君色の恋
3月半ばのある週末、克哉はリビングでガイドブックを開いていた。
4月下旬から5月頭にかけての大型連休に行く旅行の下調べだ。
去年の今頃はプロトファイバーの営業満了直前で、MGNへの引き抜きが決まった頃でもあって慌しかった。
忙しいのは今もだが、あのときは御堂と付き合い始めたばかりで、さらに目まぐるしかった。
週に何回くらい会って、会ううちの何回くらい抱き合っていいのか、毎日でも会って抱き合いたと言ったら嫌われてしまうのではないか、 などと考えすぎて、我慢できずに夜中に会いに行ったり、一晩中電話したりしていた。
一ヶ月過ぎたあたりで、お互いこれではかえって疲れるとわかってきて、その後はほとんど御堂の部屋に入り浸り、 アパートを引き払い本当に同居を始めたのは夏の終わりだ。
そのあたりから克哉は落ち着くことができるようになった。
捨てられたらどうしよう、とはこの頃はあまり思わない。
「行きたいところはあったか?」
御堂の掌が、克哉の前髪をかき上げるように額を撫でる。見上げて克哉は微笑んだ。
「御堂さんが好きな場所を見たいです」
「君の興味のあるところはないのか」
「御堂さんの好きな場所が、オレの興味のあるところです」
言ってから恥ずかしくなって、御堂のセーターに顔を押しつけた。
御堂の膝枕で本を見ている、という状態も、よくよく考えたら恥ずかしい。覆いかぶさるようにして、御堂が髪に唇を寄せてきた。
「君は誰の色にも染まるんだな」
え、と克哉が顔を上げると、予想に反して御堂は優しい顔をしていた。
「言い方が悪かったか。
君は相手によって自分を変えられるんだな、と言いたかったんだ」
軽々しい、と言われた気がして、克哉は眉根を寄せた。
御堂が好きだから、御堂の好むものを知って理解したいと思うことの、なにが悪いのだろう。
「怒るな」
御堂は克哉の額にキスを落とした。
「もし君が私ではなく別の誰かを選んでいたら、君は全然違うふうなんだろう。そう思っただけだ」
間髪入れず克哉は言った。
「オレは今のオレがいいです」
違う自分なんてない。
克哉はからだを起こすと、御堂に抱きついた。
御堂が背中に腕をまわそうとするのは止めた。
「駄目です。このまま」
傷ついたような顔をしていたが、自覚があろうとなかろうと、克哉が相手によって態度を変えているのは事実だ。
媚びるというほど稚拙ではなく、もっと巧みにさり気無く、対する相手の好きな自分を演出して好感を得ている。
だが同時に、決して情には流されない。
克哉のなかに驚くほど冷淡な一面が潜んでいることを、御堂は知っていた。
とはいえ、自分に対する気持ちを疑っているわけではない。
克哉には「恋人」と「それ以外」の明確な線引きがあって、御堂は「恋人」だ。
「…御堂さん」
このままで、と言った克哉が、わずかに体を動かした。
それみたことか、と御堂は笑う。
時々こんなふうに、ただ抱き締め合っていたい、と意思表示するくせに、たいていすぐにそれだけでは我慢出来なくなる。
「どうした? もう気が変わったのか?」
唇で耳朶をくすぐると、肩にしがみついてくる。
たとえば恋人が御堂でなければ、違う反応をするのだろう。
そう考えると、腹が立ってきた。
克哉にとっては理不尽な怒りだろうが、込み上げてきたものは仕方ない。
「このままで、と言ったのは君だろう?」
「そうなんですけど」
落ち着かない様子で、克哉はラグの上に転がるガイドブックの表紙を見ている。
大型連休に旅行を決めたのは御堂だ。
広い世界を見せて、視野を広げて才能を開花させる場を与えてやりたい。
御堂のそんな思いに、克哉は黙ってついてくる。
だが、時には。
「君がいいようにしろ。付き合ってやるから」
「…してくれないんですか」
期待を裏切らない歯痒そうな表情に、打って変わって御堂は愉快になる。
「そうだな。ホワイトデーのプレゼントということでどうだ」
「お返しはいらないって、御堂さんが言ったんじゃないですか」
「仕事も忙しいのに、あれやこれや考える必要はないと言っただけだ。貰える状況ならありがたく頂戴する」
克哉はなにか言いたそうに口を動かしたが、観念したのか唇を噛み締めた。
「…わかりました。じゃあ、御堂さんは絶対なにもしないでくださいね」
言い終えると、着ていたセーターを脱いで、御堂の両腕をうしろに回させた。
ひとつにまとめた手をセーターの両袖で縛られ、御堂は少し驚いたが、その気になればすぐに解ける程度のものだ。
「君もなかなかいい趣味になってきた」
克哉は頬を赤くして、上目遣いに御堂を見た。
「好きな相手に染まったんです」
甘える表情で、挑発する言葉。
「では、染まり具合を確かめさせてもらおうか」
御堂の両肩に手を置いて、克哉は顔を近づけながら言った。
「はい。孝典さん」