げている、精巧な磁器人形だ。
本多の目線を追った克哉は苦笑した。
「それ。貰い物なんだ」
「へえ。 …俺もなんか贈るな」
「え、いいよ。今更引越し祝いでもないだろ」
「いや、そういうんじゃなくて」
ではどういうのだろう。と克哉は首を傾げたが、なにがいい、と聞かれたので「鍋」と答えた。
料理教室で一緒の、御堂より年上の独身女性から、外国製の琺瑯鍋がすごくいいと聞いたばかりだ。
本多は一瞬なにか言いかけたが、途中でやめた。
「なんだよ」
「なんでもない。長居しちまって悪かったな」
メシ、うまかった。ごちそうさん。念のため折り畳み傘借りてくな。
本多はそう言って帰っていった。
後日。
本多から本当に鍋が届いた。
「本多…」
克哉が思わず親友の名前を呟いた理由はふたつ。
ひとつは鍋の形が克哉が欲しかった楕円ではなくハート型だったこと。
もうひとつは箱についていた熨斗紙。
御結婚之御祝と書いてあった。
「オレ、御堂さんと付き合うようになってから、一生このお祝いだけは貰うことはないだろうと思ってたんですけど。 世の中ってわからないものですね」
淡々と言われて、御堂は黙ったまま横を向いた。
実は結婚祝いを貰うのは二度目だ。
せっかくだから、と克哉は先に貰った磁器の人形についていた熨斗と一緒に、本多の熨斗を抽斗にしまった。